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フィクション化した現実のあとで-建て付け抜きの『ウォーフェア 戦地最前線』評

本稿はポッドキャストの内容を加筆修正し、テキスト化したものです。

この映画、プロモーションやレビューにおいて「建て付け」に対しての言及が散見される。「息の詰まるノンストップムービー」「言わばシチュエーションスリラー」だとか「リアルな戦場を再現」「まるで戦場にいるようだ!」「音響がすごい」だとか。
しかし、この映画の批評においてそんな「建て付け」に言及したところで何の意味を持たない(そんなに戦争映画の建て付けの話しをしたいなら、『プライベート・ライアン』や『ブラックホーク・ダウン』から始めれば良い)。

なので、ここからの批評は以上のような語り口は期待しないでほしい。


『ウォーフェア 戦地最前線』──期待値はなぜ噛み合わなかったのか

正直に言うと、『ウォーフェア 戦地最前線』は、僕が勝手に想定してしまった期待値には届かなかった作品だった。
ただし、その期待値自体が、この映画にとっては的外れだったとも思っている。だからこれは批判ではない。むしろ、自分の読みの問題を含めて考えたい映画だった。

期待値が形成された起点は、年明け早々に目にしたアメリカを中心とした世界情勢だった。
ニュースを追ううちに、どこか現実感が希薄になっていく。笑っていいのか分からない感覚。その違和感から、僕はアレックス・ガーランドの『シビル・ウォー』を軸に、noteで一本の記事を書いた。

そこで書いたのは、フィクションが現実を描くのではなく、現実の方がフィクションの文脈へと侵入してきた感覚についてだった。

スクリーン越しという安全な距離が、もはや保証されていない。
戦後ポップカルチャーが前提としてきた「戦争は終わった」「世界大戦はもう起こらない(起こさない)」という修正可能性が、無効化されてしまった世界。その前提の崩壊を、僕たちは目の当たりにしている。

そうした状況下において、キャスリン・ビグローの新作『ハウス・オブ・ダイナマイト』が想起される。本作は2025年の公開時点以上に、2026年の現在から振り返ることで、「解決しない戦前の今」という時間感覚を結果的に可視化する作品となった。その意味において、本作は改めて注目に値する。

『ハート・ロッカー』でイラク戦争を描いたビグローは、本作において映画的快楽をあえて削ぎ落とし、リアリズムそのものを更新しようとしている。その姿勢を見た直後だったからこそ、私はガーランドの作品にも、同じ意味での「次」を期待してしまったのだと思う。

つまり、『シビル・ウォー』のその先。
物語を捨て、より冷えた温度で現実を突きつける映画として、『ウォーフェア』が立ち上がるのではないか。そんな期待だった。

もちろん、この映画にもその側面はある

本作には、声高なメッセージは存在しない。あるのは、史実を淡々と提示する平熱のスタンスである。米軍部隊の統制の取れなさ、作戦そのものの粗雑さ、さらには通訳や民間人に対して、ほとんど無自覚なまま行われる非人道的な行為。そこには、それらを見逃さずに捉えようとする明確な視線がある。

戦場にいるのは、デルタフォースのような精鋭部隊だけではない。モルヒネの注射を誤って自分に打ってしまうほど混乱した、ごく「普通の人間」もまた、そこにいる。
そうした若者たちが大量に供給される場所こそが戦場なのだ。

ちなみに、本作における最大の批評的価値は、まさにこれらの描写に集約されている。
決して、「建て付け」では無い。


ただ同時に、どうしても拭えなかったのは「企画が先に立っている」点だった。

ガーランドは『シビル・ウォー』のラストシークエンスに満足し、メンドーサと意気投合、この一場面にフォーカスした映画を作ろうと決める。A24もそれに乗る(『シビル・ウォー』のヒットに意気揚々)。
そうした座組の力学が、映画の外側から先に見えてしまう。

「シビル・ウォーを超える」というコピーも、あまりに空虚だ。
もし徹底するなら、映画的演出(IED爆弾爆発後のスロー的な処理や音響効果など)を完全に排除する方向もあり得たのではないかとも思う。平熱を保とうとする意志と、映画としての快楽が、最後まで定まらず並走している。その悪い意味での宙吊り感が、僕の中では残った。

つまり、この映画は当初、ある種の現場ノリから立ち上がったものだったが、公開にあたってはさすがに何らかの意味づけが必要となり、__間違ってはいないが____「平熱の視座」という建て付けが後付けされた。その会議室での思考回路と意図がブラインドで覆い隠しきれていない点こそが、本作におけるウィークポイントである。


ビグローの作品のように、映画がある種の偶然性によって「意味性」や「批評性」を獲得することもあれば、本作のように、それらを獲得し得る要素をまといながらも、結果的にはそうならない場合もある。

それでも、この映画を劇場で観てよかったとは思っている。

もはや戦争映画を、安全な距離から鑑賞することはできない。その事実を、身体で確認させられる体験だったからだ。

期待値はズレた。
しかし、そのズレ自体が、今この時代に戦争映画を作ること、観ることの難しさを表している。


著者:永盛 岳生

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