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僕なりの京極夏彦ノすすめ、 それは 「狂魁殱の鬼」 いや 『鬼滅の立場』 かもしれないよ、 たぶんね|||シン小説 No.013

 薄曇りの喫茶店で湯気の立つコーヒーを前に、男の話を聞いていた。

 男の名は中禅寺秋彦。飄々としているようでいて、どこか底知れぬものを抱えている。

「マタギって知ってるかい、関口くん」

 中禅寺はそう切り出した。
 マタギ――山に棲み、山と人のあいだに立つ者。鬼とも書く、又鬼とも書く。

 鬼とは単なる化け物ではない。境界に立つ者の名であり、結界そのものだった。

 彼は語った。
 二〇二五年、熊の駆除数は過去最多の一万二千頭に達した。

 だがそれは、山が荒れたからではない。人が山を捨てたからだ、と。

 林業は衰退し、薪は要らなくなり、人は山を降りた。

 廃村が増え、山には権利だけが残った。
だがその法律の壁は、熊には通じない。

 その「壁」は紙の上に引かれた線で、昼はただの地図記号だったが、夜になるとどこか歪んで見えた。

 月光に照らされると、まるで地面から浮き上がるかのように揺らぎ、風が吹けば伸び縮みする。

 人には見えても、獣には見えない ―― いや、見えたとしても意味を持たない線だった。

 熊は境界を知らぬ。
 餌の匂いに惹かれ、人の気配が薄れた廃村に住み着いた。

 人慣れした第三世代の熊や猿は、もはや山から“降りてくる”のではなく、境界に棲んでいる。

 私が尋ねるまでもなく、中禅寺は廃村の話に移った。

 そこは、ただ人が去った場所ではなかった。時間そのものが澱んだ場所だった。

 畳は湿り、歩くたびにじわりと冷気を滲ませ、割れた窓から差す斜光は埃を金色に染めていた。

 錆びた農機具には蔦が絡み、誰も触れていないはずの戸が風に軋んだ。

 廃校の黒板には、消えかけた子どもの文字が残っていた ――「さようなら」とも「またね」とも読めぬ線が、静かに浮かんでいた。

 その廃村を、中禅寺は三年間、移り住んでいた。

 折々に街へ降り、人里の空気を吸い、また山へ戻った。

 人はどうしたか。
 街中で熊を撃った。
 それはまるで、増殖した末端の癌細胞だけを切除する手術のようだった。

 危険を冒し、騒ぎ立て、やがて慣れていく ―― ニュースはドキュメンタリーとなり、やがて過去ログになった。

「クマージェンシー、か。バズろうとしている間は、まだマシだよね」

 中禅寺は、そう言いながら苦く笑った。

 彼は猟友会の話を持ち出した。
 彼らの報酬は異常に安い。

 なぜか。
 それは、狩りが本来は生活であり、文化であり、娯楽でもあったからだ。

 獲れば食べ、売れば糧になる ―― それが当たり前だった。

 だが今、猟友は“善意の奉仕者”になった。

 街に出た熊を撃てと頼まれ、危険を背負い、しかも責任だけを押し付けられる。

 私は、ある老いた猟師の話を思い出した。

 手は節くれ立ち、銃を握るたびにわずかに震えていた。それでも呼ばれれば出ていく。

「街で撃たされるのは、もう勘弁してほしい」―― その声は、愚痴というより祈りに近かった。

 二〇一八年、ある猟師は、頼まれて街中で熊を撃った。にもかかわらず、住民に訴えられ、免許を取り上げられた。

「ウルトラマンが怪獣を倒しに来て、住民を踏み潰したから訴えられた ―― みたいなものだよ」

 と、中禅寺は皮肉る。

 やがて自衛隊が出動した。
 だが駆除は手伝わないという。
 周辺警戒、住民保護 ―― 見せかけの安心だけが整えられた。

「山で訓練すればいい。だが廃村は私有地だ。自衛隊の野営地にはできない」

 法律の壁は、熊には通じない。
 ゆえに、山に “鬼” を置かねば境界は生まれない。

 だが廃村は誰かの土地であり、勝手に住めば不法占拠になる。森に戻そうと手を入れれば、違法になる。

 ただ一つの抜け道――所有者が曖昧な土地を、国有林か国立公園に編入すること。国家が責任主体となり、そこに人を置く。

 それができなければ、境界は戻らない。

 中禅寺は、そこで自分の話を始めた。

 二〇二一年、彼は壊れた。
 身体は健在、頭だけが狂った。

 その狂気こそが、鬼になるのに都合が良かった、と彼は言った。

 熊よりも“ヤバい存在”になったと感じ、廃村を渡り歩いた。

 廃村を渡り歩く日々の中で、中禅寺は幾度も熊と遭遇した。それは狩人の遭遇ではなく、観察者の遭遇でもなかった。

 境界に立つ者と、境界を越えかねない存在との、むき出しの邂逅であった。

 ある夕暮れ、朽ちた神社の石段の下で、熊と目が合った。

 風は止み、鳥の声も消え、ただ山の匂いだけが濃く漂った。

 中禅寺は一歩も退かなかった。だが、前にも出なかった。

