【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日3
CASE 01-2 とまどいの木曜日
「おはようございます」
軽く挨拶をして自席に着く。パソコンを立ち上げてメールを確認していると、渡辺がにやにやと笑いながら立っていた。
「彼女と上手くいってないとか言ってたけど、杉田のタイプって、ああいうすらっとしてる知的な綺麗系なんだな」
「いや、本当に美里とはしばらく会ってなくて……って、違う。お前には関係ないだろ?仕事中なんだし、用がないなら話しかけるなよ」
「はいはーい。上手くいってないなら今度の飲み会、お前も誘ってやろうと思ったけど、美里ちゃんに悪いし、やめとくな」
「え、飲み会?誰と?」
思わず問い返すと、渡辺は待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「四星商事の受付の子たちだってさ。きっと綺麗どころだろうな。お前は来れなくて残念だな!」
「あ、おい、ちょっと!」
渡辺は制止を無視してフロアを出ていった。何をしに来たんだ、アイツは。
気を取り直してモニターに目をやると、山崎かおりちゃんがこちらを見ていることに気づいた。今の会話を聞かれただろうか。
気まずさはあったが、別に付き合っているわけでもない。飲み会のひとつくらい、誰にとがめられる理由もないはずだ。
そう──美里以外には。
俺は仕事に集中することにした。
「杉田君、ちょっといいか?」
声をかけてきたのは直属の上司、黒澤部長。神経質なところはあるが、面倒見のいい人だ。
そういえば渡辺が「部長が怒っていた」と言っていた。俺、何かやらかしたのか?
「はい、何でしょう」
促されてパーティションで区切られたミーティングスペースに入り、部長と向き合う。
「見積書、ちゃんと確認してるか?昨日の日本スマイリーの見積り、桁が違ってたぞ」
「え、すみません!あれは確か……いえ、すぐに直します!」
日本スマイリー。昨日も同じ指摘を受けたはずだ。まさか、今日も同じ流れが──。
眼鏡のつるを指で押さえる部長を見つめた。確かこのあと、こう言うはず。
「まあ、間違えるのは良くないが、人間だから仕方ない。本来の仕事以外で損するようなことだけはするなよ。後輩を指導する立場で示しがつかないぞ」
やはり。そして次は──。
「数字を大事にしない人間は信用されないしな。あ、電話だ。ちょっと出る」
『数字を大事にしない人間は信用されない』
昨日と同じ言葉が、脳裏で反響する。鼓動が早まる。──やっぱり昨日と繰り返し。
「……あ、はい」
部長は携帯を取り出し、耳に当てた。
「もしもし、お疲れ様です、黒澤です。その件は今日の午後にはメールいたします。はい、はい、それじゃ」
昨日とまったく変わらないやり取りだ。
「悪いな、専務からだった。あの人もなかなかせっかちだからな」
部長は苦笑しながら眼鏡を直す。気が付くと喉が渇いていた。
「どうした?顔色が悪いぞ。体調でも崩したか?」
「い、いえ……本当にすみません。お恥ずかしい限りです」
胃が裏返るような感覚の中で、嫌でも理解してしまった。どう考えても、木曜日がもう一度来ている。理由はわからない。けれど間違いない。
「もういいから。じゃあ」
部長は肩を軽く叩き、去っていった。背中を見送りながら心の中で言葉が浮かび、そして消えていく。もう言い訳を重ねても無駄だ。部長の言葉は正論だった。
ひんやりしたテーブルに、重い身体を押し付けた。
「なんなんだよ……」
今日が木曜日なら——
昨日のスケジュールも、また繰り返されるはずだ。午後の外出、居酒屋での時間。
手帳を開き、スケジュールを確認する。再見積もりの修正と先方への謝罪を追加。あれは、確かかおりちゃんに頼んだ見積りだった。それでも、最終確認を怠ったのは俺だ。
