もう、ジョークにできない場所から──フィクションの速度で侵入する現実と、右往左往するポップカルチャー
2026年の年始、ニュースを追ううちに、笑っていいのかどうか分からなくなる瞬間が増えた。
フィクションが現実を追い越したのではない。現実のほうが、フィクションの文脈に入り込んできたのだ。
What kind of American are you?

頭が軋むような2026年の年始だ。流石に何か書き残さねばと思った。
アメリカはベネズエラへの侵攻を開始し、同時に66の国際機構からの脱退を進め、国内ではミネソタ州ミネアポリスにおいて、ICE(移民・関税執行局)による一般市民の射殺事件が起きている。
それらをきっかけに、アレックス・ガーランド監督の映画『シビル・ウォー』を観返した。だが、そこで覚えたのは「フィクションが現実を予言していた!」という類のポップな驚きではなかった。
むしろ、現実のほうが静かに、しかし確実にフィクションの文脈へと侵入してきている感覚____45年生きているが、その感覚にうまく言葉を与えられない、というのが正直なところだ。
映画公開当時の感想として著者は
「主人公の若いジャーナリストに危うさと希望、両面を描いている」
と残した。
彼女はアテンションとエコーチェンバーに絡め取られてゆく危うさも持ちながらも、その反面、アナログのフィルムカメラを愛し、複雑な現像の過程を通し、写真に残された事象に対し、クールダウンする時間的・経済的な許容も持っている。
この視座は今になってよりコントラストが強まっているのではないか。
内戦下のアメリカを描いたこの映画は、扇情的な説明も、わかりやすい善悪の構図も提示しない。ただ、秩序が崩れたあとの風景を、異様なほど平板なトーンで並べていく。
公開当時、「面白いが内戦の細部が弱い」「流石に荒唐無稽」というようなリアクションも少なくなかった印象がある。
しかしこの映画が持つ距離感が、いまになって急に現実味を帯びて見えてしまう。
だがそれは「当たっているから怖い」のではない。
もはや安全な距離からフィクションとして消費できなくなったという危機感に近い。
そしてこの空気は、アメリカのポップカルチャー全体をも覆い始めている。
例えば、事件後のジミー・キンメルによるトランプへの一連のモノローグも、どこかで空転しているように感じられる。
ここで誤解してはならないのは、キンメルが無自覚に笑いを消費しているわけではない、という点だ。
彼は明らかに鋭い批評性を持ち、言葉を選び、ユーモアという形式を用いて現実と格闘している。アメリカのスタンダップコメディが本来備えてきた、権力を笑いによって相対化する伝統の正統な継承者でもある。
それでも、空転してるように感じる。
なぜか。
問題は、そのジョークが不謹慎かどうかではない(それはこの文化圏において、常に引き受けられてきたリスクでもある)。
国家による軍事行動や国際秩序の解体、市民への暴力といった出来事が、なお「いつもの距離感」で、即座にモノローグへと変換され、それが真意を通り過ぎて消費されていることだ。
それはキンメル個人の問題というより、笑いと批評が成立してきた前提条件そのものが、静かに失効しつつあることの徴候だろう。
本当に、まだこの距離で笑っていられる段階なのか。
問いは、彼のモノローグそのものではなく、その受け手の足場に向けて突き返されている。
アメリカにおける民主党の敗北、リベラルデモクラシーの崩壊には、彼のようなセレブリティ、ポップスターの冷笑的態度(に見える)が機能不全に陥ったことも要因として含まれている。
それは正義が暴走したからではない。
むしろ、言葉を尽くしてもなお、現実のほうがその速度と重さで先行してしまう、宙吊りの時間が到来しているからだ。
フィクションですら安全な距離を保てなくなった今、現実を前にしてポップカルチャーは行き場を失いつつある。
テイラー・スウィフトのような言葉を持たないポップスターは問題ではない。
問題なのは、言葉を持ち、批評し、闘おうとしてもなお空転してしまうポップカルチャーのあり方、その宙吊りの状態そのものだ。
それこそが、2026年の空気なのである。
そしてだからこそ、『シビル・ウォー』の主人公が体現していた危うさと希望を、いま改めて捉え直す必要がある。
ミーム化した「What kind of American are you?」はもう機能しない。
Born to Be Wild──戦後民主主義とポップカルチャー
現代の「ポップカルチャー」が現在のかたちに発展した直接的契機は、第二次世界大戦後にあると考える。
ロックンロールの誕生、19世紀末に誕生した映画の産業的拡大、テレビとマスメディアの普及。それらは、西洋民主主義国家の発展、リベラル・デモクラシーの優勢と歩調を合わせて広がっていった。
そこには暗黙の前提があった。少なくとも「大戦は終わった」という感覚、そして「次はより良い社会へ進む」という時間と思想の矢印だ。
ポップカルチャーは、その前提の上で、批評性や反抗、カウンターカルチャーを内包しながらも、基本的には未来へと開かれた形式だった。
「ポップカルチャーが時代を動かした」という批評家のナラティブに、60〜70年代のカウンターカルチャーがしばしば引き合いに出されるのも、そのためだ。
ベトナム戦争や公民権運動という現実の暴力を前にしながらも、彼らは「別の社会像」を夢想する余地をまだ持っていた。
ポップカルチャーは、その夢想を共有するための回路として機能していた。
一方で、先の大戦前のヨーロッパにおける文化批評の空気は、まったく異なる土壌にあった。
フランクフルト学派は、大衆文化(≠ポップカルチャー)を「文化産業」としてある面では批判し、芸術が複製され商品化される危険を指摘した。またハンナ・アーレントは、全体主義がいかにして日常の中から立ち上がるかを分析し、思考停止の恐ろしさを描き出した。
彼らは鋭かった。しかし、その鋭さにもかかわらず、ファシズムの台頭を止めることはできなかった(勿論、その立場でも無かった)。文化を批評する言葉は存在していたが、それが現実の暴力の速度に追いつくことはなかった。
重要なのは、彼らが生きていた世界には45年以降の「戦後」____当然、第一次世界大戦後の視座は持っているが_____という回復の前提がまだ存在していなかったという点だ。戦前の文化批評は、未来への楽観ではなく、秩序が崩壊したという事実を前提に書かれている。崩れゆく秩序の只中で、批評、大衆文化は常に後手に回らざるを得なかった。
一方、戦後のポップカルチャーは、その破局を経て再構築された秩序の内部で成立した文化だった。この土壌の違いは、決定的である。
「戦前」を前にするポップカルチャー
現在の私たちは、60〜70年代的な「修正可能性」を失いつつありながら、同時に戦前の思想家たちのように、人間性の敗北を目の当たりする位置にもまだ立っていない。
戦後文化の前提も、戦前批評の覚悟も成立しない、宙吊りの場所に立たされている。
この条件のもとで、現代のポップカルチャーが冷笑やアイロニー、逃避的な実存主義を選び取るのは偶然ではない。それはかつての抵抗というより、関与を先送りにするための消去法により選んだ技法である。
(メディア研究家・山内萌さんがYouTube配信にて視聴者と___ミセスの歌詞世界と井上陽水の『傘がない』は似た構造を持っているのでは___と言う指摘をしていて、実存主義的な文脈において本校に通じる議論だと感じた)
ポップカルチャーにおいて政治はしばしば右派を「愚かな大衆」と見做し「陰謀論」の問題へと還元され、イデオロギーの構造的変化に目を背けウェルメイドな言葉で曖昧に処理される。
語らないこと、笑うこと、距離を取ること自体が、すでに一つの政治的選択である。それらを選ぶことで守られるのは秩序ではなく、カルチャー自身の延命にすぎない。
でもそれは自身も含め余程の覚悟がない限り抗えない選択だ。
では、この時代においてポップカルチャーは、どのような態度を取るべきなのか。
必要なのは、希望の提示でも、正しさの表明でもない。
むしろ、夢想と秩序が更新される保証のない現在を前に、冷笑を抜きになお問い、語り、歌い、描き続ける、それしかないのではないか。
ポップカルチャーは長らく、
複雑な現実を噛み砕き、共有可能な感情へ翻訳する役割を担ってきた。
しかし現在、現実そのものがフィクションの速度と不条理さを帯びている。
ここで無理に意味づけを行うことこそ無意味である。

