〜中世肥後の終焉〜 肥後国衆一揆最後の砦⚔️田中城跡
こんにちは。年明けにと告知しておきながらだいぶ遅くなってしまいましたが、今回は肥後国衆一揆の舞台の一つで国指定史跡の山城・田中城跡のレポートをお届けします。(熊本県玉名郡和水町。散策は昨年10月に行いました。)田中城跡近くには廃校になった小学校を活用した『田中城ミニミュージアム』もあり、懐かしい雰囲気に癒される素敵な歴史資料館でしたのであわせてご紹介します💕更に、つい先日2/9に『戦国肥後国衆まつり』と銘打った、田中城を有する和水町の一大イベントがありましたので行って参りました😆その時の様子もおまけとして最後に写真を載せましたので是非見ていって下さい❣️(12000字💦)
※今回は前後編で分けたくなかったこともあり、最近の記事では珍しく1万字超えの長大作となってしまいました🙇♀️頑張って書きましたので、楽しんで頂けましたら嬉しいです。

田中城は福岡県との県境•和水町にあります。
歴史と文化のふれあい広場
それでは早速、田中城跡の南の麓にある「歴史と文化のふれあい広場」から散策をスタートしたいと思います。こちらの広場には十数台分の駐車スペースがあり、田中城散策の🅿️として便利です。そして広場には案内板と、田中城の城主であった和仁氏の銅像がありますので先ずはそちらをご紹介して散策のプロローグと致します☝️

芝生広場奥の、杉の木?が立ち並ぶ丘陵が田中城跡です。

田中城は、戦国末期に隆盛を誇った肥後国衆の一人、和仁氏の居城であり、和仁城•和仁古城などとも呼ばれている。天正15年(1587)一旦は豊臣秀吉に服従した国衆たちは、秀吉から肥後一国を与えられた佐々成政の強引な支配に反抗して、同年7月から実力で抗争を始めた。いわゆる肥後国衆一揆である。
田中城は、一揆の最後の拠点のひとつで、秀吉方の一万の大軍に対し和仁氏と辺春氏の兵約900人が2ヶ月余りもたてこもり抗戦の末ついに落城したと伝えられている。この戦いの様子は、従来あまり明らかでなかったが、最近になって山口県立文書館の毛利家文庫のなかから当時の城攻めの絵図が発見された。絵図の中央には、棚や深い堀をめぐらした上にやぐらを立てた防備厳重な田中城の姿が西側から見たように描かれ、和仁氏•辺春氏の陣も区別されている。その周囲には二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)•安国寺恵瓊•鍋島直茂•立花宗茂などの秀吉側の大名の名がわかる。また図には2ヶ所の『仕寄(しより)』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。
この絵図には、さらに軍中法度(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡と比べてみる時、興趣はいよいよ深まることであろう。

中央が田中城主•和仁親実、左が親宗、右が親範。
田中城の何が凄いかというと、案内板にもあったとおり、詳細な陣図が残っていて、山城も遺構が綺麗に残っていて、兜や馬具、茶器まで出土しており、当時の様子をありありと想像できるところなんです😤合戦がここで実際にあったんだ!というリアリティを強く感じさせる度では、全国でも有数の山城ではないかと思います✨
さて田中城とそのストーリーへの期待感が高まったところで、先ずは事前勉強を兼ねて、ここから500mほどの距離にある田中城ミニミュージアムに皆さまをお連れしたいと思います☝️そちらで案内板にもあった毛利家の陣中図(複製)や出土品が見れるんですよ♪ 肥後国衆一揆の詳しい説明もそちらで合わせてしたいと思います❣️
田中城ミニミュージアム

田中城ミニミュージアム


因みにこちらには地元の管理人さんがいらっしゃって、丁寧に展示品の説明をして頂きましたよ🙏展示品の写真撮影とSNS投稿の許可も頂いたので、私が見たままの感動を写真と共に皆さまにシェアさせて頂きますね!