大きくため息をつき、重い足取りで席へ戻った。机の上に置いたペンや資料はどれも見慣れている。それなのに、“昨日の残像”を帯びている気がした。
◼️
ちょっといいですか?」
お昼休みになり、そろそろ食事にしようかと思っていたところに、かおりちゃんが声をかけてきた。
「はい。どうしましたか?」
「あの、少し確認したいことがあるので、その──」
さっきの見積もりの件だろうか。誰かから聞いたのかもしれない。そう考えていると、かおりちゃんが小さく首を傾げた。ふわりと花のような香りが漂う。
「ああ、じゃあ、ちょっと移動しますか」
「お昼時にすみません。このあと外出でしたよね?」
「そうだけど、まだ時間はあるから大丈夫。……場所を変えた方がいい話かな?」
彼女が小さく頷いたので、人の少ない方へ向かった。会議室は前の会議が長引いていたため、仕方なく非常階段へ足を運ぶ。
「ここでもいい?」
「すみません、休憩中に」
「いや、大丈夫。それで、聞きたいことって?」
階段の数段下に立つかおりちゃんを見下ろす形になる。今朝の渡辺との会話を聞かれていたのだろうか。
「今朝、私見たんです。杉田さん、会社の入り口で、すらっとした綺麗な方と話してましたよね」
「え……」
すぐに美里のことだとわかった。今朝のやり取りを見られていたのか。いや、悪いことをしていたわけじゃない。──本当にそうか?誰に対して?
「私が訊ける立場じゃないのはわかってます。でも気になって……彼女さんですか?」
喉がからからに乾き、唾を飲み込む。直球の問いに、言葉が詰まった。
視線を落とすと、靴紐がほどけかけているのに気がついた。ふいに耳鳴りがした。
まだそれほど大きくはないけれど不快な耳鳴り。唾を飲み込んでも治らない。
「……なんていうか、別れる直前というか、説明が難しいけど……今も別れてはいない、のかな」
「それって、どのくらいですか?」
「ええと、4年……いや、5年くらいか。でも本当に最近はほとんど会ってなくて。今日も久しぶりに偶然会ったくらいで」
「……あの」
かおりちゃんの声が低くなる。
「私、前に飲みに誘ったとき確認しましたよね。彼女がいたら悪いからって。そのとき、いないって言いましたよね?」
「それは……もう別れてるようなものだし。そんなに気にすること、かな」
「は?」
声がさらに低くなり、今度は鋭さが増した。
「なんで隠すんですか。いないって言ったから誘ったんじゃけえ」
方言混じりの声に一瞬思考が追いつかない。
「お弁当まで作ってきたのに、馬鹿にするのもいい加減にしんさいや!」
睫毛に涙が光った、その瞬間、袋が飛んできた。
慌ててキャッチしようとするが、中のお弁当箱が飛び出して空中でパカッと開く。
──肉じゃが。
過去の会話が稲妻のようによぎる。
『お弁当美味しそうだね。肉じゃがとか好きだなあ』
『ホントですか?私作ってきますよ。ところで彼女さんとかっていないんですか?』
『いや……今は、いないよ』
『そうなんですね!じゃあ今度、飲みに行きませんか?』
『いいね、いつにしようか』
目の前にオレンジ色が迫ってきた。反射的に避けた瞬間、ほどけかけた靴紐につまずいて足元がぐらつく。とっさに手すりを掴もうと手を伸ばしたが、あと数センチ足りなかった。
視界のすぐ前に、人参の鮮やかなオレンジ色と、茶色い影がぼんやりと見える。
その向こうでは、驚きの色を浮かべているかおりちゃんの顔。彼女が手を伸ばしてこちらを捕まえようとしているのが見えた。
緑色の何かがぽとりと床へ落ちていく。
靴紐に足を取られ、視界が大きく揺れる。手は何も掴めない。かおりちゃんの手が空を切る。
──これは落ちる。
ふわりと重力から解き放たれ、次の瞬間には真下へと吸い込まれる。
途切れ途切れの耳鳴りを残して、意識が闇に沈んでいく。
肉じゃがの甘い香りがしていた。
▶︎四話
