プロレスと実存主義――東京女子プロレスを見て考えた「自分が何者か」の話
プロレスに惹かれた理由をあれこれ考えていて、ふと「これは実存主義ではないか」と思った。
大げさに聞こえるかもしれない。実存主義そのものというよりは、そういう要素、側面、近しいもの。そのくらいの気付きである。もちろんプロレスは哲学書ではない。リングの上で行われるのは、投げ技であり、打撃であり、関節技であり、ロープワークであり、観客の前で展開される身体表現だ。
けれど、プロレスの核心には、かなり実存主義的なものがあるのではないか。
そんなことを考えた。
実存主義って何だろう
実存主義という言葉は、少し難しそうに聞こえる。
サルトルやカミュの名前が浮かぶが、ここでは厳密な思想史としてではなく、あくまで自分の考察やプロレス観戦の補助線として考えたい。
入口として分かりやすいのは、サルトルの有名な言葉だ。
「実存は本質に先立つ」
乱暴に言えば、こういうことだ。
人間は、生まれた時点で「お前はこういう存在だから、こう生きるしかない」と決められているわけではない。
何者として生まれたかよりも、実際に何を選び、どう行動したかによって、その人間の意味は決まっていく。
人は、自分の行為によって自分を作る。
もちろん、現実には生まれ、環境、身体、階級、才能、運など、さまざまな条件に縛られている。完全に自由な人間などいない。
それでも、その制約の中で、最後に何を選ぶのか。
どんな行為によって、自分が何者であるかを示すのか。
そこに私は、実存主義的な感動を見る。
プロレスラーには最初からラベルがある
この視点で見ると、プロレスはとても面白い。
プロレスラーには、最初からいろいろなラベルがある。
王者。
挑戦者。
ベテラン。
新人。
大型選手。
小柄な選手。
ヒール。
ベビーフェイス。
観客は、ある程度そのラベルを知ったうえで試合を見る。
「この人は強い」
「この人はまだ若い」
「この人は小さい」
「この人は大きい」
「この人は華がある」
「この人は悪役っぽい」
そういう前提を持って、リングを見る。
しかし、試合が始まると、そのラベルだけでは終わらない。
小柄な選手が、大きな相手の技を受けても立ち上がる。
新人が、格上の相手に食らいつく。
ヒールが、一瞬だけどうしようもなく美しく見える。
ベテランが、衰えを抱えながらもリングに立ち続ける。
負けると分かっていても、最後まで手を伸ばす。
そこで観客が見ているのは、単なる勝敗ではない。
この人は何者なのか。
この人は、何を背負ってリングに立っているのか。
この人は、どこまで自分を差し出すのか。
そこに心が動く。
勝ったから感動するとは限らない。
負けても感動する。
なぜなら、負けたとしても、その選手がリングの上で「自分はこういう存在だ」と示しきったなら、その敗北はただの敗北ではなくなるからだ。
風城ハル選手の試合で感じたこと
たとえば、5月の後楽園大会で観た、風城ハル選手のタイトルマッチだ。
風城選手は、鈴芽選手の持つインターナショナル・プリンセス王座に挑戦した。結果だけを見れば、ベルトには届かなかった。勝敗だけを記録するなら、「挑戦者・風城ハル、王者・鈴芽に敗れる」ということになる。
私はまだ、技の名前も細かい攻防も十分に語れない。
プロレスを見始めて日が浅いので、試合内容を専門的に分析できるわけでもない。
それでも、風城選手からは、気合というか、挑戦者としての気持ちのようなものが確かに伝わってきた。
向かっていく姿。
倒されても立ち上がる姿。
王者に届こうとする姿。
自分はこの場に立つ挑戦者なのだと、身体で示そうとする姿。
そこに強く惹かれた。
結果は勝利ではなかった。
それでも、「この人をまた見たい」と思った。
この感覚は、勝敗だけでは説明できない。
あのとき私が見ていたのは、風城選手が勝つか負けるかだけではなかったのだと思う。
風城選手が「挑戦者」としてリングに立ち、自分が何者であるかを身体で示そうとする瞬間を見ていた。
だから、負けても印象に残った。
負けても、そこに何かが立ち上がっていた。
「勝てるから立つ」のではなく、「立つことで証明する」
ここで重要なのは、勝てるかどうかだけではない。
勝てるから立つのではない。
立つことで、自分を証明する。
プロレスには、そういう瞬間がある。
明らかに格上の相手に向かっていく。
何度倒されても、ロープに手を伸ばして立ち上がる。
技を受けて苦しそうなのに、それでも相手を睨み返す。
負けたあとも、悔しさを飲み込んでリングを降りる。
もちろん、試合には物語がある。演出もある。役割もある。安全に成立させるための技術もある。
