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時代はサーカスの象に乗って
そうえんでも世代がすこしずつ変わっていく。コアな連中に変わって、普通の人たちの割合が増えていく。
同時期、大学のある街の山の手に美術部の友人たちの通称グリーンハウスというアジトがあり、ここで現代美術に接近。いまでもその町にあるJAZZ喫茶、オーネットでブニュエルとダリが創った「アンダルシアの犬」を体験。映像の持つ力に打ちのめされる。この店ではフリージャズがよくかかり、客もフリーキーだった。
新左翼と文学者と現代美術の作家。ケィオス!
イギリス音楽への傾倒はかなりのスピードで行われた。友だちはいわゆるチャイルド・バラッド(フランシス・ジェームズ・チャイルドが19世紀後半にまとめた、イングランドとスコットランドの305篇の伝統的なバラッドとそれらのアメリカでの異本を集めたもの)の原本を購入するまでの入れ込みよう。その何編かの翻訳をナガシマがしたのだが古典英語が多く、結局、よくはわからなかった。
なぜそんなに惹かれたかと考えるとやはりバラッドの詩が残虐だったり、妖精譚が多かったりと、ナガシマや友人の趣味と一致する部分が多かったからだろう。
しかし、この頃には実際にそうした方向へ進むのには人数的にも十分ではなく、なぜか、あがた森魚やはちみつぱいの方向に近づく。まぁ、あがたがこうしたトラッドから、かなりの影響を受けていることもあってのことだが。
このころはブラッドベリ+あがた森魚+ガロ(漫画のね)+バラッド+タルホ+ティラノザウルスレックスといったハイブリッドぶり。
また、ブリジット・フォンテーヌ+アートアンサンブル・オブ・シカゴの『ラジオのように』を聞いてびっくりする。いまから30年近く前、来日の際はわざわざコンサートまで足を運ぶもあまりの悲惨さにいたたまれなかった。あのアルバムはあの時代が生み出した奇跡だったのだ。
ベトナム戦争が終わり、「あしたのジョー」も終わった。
赤軍派の壊滅により、学生運動も沈静化、というか一挙に大衆が運動に対して懐疑的な方向に向かう。
大学4年生になったものの、案の定単位を落としもう1年行くことになる。親からの学費が切られ、4年間伸ばした髪をアルバイトをするために切りに床屋に行く。なぜだか髪を切るナガシマの周りに客が集まる。断髪式じゃないのに。
このころ、そうえんに来ていた一歳年上の女の子と知り合う。太宰治の熱心な信者で自殺未遂のことを楽しそうに話す女の子は当時、coolに見えた。しかし、彼女を取り巻く男も多く、火花が散る。
こういった女の子は当然澁澤のファンだったりもするのだけれど、福永武彦も好きだったりするから混乱する。
そういえばヴァイオリンはこの子からもらったのだった。
父親が校長だったか、教頭だったかだが、そうえんに来ていた女の子はこうした教育者を親に持ち、そこからドロップアウトしようとしていた子が多かったような気がする。
フォークソングは、井上陽水、かぐや姫、海援隊、そして荒井由美の時代へと入り、もう興味の対象ではなかった。ロックはTレックス、デヴィット・ボウイ、ロキシー・ミュージックといったグラマラスなロック、いわゆるグラムロックが終焉を迎えようとしていた。
このころイギー・ポップ&ザ・ストゥージスに心酔していた友人のテディNはメイクをしてベルボトムにハイヒールという姿でフォーク・コンサートに乱入。激しいダンスをし、観客の度肝を抜く。そんな彼もいまは町のとある病院の一室に入ったままだ。
彼と知り合ったのは、まだグループの第一期で人数が4人のころ、近所の公園で練習をしているところに彼が声を掛けてきたのがきっかけだった。
いろいろ話をしてみると彼の父親はどうも近所でたまに見かける着流しに長髪というかわった人物その人だった。彼の家を初めて訪れたときのことは今でも鮮明に覚えている。