ミュージアムの展示物をより楽しんで頂くために、まず最初に肥後国衆一揆の概要を説明させて頂きます☝️
戦国時代の1500年代の肥後国は菊池氏の衰退で守護職は不在となり、豊後大友氏の緩やかな支配の元で地方の小領主(国人)達が群雄割拠している状態でした。その頃の九州では大友氏、島津氏、龍造寺氏の三雄が力を持っていたのですが、1578年に大友宗麟が耳川合戦で島津氏に大敗し、1584年に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津氏に敗れ戦死すると、島津氏の九州制覇がいよいよ目前となります。そんな折、天正15年(1587)豊臣秀吉は島津征伐を目的として九州に出兵し、島津氏はあえなく降伏。豊臣の九州平定が成ります。肥後の国衆達も秀吉の九州征伐の過程で秀吉に降り、(領地は削減されたものの)本領安堵の朱印状を貰っています。その年の6月、秀吉により佐々成政が肥後の国主に任命されます。(居城は現熊本城近くにあった中世隈本城)しかし同年7月、成政の検地に反対して肥後の国人達が蜂起します。これが今回とりあげる肥後国衆一揆と言われるものになります。
肥後国衆一揆は旧菊池氏と阿蘇氏の家臣だった国衆達が中心となって起こされたと言われます。一揆の口火を切ったのは旧菊池家重臣の隈部氏。菊池の隈府城に立て籠もった隈部親永は佐々軍に攻められ、隈府城落城後は山鹿の息子親泰の居城•城村城に退きました。この間に一揆は肥後全土に広がり、佐々成政が山鹿攻めで隈本城を不在にしている隙に、甲斐氏をはじめとする阿蘇家家臣団が隈本城を攻めました。(因みに肥後の筆頭国人であった阿蘇大宮司(阿蘇氏)は幼少の当主•阿蘇惟光が隈本城に人質として入っていました。)一揆勢は隈本城救援に引き返す途中の成政の甥•佐々宗能を討ち取るなど奮闘しましたが、豊臣軍の援軍の力もあって同年12月には一揆は鎮圧されました。一揆に参加した国衆達はことごとく処刑され、肥後国衆一揆は幕を閉じることになります。


今回取り上げる田中城は国境近くの左上矢印の場所です!
因みに中立の立場を取ったとされる肥後南部の相良氏は、秀吉の九州出兵時、当主は年少の相良長毎さん(14歳)だったのですが、相良氏には犬童氏と深水氏というスーパー重臣がいてですね〜✨秀吉が八代に着陣した際、相良長毎さんと犬童休矣さんは島津氏に従軍して日向国にいたのですが、深水宗方さんがすかさず当主の弟を連れて八代の秀吉陣に挨拶に出向いて所領安堵を願い出たんです。深水宗方さんは連歌の達人で、秀吉に大阪に来るよう誘われる程気に入られて、相良氏は速攻本領安堵。深水さんはすぐさま日向の当主と犬童さんに使者を使わし、相良家は島津氏を早々に見限って豊臣についたというわけです。なので相良氏だけは秀吉のお気に入りというわけで、小国だけと大名の地位を認められ、明治まで人吉藩主として存続することになります。個人的に、相良氏は難しい局面にあって当主•深水氏•犬童氏のトライアングルが信頼関係のもと上手く機能して、時代の転換機を乗り切ったなという印象を抱いています。3人グループって上手くやっていくのなかなか難しいと思うんですが(経験上)、『3本の矢』と言われるように3方がお互いの領分を侵さず、かつ強い信頼関係で結ばれていたら凄い力を発揮するんじゃないかと感じます。それは、南北朝時代の征西将軍宮•五條氏•菊池氏の連携による快進撃にも言えることではないかと感じています。(脱線してすみません😅)