2025年に公開された『ハウス・オブ・ダイナマイト』も今、見え方が大きく変わっているだろう。公開当時はその結末に不完全燃焼感を抱く人が多数いたが、自身は以下のような感想を残した。
Netflix『ハウス・オブ・ダイナマイト』。⁰キャスリン・ビグロー新作。レベッカも好演。脚本は『ゼロ・デイ』のノア・オッペンハイム。ここでも政治と倫理の綻びを描く。
— 永盛 岳生 (@takeo_ahostar) October 29, 2025
オープンエンドのようでいて「結末はもうわかるよね?」と問う構造がまさにビグロー的リアリズム。大統領パートの失速が残念。 pic.twitter.com/VGWcxPUtp6
今、というか2026年現在は、不安定なまま提示し、結論を保留し、理解できなさを観客に返すという態度、「わからなさ」を引き受ける形式こそが、現実に追いつくための一つの方法になっており、この映画でのビグローの選択は昨年の公開当時より示唆的である。
アレックス・ガーランドが『シビル・ウォー』で示しているのは、答えではなく立ち位置である。
映画は冒頭、スピーカーの上下左右から様々なノイズがランダムで流れるところから始まる。
観客を安心させず、導かず、ただ安全な距離が失われた地点に立たせる。上でも下でも、右でも左でもなく。
カタルシスを拒否し、不安を解消しないことが、新たな倫理になる場合もある。
ポップカルチャーが再び意味を持つとすれば、それは世界を回復させる見せかけの態度、挙動ではない。
秩序が崩れた後も、なお語り続ける主体が存在することを、かろうじて示すことが唯一の方法だ。希望はその先にあるかもしれないし、ないかもしれない。
危うさと希望をもち続けること。それは少なくとも、冷笑よりは誠実である。
著者:永盛 岳生

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