短編小説『悲しみの風景』
柚は天井をにらんでいた。
ガラス戸を外した縁側からの風が、祭壇のろうそくを揺らし、読経が低く和す。
鼻すじの通った眉の高く彫りの深い顔立ちは、三つ四つは上に見られがちだったが、形のよい顎をぐいとあげ唇を引き結んでいると、十三歳になったばかりというのに、二十歳といっても通りそうだ。春に買ってもらった白線がしゃんとしている長袖のセーラー服姿で、背筋も肩もぴんと張って座っていた。肩を落としてうつむく父の幸三と泣きじゃくる妹の葵にはさまれていると、天秤の支柱のようだった。
一週間ほど前から、大型の台風が紀伊半島から本州に上陸すると新聞やラジオが報じていた。
高野街道がいよいよ紀州に入るとば口に紀見峠がある。鉄道の通っていなかった昔は、高野山へ詣でる旅人は峠に立ち、眼下に広がる冬でも明るい紀伊国の田野を見渡し、道中もあとわずかであることを喜んだという。
柚たちの暮らす天見村は峠の麓にある。三方を葛城、金剛山系に囲まれた狭隘な谷間の村は、間近に迫る山のほかには天しか見渡すものがない。
台風が紀伊半島に上陸するということは、村を直撃するのと同義だった。
ふだんは親子四人のひっそりとした二間きりの家に、先おとといから村の人が入れ代わり立ち代わり出入りしている。荒れ狂う台風のさ中に出かけた母が戻ってこないとわかった翌朝から急にあわただしくなった家である。今朝も早くから村の女たちが炊き出しに精出し、弔問に訪れる客の世話をしている。だが、きのうまでとは打って変わって、かわされる声までもが読経に和して静かであった。風がろうそくの炎をゆらし線香のにおいを立ちのぼらせていく。そのたびに喉の内側をすべりおりる苦く熱いものをこらえようとして、柚の表情はますます険しくなる。
台風で崩れた崖の土砂に押し流された母の遺体は、二駅向こうの天見川下流であがった。
終戦から五年。平穏が日常になっていたのに。
ついと天井から視線をすべらせると、南天の垣のうえの明るく澄みわたった空が目をおおう。舞いのぼる埃までいちいち見えそうなほど、からりとすっとんきょうに晴れている。なんていう上天気なのだろう。三日前の嵐など素知らぬ気である。庭の隅では家族で楽しんだ月見の萩が名残の二、三片を揺らしている。はかなげな花でさえ嵐に命を残しているものをと思うと口惜しく、これが同じ天なのかと思うと空の青さまでが憎らしくなり、柚はまた煤けた天井に視線をもどした。
縁側から出された柩は野辺の送りへの道をよろよろと進む。
目の前には紀見峠が高い陰となって聳えている。一行は九十九折に登っていく高野街道を南へと歩んでいた。少し距離をおいた左手の低いところを峠に源をもつ天見川が、街道と同じ曲線を描きながら流れている。右手には山の勾配にあわせて石垣を積んだ民家や段々畑が点々と続く。
道の端や山裾で彼岸花がかたまって揺れている。
慣れ親しんできた風景である。どんぐりを採りに行くならどこが一番で、春になれば蕨の芽吹く場所も、野苺の群生する藪も、蛍の飛び交う沢も、猪の通る道も全部そらんじている。それなのに、初めて見る景色のようにどこかよそよそしく見えるのはどうしてなのだろう。いつもと同じ初秋の風景がそこにあるというのに、いつもと同じであるということが、柚にはなんだか冷たく思われる。無視され、突き放されたような気分になる。柚たちを襲った哀しみは、柚たち家族だけのものであると告げられているようでたまらなかった。
柩に土がかけはじめられると、妹の葵が柚にしがみつき絞りあげるような声をあげた。泣き叫ぶ声が近くの山からこだまとなって返ってくる。柚は倒れそうになる妹の肩を抱いてやりながら、じっと空をにらんでいた。
ざざあっと土の崩れる音が、胸にのしかかかる。墓地の真ん中に一本だけ立っている樫の梢で雀が騒いでいる。
空は高く青く、雲ひとつない。
柚ちゃんがしっかりしているから、幸三さんも救われるねえ。後ろの列からもれてくる囁きを聞くともなしに聞いていた。感心だろうか、同情だろうか。どっちだっていい。その裏に情の強い娘だねという声が隠されているのを柚は背で受け止めていた。
知っていて、なお、泣くもんかと思っている。突然に母を奪われた理不尽さをごくりとのみくだすことも、さりとて手放しに泣きわめくこともできず、腹を立てることでしかやりすごすことのできぬ哀しさであった。素直になれぬ齢であった。
墓地のまわりの土手で、彼岸花が一列に並んで揺れていた。
<了>(1873字)
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