【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日4
CASE 02 ふりだしの木曜日
いくら待っても衝撃はやってこなかった。ゆっくりと目を開けると見慣れた風景が広がっている。
すぐに全身を確認してみたけれど、特に痛みも怪我もない。煩かった耳鳴りももうしない。
――階段から落ちたのに? あの高さで無傷なんてことがあるか?
そしてまた、スーツではなく「ALOHA」Tシャツとハーフパンツに服装が変わっていた。
古びたグレーのタオルケットが足元に丸まっている。それも含めて、間違えようがない。ここは紛れもなく自分の部屋、ベッドの上だ。
手を伸ばしたスマホの画面には
『8月21日(木)5:25』
と数字が並び、恐る恐るテレビをつけると画面右上には「5:26」、そして「8月21日(木)」と表示されていた。ここまで、この前とまったく同じだ。
ああ、なんなんだ!
叫び出したくなる代わりに、顔を枕に埋めた。
「東京では本日で、18日連続猛暑日となる見込みです」
聴こえてきた音声は、予想通りヤマナカさんの言葉だった。
舌打ちをしながら昨日――いや、昨日と言っていいのかもわからないが――のことを思い返す。
いつもの電車に乗って会社に行ったら美里と会い、それが原因でかおりちゃんに呼び出された。
行動を変えれば出来事も変わる。ということは、そもそも家から出なければいいのではないか?
スケジュールは午後に約束が二件。一つは大事な案件だったから迷ったけれど、この際、背に腹は代えられない。
この奇妙な繰り返しの日々から抜け出すことが最優先だ。体調不良で休みの申請をし、取引先にはリスケのお願いをしよう。
忘れずに見積書のミスも修正し、PDFで送信するとようやくほっと息をついた。
「あー、もう一件あった」
そうだ、かおりちゃんにLINEを入れなければ。食事の約束は断ろう。
彼女は悪い子ではないのだろうけど、階段での豹変ぶりには驚いた。彼女の言い分はもっともだし、軽い気持ちで約束したことは謝った方がいい。
なんだか今日は謝罪ばかりだなと思いながら、コップに賞味期限の切れたアイスコーヒーを注ぐ。
しばらくネット動画を観ていたら、いつの間にか8時近くになっていた。
そろそろ会社に連絡を入れてもいい頃だろう。部長と取引先、そしてかおりちゃんに連絡を入れる。
部長からはそっけない「お大事に」の一言。取引先には渡辺が急遽代理で行くことになり、先方の都合でスケジュール変更はできなかった。
渡辺に謝罪すると「体調不良なら仕方ない、ゆっくり休めよ。今度昼メシご馳走しろ」と返ってきた。
かおりちゃんからの返信は意外にもすぐだった。文面は部長並みにシンプルだ。
『わかりました。お大事に』
スタンプすらない。文章だけで真意を伝えるのは難しい――そんな当たり前のことに今さらながら気づく。
再びベッドに沈み込み、見慣れた天井を見上げた。エアコンの送風口が定期的に開閉するのをぼんやりと目で追う。
今日はもう何もしたくない。うつ伏せになった、その時だった。チャイムの音が部屋の空気を切るように響く。
「……誰だよ」
勧誘か何かだろう。立ち上がる気力もなく、ベッドに転がっているスマホを手探りでたどった。
犬のアイコンが新着通知に並んでいる。美里からのLINEだ。
『仕事で近くまで来たから、荷物だけ取りにいくね。合鍵使わせてもらう。』
胸の奥が急にきゅっと締めつけられた。何かが終わりに近づいている気がした。チャイムの音がもう一度ピンポンと鳴る。
モニターを覗くと、美里が映っていた。
「……なんで」
なんで来たんだ。声にはならず、動悸だけが胸を打ち続けた。美里はドアの前でスマホを耳にあてている。
ポケットの中のスマホが震える。返信しようとした指が途中で止まった。ガチャ、と音がしてドアが開き、外の熱気が流れ込む。