それではここから、本記事の主役•田中城主の和仁氏の話に入っていきたいと思います☝️

天正15年(1587)豊臣秀吉が九州を平定すると、肥後の領主(国主)に佐々成政を任命します。その後、佐々成政の検地に反抗して起こった肥後国衆一揆に和仁氏も加担し、姉婿の辺春親行とともに田中城に立て籠りました。
約40日籠城した後、最後は辺春氏の裏切りにより城主和仁親実は討たれ、落城したといわれます。この時田中城を取り囲んだ秀吉陣は、小早川秀包を総大将として安国寺恵瓊、立花、鍋島などの九州の諸将で、約一万の大軍であったといわれます。
九州の諸将とありますが、田中城を包囲した豊臣勢は田中城から距離的にも近い久留米の小早川、柳川の立花、肥前の鍋島らの諸将だったようですね。因みに総大将の小早川秀包はこの時二十歳と若かったこともあるのでしょう。副将として知略に長けた安国寺恵瓊が付き、実質的な指揮は安国寺が取ったようです。それに伴い芸州衆(毛利勢)も参戦しています。因みに佐々成政は田中城攻めには参戦しておらず、当時は八代にいたようです。成政が八代にいた理由や、八代含む肥後南部の当時の情勢はよく分かってないようなのですが、人吉市史によれば、一揆の鎮圧に出陣しようとした島津氏を別の意図があるのではないかと警戒した佐々成政が、人吉の相良氏に島津氏の肥後入りを阻止するよう頼んだとか。それで相良氏が動き、それを知った秀吉が激怒したそうですが、前述の秀吉のお気に入りの深水宗方さんが弁明して事なきを得たとのこと。そんな事があったとすれば、成政さんは島津氏の動きを警戒して八代方面に出向いていたのかもしれませんね🤔
長々とすみません、ここからは本当に田中城と和仁氏の話に入りますね😅和仁氏については国衆一揆の際の親実さんの祖父の代までしか分かってないようですが、和仁氏は南北朝時代の1340年、宮方(南朝方)として鰐城(和仁城=田中城)に拠って戦ったことが北朝方の文書により分かっています💡

和仁親実らは天正15年10月末に田中城に籠城し、1万の大軍を相手によく持ち堪えましたが、同年12月5日、安国寺恵瓊の計略により辺春親行が寝返り、田中城は落城しました。結局、寝返った辺春親行も和仁一族同様に殺されてしまったようです。私は、おのれ安国寺め〜、協力者の辺春氏を騙し討ちにするなんてひどいやつだ!なんて思っていたのですが、田中城落城後、安国寺恵瓊が佐々成政へ宛てた以下のような文書が残っているようです💡(袖留木文書)
田中城は一昨日(12月5日)落城しました。誠に大慶に存じます。我々も安堵しました。この度の戦いで辺春能登守が忠義をつくしましたので本領(秀吉が与えていた領地)の半分もつかわしてよいでしょうか
安国寺恵瓊は当初、辺春氏をまっとうに扱おうとしていたんですね。安国寺さんの汚名が晴れてよかった☀️豊臣秀吉は一揆参加者は厳しく処分する方針だったので、辺春氏もきっと秀吉の命で処刑されてしまったのでしょう😢また、この文書は、田中城落城の正確な日付が分かり&辺春氏の寝返りにより落城したことが裏付けられた貴重な史料となっているそうです。
さてここで耳寄りな情報です💡ここ田中城ミュージアムでは、2002年に熊本県玉名郡三加和町(現和水町)が作成した、田中城の攻防を描いた地方映画『おんな国衆一揆』が無料で鑑賞できます❣️この映画、私も観てビックリしてしまいました😳地方映画と侮るなかれ、監督は有名な三池崇史さんで、大河ドラマを観ているのかと錯覚するほど俳優陣もとてつもなく豪華でした✨主要な配役だけ下記に列挙しますが、鼻血が出るほど豪華でしょ?(20年前の映画なので皆さん若いです✨)
豊臣秀吉役 竹中直人
北の政所 潮谷義子(当時の熊本県知事)
佐々成政 石橋蓮司
和仁親実 原田芳雄
和仁親範 布施博
和仁親宗 遠藤憲一
辺春親行 北村一輝
映画の中で印象に残った点を少し。まずは田中城主•和仁親実役の原田芳雄さんの名演技。めっぽう強いんですが子煩悩の設定で、最期、まだ線の細い10代半ば?の息子を庇いながら奮戦し、立ったまま絶命するシーンは泣きそうになりました。終始渋カッコよくてさすがの演技でした。そして裏切りを敢行する辺春親行役の北村一輝さん。心が揺れ動き苦悩する役柄がセクシーでした。それから、城主和仁親実の弟•和仁親宗役の遠藤憲一さん。一番爽やかで好青年な役柄で、観ていて惚れそうでした笑 多分、和仁親宗さんは地元で愛されている人物なんだろうなと想像します💭以下、俳優陣のあまりの豪華さに興奮して画面を撮った写真↓


