短編小説『悲しみの風景』
アボガドの背に包丁をあて、縦にくるりと一回転させる。両手で左右逆にねじり二つにひねり割った。刃元をひっかけて球形の種を取り、スプーンでライムグリーンの実をすくいとる。いい具合に熟れている。フォークで潰してツナと和え、レモンをひと絞り。パックに詰めて、トートバッグへ。
おかわりを欲しがるかもしれない。思い立って丸のままの実も一つバッグに入れる。
キッチンの窓辺から雨の匂いがする。
着古したローラ・アシュレイの若草色のワンピースに着替える。とうに似合わなくなっているのは、わかってる。鏡をのぞいて白髪を数本抜く。
助手席にトートバッグを置き、ローバーミニのエンジンをかける。
小糠雨がフロントガラスを打つ。
水曜日は統計学的に雨の確率が高い――昔、紘一さんはそんなことを言っていた。アクセルを踏む。
「アボガドは、スペイン語で弁護士なんだ」
三度目の挑戦で司法試験に合格した紘一さんは、黒くてごつごつした実を私の掌に乗せた。得体の知れぬ物体に手をひっこめる私の手首をつかみ、「ぼくのために毎日、料理を作ってくれませんか」と強い眸を向けた。
プロポーズはアボガドだった。
思い出すたびに頬がゆるむ。
まだアボガドが珍しかった時代。平凡な私と違って紘一さんは、好奇心と知識欲のかたまりで、誠実だけど少しピントのずれた人だった。
子どもは授からなかった。
「アボガドの花は二度咲くんだよ」
雌しべが受粉できるようになると咲いて閉じ、翌日に再び咲いて雄しべが花粉を放つ。雌しべと雄しべの生殖のタイミングがずれるため、結実しにくいのだと。
「ぼくたちはアボガドなんだ。いいじゃないか」
慰めにもならない知識を滔々と披歴する横顔を眺め、涙はいつしかほろ苦い笑みに変わっていた。
雨は蕭々と降っている。
海に臨む丘に建つ施設の駐車場にローバーミニを停める。
海は雨にけぶっている。
「紘一さんの好きなアボガドのツナ和えをこしらえて来ましたよ」
焦点の定まらない目が窓を打つ雨を眺めている。
知識の海はとうに凪いで動かない。
五年前に若年性認知症の診断がくだると、紘一さんは法律事務所をたたんだ。弁護士業務には依頼人の人生がかかっている。忘れましたでは済まされないと言って。そうこうするうちに、介護施設の入居まで決めていた。
「なんで、なんで……あなたの世話は私がします!」
詰め寄る私をただ見つめ「君を救うためであり、ぼくを救うためでもあるんだ」と声を絞った。
並外れた記憶力が自慢だった紘一さんにとって、記憶が欠けていくことは耐え難かったのだ。
「ちっぽけなプライドを守らせて欲しい」と唇をゆがめる。
日々記憶を失っていく姿を君に晒したくないという。
あのとき、私はどうすれば良かったのだろう。
最期まで世話をすると意気込んでいたけれど。
「尊厳を守って欲しい」という望みに折れるふりを装ったけれど。
自らの心の奥底に黒い塊がひそんでいたことを知っている。彼の苦しみや嘆きよりも、何年続くかわからない介護に暗澹とする自分がいたことを。
閉まりきらない口の端から、油にぬめるライムグリーンの実がこぼれ、涎が垂れる。私は手を伸ばして、紘一さんの口もとをハンカチで拭く。
「ありがとう……親切な方」
あなたの目に、もう私は映っていない。
誕生日にプレゼントしてくれた若草色のワンピースを着ても、その眸に私がよみがえることはない。
「刑法第218条、保護責任者遺棄等……」
好きだったアボガドを食べこぼしながら、法律を朗々とそらんじるあなたの記憶の中に、私はもういない。
面会日は雨の水曜にする。
駐車場の一番奥に停めたローバーミニへと、やまない雨を頬に受けながら歩む。若草色のワンピースの裾が雨に濡れて脚にまとわりつく。
ダッシュボードに手榴弾みたいなアボガドを置き、私は帰る。あなたのいない家に。あなたの残り香だけが消えない部屋に。
<了>1614字
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花澤薫様主催の「タイトルから書く文芸賞(悲しみの風景)」に参加いたします。駆け込みでの3作目です。
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