加藤清正が築いた一町一寺の城下町 🐈⬛ 古町歴史さんぽ
こんにちは。今回は昨年3月に熊本城下町の古町を散策した際のレポートになります。「古町」は「新町」と並んで加藤清正が熊本城の築城とともに造った城下町で、現在も往時の面影を色濃く残すエリアです。古町の特徴は、碁盤目状の中心に寺を配した"一町一寺"の町割で、今も各お寺さんが当時のままに残っているんですよ💡(熊本城下は西南戦争で焼けたので、建物は後年建て替えられた可能性高いです。)そして、その中の一つのお寺・阿弥陀寺の境内で、若干12歳で無実の罪で豊臣秀吉に自害させられた阿蘇大宮司・阿蘇惟光さんのお墓を図らずも発見した時は泣きそうになりました😢ので記事中盤でご紹介します。古町エリアには寺院の他にも古い町屋や大正期の洋館、若者たちが集う昭和レトロなスポットもありますので、是非一緒に町歩きを楽しんで行ってください❣️(8400字)


画像は現地案内板を拝借。
地図上の黒い線と○は市電(トラム)の路線と駅です🚋
それでは一町一寺のレトロな城下町歩き、行ってみましょ〜🏃♀️
早野ビル
まず最初にご紹介したいのが、慶徳校前電停近くの登録有形文化財・早野ビルです↓

めちゃくちゃカッコよくないですか〜?今でも現役の貸しビルなんだそうですよ💡確か一階の一部は貸しギャラリーになってたと思います。以下、大正レトロ感満載の早野ビルの写真📷↓



それでは先に進みましょう!市電の慶徳校前駅から右折して暫く歩くと、新町と古町を隔てる坪井川に出ます↓



ピーエスオランジェリ

明十橋のたもとに建つのは大正期建築の旧第一銀行熊本支店ビルです。現在では空調メーカー・ピーエス工業株式会社のオフィスビルとして活用されています。もちろん国登録有形文化財ですよ💡

さてこの「唐人町通り」が今も昔も古町のメインストリートです。北側にさっき渡った運河「坪井川」があることから発展し、往時は「花の唐人町」と呼ばれたそうですよ。今は町屋をリノベーションしたオシャレなお店が建ち並ぶスポットとなっており、イベントなどもよく開催されているようです💡それではこれから、ピーエスオランジェリビルから明八橋(後述)まで、唐人町通りを西に向かって歩いてみましょう👟↓
唐人町通り

何がイベントがあってるようですね。

西村邸

こちらは大正6年建築の旧商家「西村邸」。道路に面している部分は倉庫、坪井川に面して住居と船着き場があるそうです。(ネット情報。内部見学不可。今は別のお店として利用されています。) もとは油商で、東西の煉瓦は類焼防止のための防火壁だそうですよ😳


さて唐人町通りの西の端には町屋をリノベしたオシャレなコーヒーショップ「珈琲回廊」さんがあるのですが、↓

こちらには後ほど立ち寄ることにして、先にお店の北側に架かる「明八橋」をご紹介いたします☝️
明八橋

明治8年(1875年)に造られた「明八橋」は新町と古町を結んでいます。石工は山都町の通潤橋を造った名石工の1人、橋本勘五郎さんです💡国宝・通潤橋のレポート記事は本記事の最後に貼っておきますので、未読の方は是非!

右手、木の影に西村邸の防火壁が、奥遠方にはピーエスオランジェリビルがかすかに望めます(白いビルの手前)。
それではここらでちょっとコーヒーブレイクとしましょう☕️先ほどの珈琲回廊さんに立ち寄りたいと思いま〜す🤗
珈琲回廊