全てのシーンで貫禄の演技でした。

なお、『おんな国衆一揆』とあって主人公は北村一輝さん演じる辺春親行の妻(和仁親実の姉。映画では妹の設定だったかも?演じたのははた三恵という方)なんですが、実家と裏切った夫の間で揺れ動く女性心理が描写され、戦国時代は男性よりむしろ女性の方が生きるのに大変だったかもしれないと感じました。因みに映画は史実に基づきながらもフィクションです。最後は絶対そんなことありえない的な展開なんですが、エンターテイメントとして面白く、同じ女性としては爽快感を覚えました。(個人の感想です。)
何の力が働いてこんな豪華な配役になったのか謎が多い映画ですが、見ないと損なので、田中城とミュージアムに行かれる際は映画の時間も考慮に入れて行かれてくださいね☝️(映画は一時間ほどです。)
さてさて長らくお待たせしました!映画の話で田中城攻防戦が具体的にイメージできたところで、私が印象に残ったミュージアムの展示物をご紹介します。


そして展示物の1番の目玉、『辺春和仁仕寄陣取図』。複製の掛け軸よりパネルの方が見やすいので、下記にパネルの写真を載せますね。↓

ここ和水町にある田中城は、肥後国衆の一人である和仁氏の居城でした。天正15年(1587)に勃発した「肥後国衆一揆」では和仁氏や辺春氏が立て籠る最終拠点となっていました。
その際、豊臣秀吉軍が作成した「辺春和仁仕寄陣取図」は日本最古の陣取図として知られています。
この絵図によると、田中城の周りに二重の柵列を設け、田中城の西に総大将小早川秀包軍、その南隣に安国寺恵瓊軍、南に立花宗茂軍、東に筑紫軍、北に鍋島直茂および肥前衆が取り囲んでいます。
さらに『軍中法度』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、当時の合戦の指揮がどのようなものであったかを伺わせます。
現代語訳
1 各陣を繋ぎ合わせた外廻りの長さは50町
1 田中城と各陣との距離は3、4、5町
1 仕寄(攻め口)は4口で、芸州衆が1口、
立花が1口、肥前衆が1口、筑紫が1口
軍中法度
1 喧嘩をしてはいけない
1 商品の値段を強引に値切ったり、おどして安く
買い叩いたりてはいけない
1 戦の指揮は安国寺恵瓊と小早川秀包に従い、
めいめい勝手に戦ってはいけない
陣地を築いたりするのも、安国寺と小早川の
命令に従い、勝手にやってはいけない

↑の航空写真だけでも分かりやすいのですが、ミュージアムには更に航空写真にCG動画で戦いの様子を再現したものもあり、分かりやすくて興味深かったです💡

写真中央が後ほど散策する田中城跡

この絵図は豊臣秀吉が後の五奉行の一人である小早川隆景に命じて作成させたものだそうです。当時の秀吉の隆景宛書状によると、隆景自身は久留米城に控え、第一段階で小早川隆景の弟の小早川秀包(実際は毛利元就の子で隆景の養子)と安国寺恵瓊が出陣し、それで事が進まなければ隆景の出陣を計画していたようです💡実際は隆景自身が出陣することなく田中城は落城したのですが。
さてミュージアムにて事前勉強を終えたところで、いよいよ田中城跡へと向かいます🏃♀️田中城ミュージアムには昼過ぎに来たのですが、思いの外長い時間を過ごしていて(映画も見たし)この時点ですでに15時をまわっていました。管理人さんにお聞きしたところ、田中城はすぐ近くで散策には時間はかからないとのことでした。また、雨で道が悪いだろうからと長靴を貸してくださいました🥹✨ミュージアムの開いている16時までに戻ってきて長靴をお返しします!と約束して現場へと急ぎます。(車で。城跡の脇にも駐車場あります。)
田中城跡
田中城は肥筑山系から南に伸びた舌状地形を独立させた山城で、南端および北西部は断崖絶壁、他は全て急斜面で人が容易に登れない天然の要害となっています。↓


