見出し画像

泰夢(たいむ)のお話:97

← ◆前のお話へ


消毒の痛みをがんばって我慢していた泰夢ですが、どうやらその声は…
それでは、どうぞ!!

===============
 部屋に入る引き戸を開けて中に入ると、モワモワっとする熱い空気が華恋(かれん)の体を包みこんだ。
 持っていた麦わらぼうしとトートバッグを自分の学習づくえの上にドサッとおくと、あわててベランダのまどを開ける。
 厚手のカーテンとレースのカーテンを開き、ちょっと考えてからレースのカーテンだけとじる。
 いくぶん、むせるような暑さがうすくなったような気がするけれども、しかしそれだけでは風が通らず、カーテンがヒラリともしない。
(…………)
 自分が入ってきた、リビングに続く引き戸を開ければ、その先のキッチンまで風は通るのだけれども、当然そこには泰夢(たいむ)がいる。
 あせになった上の服だけでも着がえたいと思っているので、やっぱりそこを開け放しにするわけにはいかない。
 少し考えてから、出まどの小さな戸を開けることにした。
 そこはふつうの引き戸みたいに横に引いて開けるのではなく、ドアのように外に向かっておして開けるタイプのまどだった。
 しかも下の部分にストッパーが付いているから、頭が入るか入らないかぐらいしか開かない。
 それでも、出まどの観葉植物に━━その出まどにおいてある観葉植物を見た華恋の頭に、さっきの泰夢の話がふとうかんで、そのとたんに観葉植物があぐらをかいてすわっている泰夢に見えて、ちょっと口元がほころぶ━━注意しながら、二つある小さな戸を開けると、サァーっと華恋の周りの空気が動き出して、ベランダの大きなまどから風が流れるのがわかった。
 これでようやく落ち着いたと、華恋は衣しょうタンスから新しいタオルと着がえを引っ張り出した。
 かわいたタオルで体のあせをぬぐうと、せっけんのいいにおいといっしょに、ベトベトしていた感じがなくなってスッキリする。
 そこにまた外からの風がふいてとても気持ちがいい。
「…………んぎっ!」
 キッチンの方から泰夢の声が聞こえた。
 たぶん、消毒液ですりキズを消毒しているのだと思う。
 がんばって声をがまんしている感じだったけれども、戸をしめているこっちの部屋まで聞こえてくるのだから、かなりいたいのだろう。
(また、無理しちゃって……
 家にはわたしと泰夢くんしかいないんだから、
 べつに声を出したっていいのに)
 新しいタンクトップとシャツを頭からかぶり、すそをひっぱって直しながらシワをのばす。
(……これでよし、と!
 バッグの中身も━━学習スクール用のヤツは出して、
 そうそう、図書館カードとおさいふもわすれないようにしなくちゃ)
 と、学習づくえに目をやるとトートバッグの上に放り投げた、さっきまで華恋が着ていたシャツが目に入った。
 ちょうどおなかのあたりの部分に、横に長く茶色いサビのようなあとが付いていた。
 つり橋で頭から落っこちそうになった時に、おなかからワイヤーロープにぶつかってできたのだろう。
(…………)
 ちょっと心配になって、衣しょうタンスの横の大きなすがた見の前に行き、シャツとタンクトップをまくりあげて、おなかをかがみにうつす。
 体をひねってみたり、横向きにしてみたりして見たけれども、ケガはもちろんのこと、アザになっているような感じもなかった。
(……よかったぁ。
 キズになってたら大変だと思ったけど、なんともなかった)
 手でロープがぶつかったあたりをそっとなでて、ひと安心する。
 あの時はとてもいたかったし、こわかった。
 泰夢がいてくれて、助けてくれて、でも、あの時の泰夢はもう、うでにすりキズを、消毒で声ががまんできないぐらいの大きなすりキズを作っていて、その泰夢が、そのうでで、自分のことを必死に助けようとしてくれたことが、また華恋の中に温かく広がっていく。
(……ん、あれ?
 そういえば、泰夢くんどうしたんだろ?)
 さっきまでキッチンから聞こえていた大きながまんの声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 ひょっとしたらあまりにも消毒がいたすぎて、気を失ってしまったのかもしれない……。
 まさかそんなことはないと思うけれども、あの両うでのすりキズは、華恋も思わずまゆをしかめるぐらい、はでで大きなキズだったのだ。
 リビングへ続く引き戸をそっと少しだけ開けて、キッチンの方をのぞいて見てみる。
(……あれ?
 泰夢くん……何やってんだろう?)
 しかし泰夢はキッチンにはおらず、となり部屋であるリビングの入口のところに立っていた。
 キッチンテーブルの上に置いてある救急箱がとじているので、どうやらすりキズの消毒はもう終わったようだった。
 リビングの入口で、しばらくまぶしそうに目をパチパチとやっていた泰夢だったが、そのうちに左手にあるタンスに気がついたようで、クルリと体を返してその前に静かに立った。
 ベランダのある大きなまどから入るまぶしい日の光が、泰夢のせなかを照らして、ふんわりとその場にうきあがるようにして見える。
(…………)
 どうしたの?と、声をかけようと思ったけれども、その言葉は華恋ののどから出てこなかった。
 そうすることは、泰夢のじゃまをするようで、ためらわれたのだ。
 泰夢が何も言わずそっと目を落とすその先には、華恋の父のお仏壇(おぶつだん)があり、そして━━
 部屋を満たす白い光のなかで、ゆっくりと手を合わせるのが見えた。
===============

息を潜めて静かに見ていたい…そんな瞬間に出会う時がありますよね。
では、次回もお楽しみに!

小林るい


◆次のお話へ →