祖母を助けられたのは、世界で私だけだった。|大切な人がいる人へ
Project MOON No.X-9
※この作品には、
人の死や介護に関する内容が含まれます。
気分が悪くなる可能性があります。
苦手な方は、どうかここで引き返してください。
祖母を救えたのは、
世界で私だけだった。
それでも私は、何もしなかった。
一つの「何もしなかった」で、
人は一生を後悔することがある。
◇
祖母は、
軽い認知症だった。
真夜中三時。
家中が寝静まり、
時計の秒針だけが小さく響く。
階段をゆっくり歩く足音がして、
部屋の扉が静かに開く。
薄暗い部屋で、
祖母は少し猫背になりながら、
不安そうな目で私を見つめ
ベッドで寝ている私を起こす。
「覚えていたものを忘れて、
出来ていたことが少しずつ出来なくなっている。
自分が自分でなくなるようで怖い。」
その声は、苦しそうだったが、
助けを求めるというより、
自分自身へ問いかけているようだった。
何が衰え、
何がまだ大丈夫なのか。
祖母自身にも分からない。
だからこそ、
怖かったのだと思う。
私はベッドの上で体を起こし、
「大丈夫だよ。」
その一言しか返せなかった。
◇
人生は、
たった一つの選択で、
取り返しのつかない場所へ進むことがある。
祖母が亡くなった日。
最後に会ったのは、
私だった。
夕方。
浴室の扉の向こうでは、
お湯を張る音が静かに響いていた。
家を出ようとした私は、
ふと足を止める。
嫌な予感がした。
風呂のお湯の設定温度が熱すぎる。
昼間から湯船に浸かろうとしている。
祖母は
認知症で、
判断力も少し落ちている。
全部、
分かっていた。
それなのに私は、
何も言わなかった。
「今日は風呂をやめよう。」
「お湯を少しぬるくしよう。」
「あとで入ろう。」
その一言で、
未来は変わっていたかもしれない。
選択肢はいくらでもあった。
それでも私は、
自分の用事を優先した。
急ぎでもない。
行かなくても困らない。
二、三時間ほど、
家を空けただけだった。
今では、
何をしに出掛けたのかさえ思い出せない。
祖母と引き換えにしたものは
一体何だったのか。
◇
帰宅した家は、
不自然なほど静かだった。
「ばあちゃん。」
返事はない。
浴室の扉を開ける。
白い湯気が、
ゆっくりと外へ流れ出てきた。
その向こうで、
祖母は浴槽の中に沈んでいた。
夢中で抱き起こし、
濡れた体を必死に引き上げる。
何度も名前を呼びながら、
心臓マッサージを続けた。
救急車を呼び、
震える手で母と叔母へ電話を掛けた。
助かってほしい。
頭の中には、
その言葉しかなかった。
◇
祖母が亡くなってから、
私は何度も、
あの日を思い返した。
どうして、
出かける前に声を掛けなかったのか。
どうして、
お湯を抜かなかったのか。
どうして、
家を出たのか。
介護に疲れ、
祖母が少しずつ自分を失っていく姿を
思い出すたび、
心のどこかで、
「もう苦しまなくてもいいのかもしれない。」
そんな考えが、
一瞬、頭をよぎったこともあった。
その自分が、
今でも怖い。
でも、
本当は違う。
それでも私は、
祖母に
もう少し
生きていてほしかった。
◇
あの日。
祖母を助けられたかもしれない人間は、
世界で私一人しかいなかった。
祖母を殺したのは、
たぶん私だと思っている。
だから今でも、
実家の風呂場のドアを開けるたび、
白い湯気を見るたび、
何も言わず家を出た、
あの日の選択を思い出してしまう。
その後悔だけは、
何年経っても、
消えることはない。🌙
了
あとがき
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。
この作品は、
私の中で長い間、
言葉にできなかった後悔を書いたものです。
祖母が亡くなってから、
私は何度も「あの日」を考え直しました。
声をかけていれば。
温度を下げていれば。
家を出なければ。
そんな「もしも」を、
数え切れないほど。
けれど、
どれだけ考えても、
時間は戻りません。
この文章を書いたことで、
後悔が消えたわけではありません。
それでも、
誰にも話せなかった思いを、
初めて一つの作品として残すことができました。
もし今、
大切な人が近くにいるなら。
少し声をかけること。
少し様子を見ること。
その小さな行動が、
誰かの未来を変えることも
あるのかもしれません。
この作品が、
そんなきっかけの一つになれば幸いです。🌙
🌙生前の祖母を観測した記録です。
今回の作品は、
祖母を失ったあとの話でした。
もしよろしければ、
祖母がまだ笑っていた頃の記録も
読んでいただけたら嬉しいです。
▶︎この作品は、「ちび創作大賞」へ応募しています。
カワムラさん、VOIDさん。
このたびは、
ずっと言葉にできなかった過去を
吐き出す機会をくださり、
本当にありがとうございました。