当時は10月で彼岸花が綺麗でした。
当日はあいにくの雨天で駐車場に着いた時も結構降っていて不安だったんですが、史跡に縁があるなら雨は必ず止むはずと、雨雲レーダーで普段はみない福岡との県境近辺をみながら車中で待つこと数分。雨が小降りになったタイミングで外へ出ると、早速いくつかの案内板と石碑が目に留まります。


解説板によると田中城北側のここ周辺は三の丸で、当時は和仁親宗さんが守っていたそうです。(並外れた風貌から人鬼と呼ばれ、南蛮人とのハーフ説のあるあの方ですね💡)解説板にもありがすが、親宗さんは唯一生き残り、行方はわからないとの伝承があるようです。人気者ゆえ生き残っていてほしいと願う人々の気持ちが表れているようですね。

それではいよいよ、主郭を目指して田中城の丘陵を登って参ります👟



あの辺の山には絵図によれば丁度肥前衆が陣取っていた。
主郭までの道のりは小雨が降っていて傘をさしながら登っていたのですが、例によって急に強風が吹いてきましたよ🌬️(因みに一人で史跡や神社を訪れると7割方結構な強風が吹き始めるんですが、私はその史跡縁の先人達の歓迎のしるしだと勝手に思ってます笑)
こりゃー傘は無理だわ、と傘を畳んだところ、ちょうど主郭の前に着いたようです。↓


福岡県境から続くやまなみから、和仁川流域に広がる田園地帯を臨むように延びた舌状台地がある。根元を断ち切ることにより、この丘陵を独立させて田中城が造られている。
中央部に平坦な一区画(約1700m2)を設けて、これを主郭(本丸城の中心)となし、約2mの段差をつけて西側を除く三方に曲輪を造っている。さらに現状で約10m下方に、約300mにわたって空堀を巡らしている。この空堀を巡らせることにより、南•北•西の3ヶ所には高台が残っており、古くから地元では物見やぐらと呼ばれていた。
発掘調査によると主郭からは14棟の建物址が、さらに周囲の曲輪からは、主郭を取り巻くような堀も確認された。空堀は現地表面から約6mも掘り下げてようやく底が現れ、主郭との比高差は約16mとなり急な崖面が続く。空堀の規模は幅9.42m、深さ4.63mで大土木工事をうかがわせる大規模な空堀が出現した。さらに平成元年、田中城西側の和仁川流域に広がる田園地帯が圃場整備されることになり試堀調査の結果旧河道が見つかり、これが自然の外堀として使われていた可能性がある。さらに田中城との間は湿地としていた様子が確認され、空堀と合わせて非常に堅いまもりとなっていたことも解ってきた。

それでは以下、城内の散策写真を掲載します💡

多分二の丸の一部かな?