 彼は銃を持たず、石も拾わず、怒声も上げなかった。

 ただ、じっと熊の瞳を見据えた。

 熊もまた、動かなかった。
 咆哮も、威嚇も、爪を振るうこともなく、ただ中禅寺を測るように見つめ返した。

 その沈黙は、敵対でも服従でもない ―― 秤のような沈黙であった。

 やがて、熊はゆっくりと身体を翻した。

 逃げたのではない。敗れたのでもない。

 あたかも「ここは越えぬ」と自ら定めたかのように、静かに森へと消えていった。

 私は、思わず息を呑んだ。

「殺さなかったのではない。殺す必要がなかったのだよ」

 中禅寺はそう言った。

 彼にとって、鬼とは獣を討つ者ではなく、獣に “ここから先は違う世界だ” と理解させる者であった。

 存在そのもので線を引く――それが彼の言う境界だった。

 熊が自ら退いたとき、そこには不可視の結界が生まれた。

 熊も死なず、彼も死なない。

 力で制圧するのでも、理屈で説くのでもない、ただ “立つべき場所に立つこと” によってのみ成立する均衡。

 中禅寺はそれを『最適解の鬼』と呼んだ。

 その夜、廃村の闇はいつもより深く、しかしどこか静かであった。

 熊は、もう戻らず。
 風は穏やかで、朽ちた家々の影はただ佇んでいた。

 まるで、見えぬ結界に包まれたかのように。

 ある日、転機が訪れた。
 中禅寺の母が死にかけた。
 看護のために山を降りる機会が増えた。

 病院の白い光は、山の闇とあまりにも対照的だった。

 人の匂い、消毒の匂い、機械の規則的な音――その中で、中禅寺は、自分が “守るべきもの” を持ってしまったことを知った。

 山に戻るのが、怖くなった。

 そして決定的な出来事 ――
 八王子市役所の隣まで熊が現れた。

 それは侵入というより、迷いだったのかもしれない。

 熊はガラスに映る自分を見て戸惑い、車の光に目を細め、コンクリートの匂いに鼻を鳴らした。

 山でも街でもない場所に立ち尽くし、ただ自分の居場所を探しているようだった。

 境界はもはや、山の奥ではなく、都市の縁にまで迫っていた。

 世の中はようやく動き出した。
 裁判所は猟師寄りの判決へ傾き、行政は獣害課から、環境対策へ格上げした。

「今年の漢字」は熊になり、メディアの取材が中禅寺に殺到した。

 だが、彼はもう鬼ではなかった。
 人に戻ってしまっていた。

「いまこそ金を稼げる時だ。ヒトもモノもカネも揃った。でもね、関口くん ―― 僕はいま、どんな気持ちでいると思う?」

 彼は笑った。
 乾いた笑いでも、誇らしい笑いでもなかった。

 そして、こう続けた。

「もし八王子で、子どもが熊に殺されていたら、僕は本当に鬼になっていたかもしれない」

「でも、もうヒト・モノ・カネがある」

「だから ――
もう僕は必要ない。
人は勝手に助かっていく。
よかった、よかった。
本当に。
そうは、おもわないかい?」

 コーヒーは、とうに冷めていた。
 窓の外では、街が何事もなく動いている。

 鬼が消えた山は、騒がしくもなく、平和でもなかった。ただ、何かが抜け落ちたように静かだった。

 それは秩序というより、空白に近い。

 ニュースはやがて、ドキュメンタリーとなって過去となり、過去は記録になり、記録は人の記憶からこぼれ落ちる ――。

 私は、何も言えなかった。
 ただ、男の背中に漂う静かな空白を見つめていた。

 そのとき、喫茶店のガラスが、かすかに曇ったように見えた。

 外気が入り込んだわけでもないのに、内側から息を吹きかけたように、薄く、円く、滲んだ。

 私は、顔を上げた。
 歩道には、いつもどおりの人波と、車の流れと、街のざわめきがあった。

 それでも――そのざわめきの奥底に、ひとつだけ異物のような静けさが混じっていた。

 影が、揺れた。
 人影にしては重い。
 誰かが歩いたのか。
 何かが横切ったのか。
 判然としない。

 ガラス越しの街は、ほんの一瞬だけ、山奥の夜のように深く沈んだ。

 そして、ふと気づいた。
 境界は、もはや外にあるのではない。
 
 自分の眼の内側に、静かに立っているのだと。

 刹那 ーー
 まるで熊が、当たり前の顔をして街を歩いているのが視えた気がした。

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実を言ってしまうと、中禅寺というのは、彼が勝手に成り切っているだけなのだ。

ただ、この成り切りに付き合わないと、彼は語るのをやめてしまう。

『なりきり屋』と仇名されるほどのこだわりがあるらしく。

この、なかなか興味深い四方山話を、途中で終わらせるのも惜しかった。

すまないが、便宜上、中禅寺と関口ということで。


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