知識で20代に負けた。しかし悔しくなかった
別の部署に、前田という日本人がいる。20代男性。最近入社したらしい。
喫煙所で、私に話しかけてきた。
色白の薄い顔。ひょろひょろ体型。ド派手な柄のシャツに丈の短いダボダボパンツ。アーティストっぽいが、チャラ男にも見える。
技術部門の彼が、
「今どんな案件を扱っているんですか?」
と、ファイナンス部門の私に訊いてきた。
君に話してもわからんよ、と思ったが、ここは敢えて難しい話をしてやるか。
「製造委託先の設備をリース会計から外すため会計監査人と交渉しています」
「委託先の設備は、ファイナンスリースですか?オペレーティングリースですか?」
え(驚)
何者なんだ君は(汗)
それからしばらく、リース資産をバランスシートに載せるか否かの話をした。
こいつ、技術屋のくせに私と対等にファイナンスの話ができるのか。
そのあと彼は、最近読んだ本の話をしてきた。
東南アジアのある部族が独立国家を樹立しようとしている、とかいう話。
若いのにそんなことに関心をもっているのか。ますますへんな奴だな。
ここはひとつ、知識カードを切るか。
「それってムラブリ族とか?」
「いえ、ムラブリではありません。ミャンマーの部族です」
・・・・・・。
「ムラブリ族がわかるんだ」
「ええ。ムラブリを研究している言語学者の論文を読みました」
いったい、なんなんだ君は。
まずい、まずいぞ。
完全に劣勢だ。彼は、伊藤雄馬という言語学者のことまで知っている。私の発言がトンチンカンなのもバレバレではないか。
さらに彼は話題を変えた。
「最近面白かった映画とかありますか?」
今度はそういう話か。
ここで『ひゃくえむ。』とか言ったらバカにされそうだな。
こいつが絶対知らなそうなやつはないか。
「シリーズドラマだけど、『プルリブス』は面白かったかな」
「プルリブス。聞いたことないです」
と言って、彼はさくっとスマホで検索した。
「へえ。面白そうですね」
検索スピードが異様に速い。
「観てみます。ありがとうございます」
社交辞令ではなく、こいつは本当に観るんだろうな。なんなら数日で観終えて、感想を話してきそうだ。「あの場面はどう解釈しましたか?」とか言いながら。
「僕が最近面白かったのは、ユーラシア・グループが発表した世界10大リスクです」
今度は急に小難しいのきたな。
「化石国家のアメリカは、電気国家の中国に覇権を譲ることになると書いていましたが、〇〇さんはどう思いますか?」
むう。答えられん。
私は、微妙な笑みを浮かべることしかできなかった。
この20代のチャラ男は、私に意見を求める。年齢と経験への礼儀のようなものだろうが、彼は私の反応を静かに観察しているようにも見えた。
しかし、私は思った。
(いや、もう君のが上なんですけど)
彼はスマホを片手に話しているが、ほとんど使っていない。使ったのはプルリブスを検索したときだけだ。
彼の頭にはすでに膨大な知識と情報が実装されているのだろう。
20代の頃の自分と比べてみた。
年長者に関心を示すところや、知識欲が旺盛なところは似ている。
しかし知識の量がケタ違いだ。しかもスケールが大きい。20代の私は、世界を地政学的に捉えることなどできなかった。
そして彼は知ったかぶりをしない。
すごい20代に会ったな、と思った。
人は歳をとると、新しい知識をあまり増やさなくなる。
私も例外ではない。
一方、この若者は毎日のように知識を吸収している。
何十年もかけて蓄積してきた50代の知識は、世界に接続する20代に、一夜にして抜き去られるのかもしれない。
不思議と悔しさはなかった。
若者に知識で負けて、素直な気持ちになったのは初めてだった。
時代はここまで来ている、と彼から教えられた。
ただ、彼を新人類だとは思わない。
人が進化したわけではなく、テクノロジーが進んだだけだ。
彼はそれにきちんとキャッチアップできているにすぎない。
私が今20代だったら、しんどいだろうな。
常に知識と情報を仕入れていないと置いていかれる。
けっこうめんどくさがりな私は、彼ほどキャッチアップできる気がしない。
今どきの20代はたいへんだな、と思った。
同時に、もう知識の量がモノを言う時代ではないとも思う。
それがわからない彼ではないはずだ。
前田さんは、最後に必ずこう訊く。
「〇〇さんはどう思いますか?」
前田さんは、知識以外の何を私に求めているのだろう?
(次回)