人鬼親宗の風貌も描かれていますよ💡



私の今回の散策はここで時間切れとなり、急ぎ田中城ミュージアムに引き返したのでした。欲を言えば、主郭の西の下方にある井戸跡と、田中城の安泰を願って西の崖面に室町末期に掘られたという摩崖仏を見てみたかったです。これから行ってみようかなと思われる方は是非そちらも散策されてみて下さい!
あとがき
ミュージアムに戻ると、管理人さんが「またおいで!」と見送ってくださいました✨こんな田舎にきてもらってとも仰っていましたが、私は声を大にしていいたい、田舎だからいいんです!昔のままの雰囲気がそのまま残っていて✨そして、こんなに素晴らしく史跡を管理していただいてありがとうございますとお礼をいいたいです。なんでも田中城が発掘調査と史料探しを経て国指定史跡になるまでには旧町長さんの並々ならぬ熱意と努力があったとか。我々が今こんなに充実した史跡散策を楽しめるのは、地元の方々の努力のおかげだということを忘れてはいけませんね。今回は素晴らしい史跡、美しい自然、そして地元の方との交流と、史跡巡りの醍醐味を味わい尽くせたこれぞ歴史さんぽ!といった一日でした💓田中城は、歴史好きな人は全国から見学に来るそうですよ。熊本の隠れた名所、田中城跡、是非皆様も立ち寄ってみて下さい。因みに和水町は大河ドラマにもなったマラソンランナー金栗四三の出身地で生家記念館もあるみたいなので、合わせて訪問をご検討ください❣️
最後に肥後国衆一揆のその後について軽く?書いて本記事を終わりたいと思います。
肥後を大陸出兵の兵站地とする構想を抱いていた豊臣秀吉は、肥後での国衆一揆勃発の一報を受け激怒したといわれます。京都で開催していた大茶会を急遽とりやめ、自ら指揮して一揆鎮圧のために諸将を派遣しました。(映画では秀吉役の竹中直人さんの演技が絶妙でした。)一揆鎮圧後、一揆に参加した国衆はことごとく滅ぼされ、佐々成政は責任をとらされて切腹となりました。
翌年の天正16年(1588)5月、秀吉は肥後の新領主として北部→加藤清正、南部→小西行長を任命し、続く7月には「刀狩令」を出して兵農分離を進めます。国衆一揆では戦国時代の風習として領地の農民達も国衆とともに籠城し武器を持って戦ったので、肥後国衆一揆が刀狩令の発布に影響を与えたと考えられています。ここに肥後の中世は終焉を迎え、農民達も農耕にのみ専従させられる近世的社会へと移っていくことになります。
個人的には、国衆一揆鎮圧により鎌倉時代〜南北朝時代〜戦国時代と地元の菊池氏&阿蘇氏が中心となって彩ってきた肥後の中世が終わりを告げることになり残念に思います。また、国衆一揆に関しては、敗れた国衆側の史料は皆無、そして学術的な研究もほとんどされていないことも残念です。肥後の国衆が反乱を起こした理由として、佐々成政の検地が早急すぎたとか、国衆が秀吉から貰っていた朱印状よりも領地が削減されたためとか言われていますが、実際のところ、何が引き金となって隈部氏はじめとする国衆達の堪忍袋のおが切れたのか、国衆達の肉声の文書がないのでわからないんですよね。それから、国衆一揆の中心となったのは旧菊地家家臣と阿蘇家家臣だったようですが、その横の連携がどのようなものだったかも気になります。双方がやり取りした文書も残ってないので。平安時代から協力して肥後を牽引してきた両氏とその家臣団ですから、今回も手を取り合って状況を打開しようと頑張ったのかもしれませんが、残念ながら敗れて滅ぼされてしまって、時代の流れには逆らえないとはいえ個人的には悲しいですね😢(隈本城に人質に入っていた幼少の阿蘇家当主•阿蘇惟光も後に秀吉により無実の罪で処刑されます。阿蘇家は後に神職としてのみ復活しますが。)これ以降、肥後で中世から続く武家は人吉の相良氏のみとなりますが、相良氏は優秀な重臣達の働きもあり数々のピンチを切り抜けて明治まで続いて本当に凄いと思います✨
スペシャルおまけ🌟戦国肥後国衆まつり
以下、2/9に行われた第48回戦国肥後国衆まつりのもようを写真でお楽しみ下さい❣️国衆まつりのハイライトは田中城での攻防戦を再現した『豊臣軍勢対和仁軍勢』です。まつりのポスターには熊本県阿蘇郡小国町出身の俳優•勝野洋さんが来場されると書いてあったのですが、どこで登場されるんでしょうか〜💓









以上、戦国肥後国衆まつりのレポートでした!こういった地元の方々による地元愛溢れるおまつり、大好きです🫶💕個人的には会場にクマモンも甲冑姿で駆けつけてくれたら言うことないのですが。来年はクマモンも出動してまつりを盛り上げてくれたらいいな〜😁

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
PS: 最近(また)転職しまして、新しい仕事の勉強に注力しているため、暫くはnoteの更新が遅くなるかもしれません🙇♀️いつもお読み頂いている皆様におかれましては、気長にお付き合いいただければ嬉しいです🌸
【参考文献】
• 國武慶旭『肥後国衆一揆 天正時代と和仁一族』熊本日日新聞情報文化センター 1993
• 荒木栄司『肥後国衆一揆』熊本出版文化会館2012
•人吉市史 第1巻 人吉市 1981
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