それでも、リングの上に身体があることは消えない。
息切れ。
汗。
受け身。
痛み。
立ち上がるまでの間。
技を受けた後の表情。
ロープに手を伸ばす指先。
カウント二・九で返す身体。
そこには、言葉だけでは済まない説得力がある。
物語の中で「私は変わった」と言うのは簡単だ。
しかし、リングの上では、変わったかどうかは身体で示さなければならない。
風城選手の試合で感じたものも、そこに近かった。
私は、ただ勝敗を見ていたのではない。
挑戦者としてリングに立つ姿を見ていた。
その人が何を背負い、何を選び、どこまで自分を差し出すのかを見ていた。
だから、勝敗を超えて印象に残ったのだと思う。
『さようなら、ドラえもん』の物語
この構造を考えていて、思い出したのが『さようなら、ドラえもん』だった。
有名なエピソードなので、詳しく知っている人も多いと思う。
ドラえもんが未来へ帰ることになり、のび太はひとりでジャイアンに立ち向かう。
私が一番好きなエピソードだ。
何回読んでも必ず泣く。
冷静に考えれば、のび太がジャイアンに勝てるはずがない。
体格も腕力も経験も違いすぎる。
だが、あの話で重要なのは、のび太が急に強くなったから勝つことではない。
弱いまま、逃げずに立ち続けることだ。
のび太は、「弱い子」「泣き虫」「ドラえもんに頼らなければ何もできない子」として見られている。
それが彼に与えられた役割、「本質」のようなものだった。
けれど、ドラえもんが未来へ帰ることになったとき、のび太は問われる。
ドラえもんがいないお前は、何者なのか。
ドラえもんは、のび太にとって困ったときに助けてくれる絶対的な救済者だった。
宿題を忘れても、ジャイアンにいじめられても、どうしようもない失敗をしても、ドラえもんがいれば何とかなる。
そのドラえもんがいなくなる。
救済のシステムが消える。
もう、困ったときに泣きつく相手はいない。
そこで、のび太はジャイアンに向かっていく。
未来へ帰るドラえもんを安心して送り出すために。
のび太は強くなったから立ったのではない。
立ったから、自分を変えた。
殴られる。
倒される。
ボロボロになる。
それでも立ち上がる。
「ぼくだけの力で、きみにかたないと……ドラえもんが安心して……帰れないんだ!」
これは、実存主義的な場面と見る事もできる。
「弱い子」「守られる存在」というラベルを、のび太は言葉だけで否定したのではない。
自分の行為によって書き換えた。
この見方をすると、『さようなら、ドラえもん』は単なる別れの感動話ではなくなる。
のび太が、自分に貼られてきたラベルを、自分の身体と行為で上書きする物語になる。
そして、私はプロレスにも同じものを見ているのかもしれない。
不条理に対して、それでも立つ
ここで思い出すのは、カミュの「不条理」でもある。
世界は理不尽だ。
努力が必ず報われるわけではない。
勝てない相手はいる。
どうにもならない運命もある。
それでも、人は立ち上がることができる。
カミュまで持ち出すと大げさかもしれない。
けれど、勝てる保証のない相手に、それでも立ち上がる姿には、理不尽な世界への反抗のようなものがある。
のび太がジャイアンに向かっていった夜も、まさにそうだった。
客観的には勝てるはずがない。
それでも立つ。
何度倒されても立つ。
その姿に、ジャイアンは最後に折れる。
のび太は腕力で勝ったのではない。
存在の強さで、勝てるはずのない相手をねじ伏せた。
プロレスにも、そういう瞬間がある。
明らかに格上の相手に向かっていく。
何度投げられても立ち上がる。
勝てなくても、観客の記憶に残る。
負けたのに、その選手が何者かは前よりもはっきりする。
そこに、私は惹かれているのかもしれない。
私は、勝敗だけを見ているのではない
プロレスにハマった理由の一つは、たぶんここにある。
私は、単に勝敗を見ているのではない。
単に派手な技を見ているのでもない。
リングの上で、選手が自分の存在を証明する瞬間を見ている。
勝てるから立つのではない。
立つことで、自分を証明する。
その人が何者であるかは、最初から決まっているわけではない。
最後に何を選び、何を身体で示すかによって決まる。
プロレスは、それを目の前で見せてくれる。
誰かが何者であるかを、身体で証明する場所。
そして観客は、その証明の瞬間に立ち会う。
その人が勝ったか負けたかだけではない。
その人が、何を背負い、何を選び、何を示したか。
そこまで見えたとき、プロレスは単なる興行ではなくなる。
リングの上に、実存が立ち上がる。
