見出し画像

雑記1473「過ぎ去る時間を憂える人には効く。かもしれない」

人間ってホントにあまり物事の把握をしてないんだなぁと特に思うようになったのが、一度観たレコーダーの内容を消さないようにしてからかもしれない。


NHKでやってた「こころの時代」のヴィクトール・フランクルの計6回のヤツをヒマな時に見直してるんだけど、ぜんぶ観るのがもう4回目ぐらいかな、それでも毎度毎度ひたすらに泣く。
毎度泣くのはたぶん100巡しても同じことかもしれんけど、毎度感心しながら泣く。「は~~~っ」ってなってる。それって、わかりきってることだったら絶対そうはならないと思うんだよね。

前回観て、しかもメモしながら観て、それでもさっき観ながら「は~~~っ」ってなったとこを記しておこう。


ヴィクトール・フランクルは人生を砂時計にたとえて、ガラス管のくびれの上半分を未来、下半分を過去、そして砂粒が流れ続けるくびれの部分を現在と見なす。そして多くの人は、砂が残り少なくなってきた時に「もうこれだけしか残っていない」と悲観しはじめるのだ…という話に続いて、

その人は収穫が終わりに近づいている畑だけを見ているのです。
それも恐怖の思いで。

過去という穀物でいっぱいに詰まった穀物納屋を見ようとはせずに、できるなら時間が静止して、すべてのものがなくなってしまわないようにと願っているのです。

けれどもこれは刈り取り機を作動させたまま止めたい、この機械が前進せずにいてほしいと望むようなものです。
というのも、この刈り取り機が畑の上を移動していくと、いつも刈り取られた部分がどんどん広がっていく光景しか見られないからなのです。

そして機械の中でどんどん増えていく穀物の量のほうは見ようとしないのです。

シリーズ ヴィクトール・フランクル 第4回 人生という「砂時計」より

経験したすべての事柄「穀物」のほうを、あんなことーこんなーことーあーったーでしょうー、となぜ見ないのですかということだわね。

このたとえってのはホントに秀逸だと思う。理解がメンドくさくても、食らいついて血肉にしていただきたいと存じまする。
特に迫る死を、死というよりは過ぎ去る時間そのものが悲しくてしょうがない人には結構な聖典になるんじゃないかなぁ。オレがそうであるように。(文字だけだとナレーターの井上次郎アナの声が聞こえないんで、刺さり方が半減しちゃうんちゃうかってのが心配だが。彼のプロミネンス(一文の中でのアクセント)の付け方が美しすぎて(良い歌を聴いた時のように巻き戻して何度もナレーションを聞いてしまった唯一の人)、それだけでも本当に心に入ってくるし、それだけに脳に記録されやすい。オレはだけど)

「けれどもこれは刈り取り機を作動させたまま止めたい、この機械が前進せずにいてほしいと望むようなものです。」
ここなんか特にね。ちゃんとしてる。ちゃんとて(笑)
数学者脳と吟遊詩人脳が同居してないとなかなか浮かばないと思う。もうまさにこの通りだし、つまり、少なくなっていく時間を憂うのは、あれもほしいこれもほしいという矛盾した、矛盾したというか破綻した悩みなんだろう。
えー、つまり(ようつまるな)、「残り時間が少ないことを憂うこと自体が、どこか根本からおかしな「思い方」なのでは?」と思わされるのだ。

いうても、まぁ、悲しいんだけどね。
あ~~~、そうか、悲しいのがそもそもおかしいのか。
明日、この第4回の続きを紹介します。そこでちょうど死の概念についてのコペルニクス的転回をやってたんだった。

ではまた明日。





【今月のオリジナルソングさらし】

3月にしか紹介しない大いなる卒業ソングみたいなやつです。




いいなと思ったら応援しよう!

仲大輔 サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。