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東北キャラバンほか
このころ、東京からM野氏という人物が仲間に入る。彼は例の工場の季節工だったのだが、万引きの天才だった。漫画家志望の彼は生活用品の殆どを万引きで済ませていた。実家が仕立屋だった彼はいま、何をしているのだろう。
1972年、いくつかの街のバンドが集まり、東北へキャラバンするという話が持ち上がる。
まず、資金集めのために軽井沢にプレハブの別荘を建てるというアルバイトを1週間する。これにはナガシマのほか、「邪悪」というグループの天吉と元氣が参加(そうえんの常連はこのようにニックネームで呼ばれていた)。このグループはTレックスの前身バンド、ティラノザウルスレックスの名曲、「サラマンダ・パラガンダ」を「猿の肉料理」というとんでもない歌詞をつけてカヴァーしたりしていたなかなかの強者だった。
キャラバンの主宰者は少し離れた街の野村さんだった。宗次郎の兄である。
東京を始めとして各地から集まった総勢10数人からなるキャラバン隊は東北各地でライヴをしながら弘前まで旅をすることになる。前述したようにこの頃は各地にヒッピーもしくはそれに準じた連中のネットワークが全国に形成されていて一宿一飯という渡世人もどきの世界があったのだ。それらのネットワークをたより、殆どの宿は無料。唯一料金を払って泊まったのは畳に雑草が生えていた岩手大学の使われてない寮で一泊300円だったか。
県内で8人の女性を殺害した大久保清が捕まる。成田では空港反対運動が激化。こちらの大学からも闘争に参加する友人がいた。
ジェリー・ルービンの「do it」が発表されイッピー(Youth International Party)が本物のブタをアメリカ大統領の立候補者にしようとしたりしていた。
このころ澁澤龍彦経由で幻想文学を読みあさる。ドイツ浪漫派、ゴシックロマンス、フランス小ロマン派、国内の嘆美系作家群…。
隣街にはロック喫茶ができ、キャロル・キングの「つづれ織り」が頻繁にかかっていた。ニューミュージックマガジンではっぴいえんどが賞を取りこれに対して内田裕也がクレームを付け、日本語で歌うロック論争が起こる。
中津川では第2回目のフォークジャンボリーが開催され、吉田拓郎が「人間なんて」を歌い続け、自分たちの考えていたフォークソングはある意味、終わってしまう。
しかし、この地ではそれぞれのグループがそれぞれの特徴を持って音楽を続けていた。また、このころからアコースティックからエレクトリックに移行するグループも現れる。それははっぴいえんどやはちみつぱいの音楽があまりにも衝撃的だったからに他ならない。
東京からはあいかわらず変な連中が店を訪れた。ここがユートピアだといって、郊外の農家を借りるものまで出始め、なんだかおかしかった。
また近くの河原で黒色テントの公演が行われ、金髪に黒の着流しという平手造酒役の清水紘治に衝撃を受ける。
ナガシマたちのグループも少しづつ変化をしていくことになる。フェアポート・コンヴェンション、ペンタングル、インクレディブル・ストリングスバンドといったイギリスのトラディショナルな音楽をエレクトリックを使い演奏するグループに影響を受け、ナガシマがヴァイオリン(フィドル)を始める。これはかなり手こずるがなんとか導入。このころ一方で傾倒していた漫画誌「ガロ」の作家、鈴木翁二の作品世界とイギリストラッド風味というおかしなコラボレーションで曲づくりが進む。
