「駅前か、郊外か」は、問いが違う — 歯科開業の立地選び ー
「駅前か、郊外か」は、問いが違う
開業地の相談は、たいてい同じ三つの物差しから始まる。人通り。駅からの距離。競合の数。どれも「何人来るか」を測る物差しだ。駅前か、郊外か。よく聞かれるあの二択も、結局はこの物差しの上に載っている。それを手にした先生の顔を見るたび、私は少しだけ、歯がゆい気持ちになる。
(その物差しが測っているのは、医院の未来ではなくて、通行量なんだけどな、と)
良い立地、という言葉を、私はあまり信用していない。歯科の現場を長く内側から見てきて、良い立地で沈んだ医院も、誰も選ばないような場所で静かに満ちていった医院も、どちらも見てきたからだ。かくいう私も、昔は立地の良し悪しを人通りで測っていた。数えやすいものは、いつも、本質より先に目に入る。人通りは数えられる。でも、その人たちがどんな暮らしの途中でそこを歩いているのかは、数字にならない。
ダムの話を少しだけ。ダムは、堤の高さを考えるより先に、まず、どの川に建てるかで貯まる水が決まる。医院も同じで、立地選びとは土地を選ぶことではなく、川を選ぶことだ。
川とは、その土地の人の暮らしの流れ方のこと。オフィス街の川は、速くて細い。昼にどっと流れ、夜と休日には涸れる。流れてくるのは時間のない人たちで、長い治療計画よりも、今日の痛みが今日終わることを求めている。住宅街の川は、広くて、ゆっくりだ。同じ顔が何年も流れてくる。子どもは大人になり、大人は年を取り、川そのものが少しずつ老いていく。それから、駅の場所とほとんど関係のない川もある。車で暮らす土地では、人は駅からではなく、買い物や送り迎えの動線から流れてくる。駅前か郊外かという二択が意味を持つ川と、最初から意味を持たない川があるのだ。
どちらが良い川か、という話ではない。川の性格が、そこで成り立つ医院の形を先に決めている、という話だ。
うまくいった医院は、この順番を間違えていなかった。
ある医院は、開業地を探すとき、自分のやりたい診療からではなく、その土地に足りていない診療から考えた。川を見て、川にない橋を架けた。専門性とは、自分が何をやりたいかと、その川に何が欠けているかの、交点で決まるものらしい。
ある医院は、患者がどっと押し寄せる川ではない、と早々に見切った。だから新しい水を追いかけるのをやめて、いま流れてきてくれている人たちを守り続けるほうに舵を切った。予防を柱にした理由が、理想ではなく川の読みだった医院は、強い。ついでに言えば、この舵は人の話にもつながっていた。川が細いなら、新しい水を集める広告よりも、いまある水位を守る人、つまり衛生士が要る。立地の読みが、そのまま採用の設計に流れ込んでいた医院を、私は知っている。
ある医院は、あえて一等地の岸を外した。家賃の重い岸に建てれば、月々の支払いが焦りになり、焦りは診療に滲む。軽い岸を選んだ院長は、近くに競合ができたときも動じなかった。あれは立地で集患を買ったのではなく、立地で平常心を買ったのだ。
もう一つ、忘れがたい型がある。新しくひらけた住宅地に、その街の住人と同じ年頃の院長が開業した医院だ。子育ての悩みも、時間のなさも、川を流れる人たちと院長が同じものを抱えていた。特別な戦略の話は、ほとんど出てこなかった。ただ、川と歳が合っていた。それだけのことが、何年分もの信頼の先回りになっていた。
ここまでなら、川をよく読みなさい、という話で終わる。書きたいのは、ここから先だ。
川を読み違えた医院が、ある。高齢の方と子どもを診るつもりで何年も準備をして、蓋を開けたら、目の前を流れていたのは朝晩に急ぐ勤め人ばかりだった。想定していた患者が、いない。院長は当時を振り返って、絶望した、という言葉を使った。
その医院は、いま、沈んでいない。それどころか、川に合わせて診療の時間割と形を作り替えて、忙しい人たちが通い続けられる医院になった。昼の短い時間で済むように予約を組み直し、待たせない仕組みをつくり、今日の痛みには今日応える。想定は外れたのに、医院は残った。
生き残りを分けたのは、立地眼ではなかった。読み違えたと気づいてから、作り替え始めるまでの速さだった。
川は、選べる。ただ、選ぶ前にすべてを読みきることは、おそらく誰にもできない。だとすれば、開業前に本当に決めておくべきなのは、完璧な場所ではなくて、読み違えたと気づいた朝に、何を守り、何を作り替えるのか、その順番のほうだ。守るのは、何のための医院かという一点。作り替えていいのは、あとからでも動かせるもののほう。あの医院が組み直したのも、時間割と、予約と、診療の並び——動かせるものばかりだった。動かせないものだけは、川を見てから、固めるしかない。守るものと動かせるものの区別が先についている医院は、作り替えることを恐れない。
入口で見ておくべき谷は、まだある。それらを一枚の道につないだものを、この次に書くつもりでいる。
図面を引く前に、その川を見に行くといい。平日の昼と、夜と、日曜の朝に。同じ場所でも、水の顔は三度変わる。