目の前に、パンツスーツに身を包んだ美里が立っていた。手にはバッグを携えている。
「……いたんだ」
どちらからともなく声が出た。何も言えずに頷く。美里の表情に驚きはなく、けれど笑顔もなかった。
「休みだったんだね」
「有給消化するよう言われてて。疲れてたし」
「LINEしたんだけど、急にごめん。置いてた荷物、取るだけだから。すぐ帰るよ」
そう言いながらも美里は部屋に入ってきた。前と同じ慣れた足取りで、けれど背中はどこか遠く感じる。あっという間に荷物をまとめて大きくなった鞄を手にすると、ふいに立ち止まり、初めてこちらを見た。美里の視線がシンクで乾かしておいた、ビール缶に一瞬注がれた。
「……ちゃんと、ごはん食べてる?」
静かに落ちた言葉に、答えられなかった。
5年。終電を逃した夜も、営業成績が落ちた時も、美里は俺の話を聞いてくれた。強いように見えて、本当は繊細なところがあるのもわかっている。
結婚についても俺なりに真剣に考えたけれど、両親が不仲だったこともあって、どうしても結婚に積極的になれなかった。
子供のころ、母が泣きながら食卓を片づけていた場面を、俺はいまでも鮮明に覚えている。冷めた味噌汁の匂いと、箸のカチャカチャと当たる音、そして寝静まったあとに扉の向こうから響いてくる怒鳴り声──そのすべてが、今もこびりついて離れない。
結局、両親は離婚しなかった。それも“よくある話”だと大人になってから理解したけれど、積極的に家庭を持ちたいとは思えなかった。
それでも“二人でいる形”を模索した結果、事実婚という言葉に行き着いた。俺にはそれが精一杯の譲歩だった。
いっそ別れた方がいいのではないか。そう考えるたび、思考は読み込みエラーの動画のように、決まって同じところで止まってしまう。
「まだ、ちゃんとまとまってる訳じゃないんだけど」
息を整え、正面から彼女を見据える。
「前にも話したけど、今は結婚の必要を感じていない。もし許されるならだけど、とりあえず事実婚をして、何年か経ったら、出世して給料も上がって、ちゃんと家庭を支えられるようになったら、正式に籍を入れるっていうのはどう思う?」
美里は一瞬、言葉を失ったように俺を見つめた。やがて眉が震え押し殺した声が漏れる。
「……亮介、それって、結局は“今のまま”でいたいだけじゃない?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
「“籍を入れるかは数年後に考える”って、聞こえはいいけど、要は私を待たせておきたいだけでしょ。安心したいのは亮介の方じゃない?」
声は淡々としていたが、言葉の端々に鋭さがあった。Tシャツの背中に汗がねっとりと貼りついて、息を整えられなかった。
「……私ね、ずっと思ってた。亮介って、私の気持ちより自分がどうしたいかを優先するよね」
「そんなことは──」
「あるよ」
重ねるように言われ、俺は返す言葉をなくした。
「自分の都合を“考えた結果”みたいに言って。私がどう感じてきたかは、後回し?」
声は大きくなかったけれど、胸の奥に刺さる強さを帯びていた。俺は言葉を探したが、見つからない。美里は深呼吸をして続けた。
「待ったんだよ、私なりに。2か月間、ううん、もっと前から答えが出るのを待ってた。でも亮介は……曖昧にして、私に預けようとする」
彼女の目は真っ直ぐでそこに涙はなかった。代わりに研ぎ澄まされた怒りと諦めが入り混じっているように見えた。
「由紀、早坂由紀。あ、今は加藤だけど」
懐かしい名前だ。同じゼミで、美里の親友だ。俺は頷いた。
「早坂がどうしたの?」
「子供が生まれたって、写真見せてくれたの」
思わず息を呑んだ。結婚式の二次会に二人で参加した。早坂ももう母親なのか。
美里は視線を落とした。
「由紀ね、すごく幸せそうだった」
少し間を置いて笑う。