珈琲回廊さんは築120年の町家をリノベーションした珈琲店で、開放的でオシャレな店内で本格的な珈琲とともに和菓子も楽しめるんですよ🤤早速中に入りましょう🏃♀️


オシャレな空間とコーヒーでひと息ついたところで散策を進めます。明八橋から続く珈琲回廊さんの前の道を南に向かって進みましょう👟



◉一町一寺巡り◉
加藤清正公は熊本城を築く際にお城を中心とした城下町建設を積極的に行いました。
火事による延焼防止及び有事に備え碁盤目状に配した一辺約120mの正方形の区画に並べ、一区画ごと寺院を招致し(一町一寺制)、周りを町屋が囲む全国的にも珍しい城下町造りを行いました。
正方形の広い区画の真ん中に寺を配置し、周りを町屋で囲んだのは、敵の攻撃に備え、寺に武装した兵士を隠すための配置だそうですよ💡火災による延焼防止も、平時だけでなく戦時の火災も想定されてそうですよね。戦時はよく町に放火されてしまいますので。
西光寺(さいこうじ)
熊本城下の真宗三ケ寺のひとつ。
当寺は明応年間(1490年代)了宗という僧が山鹿郡片帆保田村に建立し、永正年間(1508)上洛して本願寺から西光寺の寺号を得て、3代目了勧の時に、加藤清正公の命により現在地へ移転しました。
県内の浄土真宗として最古の歴史を持っています。寺伝によると、西光寺の伽藍は熊本城築城の余材で造られ、加藤清正公も度々参詣されており、清正公奉納の「一切経」も大半が現存しています。
西光寺さんは県北の山鹿からこちらに引っ越して来たんですね💡このクールな解説板は各お寺さんに設置されているのですが、それぞれの寺の由来を読むと、加藤清正は県内各地の寺院を城下町古町に招致したようです。壮大な計画ですよね〜😲


更にこの道を南に進むと、図らずも運命的なお寺に出会すことになるのです。
阿弥陀寺

これまた広い参道の立派なお寺さんだなぁ、阿弥陀寺っていうんだ。と思いつつ、これまで同様にお寺の解説板に目を通して驚く私。↓

阿弥陀寺(あみだじ)
当寺は浄土宗阿弥陀寺といい、天正(1573〜1592)の頃、清正公領国の時、飽田郡南阿弥陀寺村より白川のほとりに移転し建立されました。しかし度々の洪水から、慶長(1596〜1615)の頃に現地に移っています。
当寺には熊本城築城の名手と言われた清正公四天王の1人である飯田覚兵衛・長尾豊前・清水家などの墓が祭られています。
また、文禄元年(1592)秀吉の命で12歳で命を落とした大宮司阿蘇惟光氏の墓も祭られています。
な、なんと!偶然にも武家としての中世阿蘇大宮司家最後の当主・阿蘇惟光さんのお墓にここで出会すとは😳❗️といっても皆さまにおかれましては阿蘇惟光って誰?って感じだと思いますので、ここで少し阿蘇惟光と加藤清正の関係、そして当時の時代背景について解説をさせて頂きます!
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阿蘇大宮司家(阿蘇氏)は、古代から続く阿蘇神社の宮司を勤める家系です。阿蘇氏は中世に武士化して肥後国を代表する氏族に成長しましたが、戦国時代の天正年間に転機が訪れます。
天正12年(1584)短命であった父•阿蘇惟種さんから当主の座を引き継いだ阿蘇惟光さん(当時3歳)でしたが、その頃の九州は龍造寺氏と大友氏を下した島津氏の勢いが強く、島津氏は天正13年(1585)阿蘇領内へ侵攻します。それにともない阿蘇大宮司母子(前大宮司夫人と当主惟光さんと弟の惟善さん)は、本拠である浜の館を捨てて山中に逃れました。
その後九州は天正14年(1586)豊臣秀吉の島津征伐によって豊臣政権下に組み込まれることとなりましたが、阿蘇氏は豊臣政権への対応が遅れ、当主である阿蘇惟光と弟の惟善自らが豊臣政権下の隈本城に人質に入るという事態になってしまいます。当初、秀吉から肥後を任されていたのは佐々成政でしたが、佐々成政はその後起こった肥後国衆一揆の責任を問われて切腹。その後、阿蘇郡を含む肥後北部は加藤清正に、肥後南部は小西行長に与えられました。そして阿蘇惟光は加藤清正預かりに、弟の惟善は小西行長預かりとなります。
秀吉は九州平定後に大陸侵攻を意図していましたが、秀吉子飼いの大名であった加藤清正と小西行長は文禄元年(1592)3月、朝鮮侵略の先鋒として朝鮮に出兵しました。そんななか、肥後では6月に薩摩の梅北国兼が肥後領内の佐敷城を占拠するという事件が起きます。(梅北の乱)当時12歳だった阿蘇惟光は秀吉から乱への関与を疑われ、隈本城近郊の花岡山にて自害させられてしまいました。全くの無実でしたが、そこには肥後で中世的領主として唯一存続していた阿蘇大宮司をなんとかして排除したかった秀吉の思惑があったと考えられています。加藤清正が朝鮮出兵で不在の間の出来事でした。これにより阿蘇家は断絶し、家臣や社家は離散。中世領主としての大宮司の時代は終焉を迎えました。惟光さんについて、矢部町史の記述をそのまま引用させて頂くと「幼少にして父を失い、戦乱の中に逃げまわり、また無実の罪で処刑されるという、まことに苦難に満ちた薄幸の生涯であった。(p.219)」この言葉につきます。私は惟光さんの死は郷土史上最大の悲劇だと感じています。
豊臣秀吉の死により朝鮮から撤退した加藤清正と小西行長でしたが、その後の関ヶ原合戦で西軍についた小西行長は敗死し、加藤清正が肥後一国の領主となりました。慶長6年(1601)加藤清正は存命していた阿蘇惟光の弟である阿蘇惟善に神主家としてのみ再興を許可したため、阿蘇大宮司家は現代まで存続し、現在の大宮司は第92代を数えます。
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因みに阿弥陀寺を訪れたのは折しも阿蘇氏の記事の連載中で、惟光さんについても度々記事で触れていた私。何というシンクロでしょう💫まるで阿蘇家がここに導いて下さったように感じました。それでは早速、境内にお墓参りにお邪魔します🙏