「私、亮介と歳を重ねていきたかっただけなんだけどな」
テーブルに一度置いた保冷バッグを再び手にする。
靴を履いて再びこちらを向くと、いつもの美里がそこにいた。
「本当は荷物は口実で、気になってたんだ。どうやって過ごしてるのかなって。あんまり飲みすぎないようにね。そうそう、最近のノンアルは美味しいらしいよ?」
声色と話題が変わったことに、ほっとしながら口を開く。
「あ、ああ」
「……そのTシャツ。まだ着てくれてたんだね。古いから捨ててもいいのに」
美里の視線がTシャツに注がれる。アロハの文字は確かにかすれていた。
彼女のスマホが震え出す。
「もう戻らないと。じゃあもう行くね」
冗談みたいに笑って玄関へ向かう。エレベーターの「下」ボタンを押し、並んで到着を待つ。
そのとき、美里の髪の毛からふとシャンプーの香りがした。思わず触れそうになった手をズボンのポケットに突っ込む。
「荷物持とうか? なんか多くない? それは?」
そんなことが言いたいわけではなかったが、荷物のバッグとは別の袋に手を伸ばす。
「これはもう、いいの。大丈夫、ありがとう」
チン、と音がしてエレベーターが開き、美里は乗り込んだ。俺もつられるように口を開く。
「美里……!」
彼女が振り返る。けれど、その目はもう揺らがない。
「大丈夫。……お互い、ちゃんと進もう。私、ちゃんと結婚して、あたたかい家庭を築きたいの。あなたの選んだ未来も、私が選ぶ未来も、きっと間違ってない」
その声は揺れなかった。だけど、美里の視線は一瞬だけ俺の胸元に落ちた。見慣れたシャツの皺を確かめるように──まるで記憶に焼きつけるみたいに。
美里の声は静かで芯があり、それがあとからじわじわ効いてきて、ボディーブローのように肺の奥を押し潰していく。
返す言葉が浮かばないうちに、エレベーターの扉は閉まり、美里の姿は視界からすうっと消えていった。
あたたかい家庭を望む彼女の言葉と、俺の中にまだ残る香り。その落差が、どうしようもなく胸を締めつける。返す言葉も行動も見つけられないまま、ただ立ち尽くしていた。
──これで本当に良かったのか?
気づけば反射的に下ボタンを連打していた。けれど行ったばかりのエレベーターがすぐ来るはずもない。
焦燥が全身を駆けめぐる。サンダルを履き直し、階段の扉を押し開けた。先日の階段での出来事が脳裏をよぎったが、非常事態だ、
仕方ない。一段下がるたびに足の裏に震動が重く響き、ビルケンシュトックなんて履かなければよかったと後悔した。
ようやくエントランスを抜け出ると、通りを渡った先に美里の姿があった。まさにタクシーへ乗り込むところだった。
「待って、美里!!」
声を張り上げるが、こちらには気づかない。走り出した足元が不安定で速度が出ない。片足のサンダルが脱げ、仕方なく抱えて裸足でアスファルトを蹴る。
「っ……!」
足に鋭い痛みが突き抜ける。何かが足の裏に刺さったようだ。それでも走る。周りの驚いた視線の中、ランドセルを背負った男の子がこちらを見て、指差して笑った。
――かまうもんか!
今、走らないといけない。追いつきたくて、言葉をかけたくて。肺が苦しい。
こんなに苦しくなるくらい本気で走ったのはいつぶりだろう。息を吸うたび胸が裂けるように痛い。
けれどタクシーのドアはスローモーションのように閉まり、走り出してしまった。
「待って……!」
最後の一歩を踏み出した瞬間、足元がぐらつく。体のバランスが崩れ、前に倒れていった。
咄嗟に手をついたが力が足りず、アスファルトに叩きつけられる。肩から腕にかけて鋭い痛みが走った。打ちつけた痛みよりも、自分が遅すぎたことの方が痛かった。
美里の願いを叶えられないのに何を言うつもりだったんだろう。
手のひらは焼けるようにヒリヒリしている。タクシーは加速して、どんどん小さくなって見えなくなっていく。
視界が少し、ぼやけた。
▶︎五話