墓地には古そうなお墓や墓石が建ち並んでいて、惟光さんのお墓をなかなか探し出すことが出来ません💦どこなの〜?とうろついていると、案内板にもあった飯田覚兵衛さんの立派な供養塔を発見↓

幼少の頃より加藤清正の竹馬の友として育ち、天草志岐氏の攻略や朝鮮の役にて活躍し、加藤家三傑の一人といわれています。また、土木普請事業においても才腕を振るっており、熊本城の飯田丸は覚兵衛が築いたものといわれています。清正公の死後、加藤家を退身して黒田家に仕え、後に京都に移り住んで寛永9年(1632)9月18日に亡くなりました。この墓は供養塔です。
やっぱり、歴史に名を残す偉人の影には優秀な部下がいるんですね〜✨加藤清正は土木、築城の名手と言われますが、覚兵衛さんの力も大きかったんでしょうね🤔
そして探し回ること数分、阿蘇惟光さんのお墓をやっと発見することができました。↓
阿蘇大宮司惟光の墓


私はこの刻まれた「惟光」の文字を見て泣きそうになりましたよ。結局、惟光さんのお墓が阿弥陀寺にある理由や経緯はわからなかったのですが、阿蘇や山都町ではなく熊本城下町の加藤清正が誘致した阿弥陀寺にお墓があることから考えて、加藤家ゆかりの方が惟光さんのために建てたお墓じゃないかと思うんですけどね。それも、罪人のためにこんな立派なお墓は建てないはずだし、墓石に刻まれた「惟光」の文字には哀憐の念のようなものを感じました。私の勝手な推測なんですけど、上司である秀吉の命令とはいえ、長らく預かっていた若干12歳の惟光さんを自害させたことを加藤清正は不憫に思っていたんじゃないでしょうか。肥後国衆一揆後、肥後では豊臣政権への反抗勢力が一掃されたわけですが、秀吉にとっては幼少とはいえ中世から続く肥後の象徴とも言うべき阿蘇大宮司が生存していることが目障りだった。その結果、「梅北の乱」にかこつけて惟光さんを死に追いやったということだと思います。(証拠はありませんが、一般的に言われている説です。)加藤清正は秀吉の死の3年後、関ヶ原合戦の翌年である1601年、存命であった弟の惟善さんに阿蘇社の神主家としてのみ再興を認めました。このことからも、清正さんは阿蘇大宮司家と惟光さんに同情していたのではないかと私は感じます。余談ですが、図らずも清正さんにより阿蘇社再興を許された惟善さんは、中絶した阿蘇家関連文書の収集整理に努めたそうで、その後代々引き継がれた「阿蘇文書」は現在、肥後の歴史を知る上で史料価値の高い、数々の文献に引用される文書となってます。


さて長い歴史話はここまでにして、城下町散策を続けます♪ 阿弥陀寺のある通りの西側の裏通りは「小沢町通り」という情緒ある通りのようです。阿弥陀寺の先を右折し回り込んで小沢町通りに入ります。
小沢町通り



それでは阿弥陀寺前の道に戻り、白川方面へ南下しましょう🏃♀️


こちらの区画の中心に位置するのは、、
普賢寺


解説書によると、普賢寺は室町時代、菊池の泗水に創建されたそうなのですが、1605年に加藤清正の求めでこちらにお引越しされたそうです。本堂は明治10年の西南の役で焼失後に建て替えられたそうですが、境内や参道は移転当時のままで、四方に町屋を配した典型的な一町一寺の形を今に留めているそうです。確かに〜👍

それではここから東に進み、上の絵図の右端に位置する、今回の散策の最後のスポットである河原町に向かいますが、その途中の趣きある建物を以下にご紹介しながら進みますね。
早川倉庫



早川倉庫の道挟んで反対側の趣きある路地にも興味を惹かれて進むと、小さいけれど境内脇の楠?の大木が歴史を物語る神社さんを見つけました↓

カリーノMSビル



それではこのまま電車通りを河原町電停まで東に進みます👟


河原町繊維問屋街
河原町問屋街は戦後のヤミ市がはじまりで、多くの衣料問屋が軒を連ねた地域だそうです。昭和期に繊維卸売市場として栄えましたが、その後シャッター街となった街並みがリノベーションされ、現在では起業家を目指す若者が集まる場所になっています。昭和レトロ感満載のノスタルジックでアーティスティックな空間は写真スポットとしても人気とか。それでは早速散策してみましょう🏃♀️



私はジブリの「耳をすませば」に描かれたイタリアの職人街が思い浮かびました🌟



以上、河原町問屋街のレポートでした!若者が集う場所ということで、昭和レトロながらも私は昔訪れたサンフランシスコのヒッピー街•ヘイトアシュベリーに似た雰囲気を感じました👠
あとがき
古町はエリアごとに特徴があって、散策するのが楽しかったです♪ また加藤清正が作った一町一寺の町割りと寺院が今でも残っていて興味深い城下町でした。阿弥陀寺や普賢寺など、昔のままの配置であろう、参道が長く本堂が奥まっているお寺は境内が見通せないので、なるほど有事に兵を隠しておくのに都合がいいだろうと感じました。
最後にこの城下町を作った加藤清正さんについて思うことを少し。加藤清正は武断派のイメージが強いですが、やりすぎ城とも言われるほど防御に堅い熊本城やこの町割りを設計したこと、そして土木の神様と言われるほど治水事業に長けていたことから、かなりスマートな実務家な印象を持ちました。それはハード面だけでなくソフト面にも言えると思います。加藤清正は肥後の領主になった際、肥後国衆一揆で荒廃した肥後国内を治水と灌漑事業によって豊かにし現在の熊本の基礎を築きました。また阿蘇神社を再興させるなど太陽政策で臨みました。そのため今でも熊本県民から「せいしょこさん」の愛称で慕われているのですが、私は清正さんはかなり人心掌握術に長けたスマートな方だったんだと感じます。もちろん、太陽政策で臨んだのは、在地豪族や領民達に嫌われて一揆を起こしてしまった佐々成政の轍を踏みたくなかった、治水事業で国力を上げたかったのは、秀吉の意思に沿って肥後を大陸出兵の兵站地として早く復興させる必要があった、また、阿蘇氏、阿蘇神社、阿蘇山西願殿寺の坊中復興も、いまだ勢力を保っている阿蘇家と阿蘇神社、西願殿寺を自己の支配と管理下に置いておきたいという思惑もあったはずです。しかし、それを領民に感謝されながら一代でやってのけるところに凄さを感じますね✨それでも、清正さんは計算高く太陽政策を行った訳ではなく、惟光さんへの同情や領民への親しみを持った心の通った人だったんだろうと思います❣️

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【参考文献•Webサイト】
•矢部町史編さん委員会 矢部町史 昭和58年
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年
•古町散策町図 ambula map
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街歩きにはこちらのマップが便利かも↓
もう一つの熊本城下町・新町の散策記事はこちら↓
国宝・通潤橋の散策記事はこちら↓
中世阿蘇氏と阿蘇惟光さんについての記事はこちら↓
肥後国衆一揆についての記事はこちら↓
