マチコは距離を詰めなかった|一線を引いたまま引き受けた人の話
Project MOON No.02-2
母がいなくなった。
その事実だけが、強く残っていた。
母がいない時間は、たしかにあった。
どれくらい続いたのかは覚えていない。
でも、一週間くらいの
短いものではなかった気がする。
そのころ、
私は妹と一緒に祖父母の家で暮らしていた。
母と父はいなくなり、
私たちだけが祖父母の家に残されていた。
何か説明はあったのだと思う。
ただ、それを理解するには、
私はまだ子どもすぎた。
だから私の中に残ったのは、
「母と父がいない」
という事実だけだった。
昨日までとは違う家。
自分の家ではない場所。
そこに祖父母がいて、
私たちは暮らしていた。
妹は、
まだその状況を理解できる年齢ではなかった。
私も子どもなりに、
両親がいない現実を
ぼんやり受け止めていただけだった。
祖父母は優しかった。
畳の匂いが残る家で、
祖母はいつも台所に立っていた。
夕方になると、味噌汁の湯気が静かに立ち上る。
でも私は、どこか落ち着かなかった。
大事にはされている。
優しくもされている。
それなのに、
自分の家ではない場所にいる感覚だけが、
ずっと消えなかった。
子どもながらに、
どこか「お客様」みたいな
距離感を感じていたのだと思う。
しばらくして、
母は父を連れて戻ってきた。
ただ、父は以前とは少し違って見えた。
目を合わせても、すぐに視線を逸らす。
家の空気も、どこかぎこちなかった。
母は、父のことや、
これからの家族のことを必死に説明してくれた。
テーブルに手を置きながら、
言葉を探すように、
何度も同じ話を繰り返していた。
でも、私に理解できたのは二つだけだった。
これまで住んでいた家を出て、
これからは祖父母の家で暮らすこと。
そして、
父は私たちとは別の場所で暮らすこと。
私は、
その事情を理解するにはまだ子どもすぎた。
だから、父が別れ際に
「一緒に散歩に行こう」
と声をかけてくれたときも、
深く考えずに断ってしまった。
すると父は、突然強く怒った。
それまで見たことのない顔だった。
私はただ驚き、
何がいけなかったのか
分からないまま戸惑っていた。
そして父は、
そのあとすぐに地元の病院へ
入院することになった。
◇
それから少しして、祖父が亡くなった。
家には、
祖母と母と、私と妹の四人が残った。
祖母の名前は、マチコ。
マチコは、働く母を支えながら、
私と妹の面倒を見てくれた。
玄関扉を開けると、
台所から包丁の音が聞こえる。
トントン、と一定のリズム。
火にかけられた鍋からは、
湯気が静かに立ち上っている。
「学校はどうだった?」
少し振り返ってそう話す声は、
どこか少しだけ距離があった。
◇
ある日の夜のことだった。
夕飯を食べ終え、
私は畳の上に寝転びながら、
バラエティ番組をぼんやりと見ていた。
テレビの音が小さく流れている。
その横で、
マチコは台所の端にあるテーブルに
一人で座っていた。
使い込まれた家計簿を広げ、
小さな文字で数字を書き込んでいる。
指先で算盤を弾き、
ときどき手を止めて、じっと数字を見つめる。
その横顔は、思っていたよりもずっと真剣だった。
「ちょっといい?」
不意に声がかかった。
マチコは顔を上げ、
首をゆっくり傾けながら、こちらを見る。
「今、あなたたちが勉強できているのはね……」
ページをめくる音だけが、
静かに部屋に響いた。
「どれだけありがたいことか、
ちゃんと分かっていないといけないのよ」
ボールペンの先が、
家計簿の上をゆっくりとなぞる。
紙に触れる音が、やけに大きく聞こえた。
「戦争があったら、そんなこともできない」
私は、何も言えずにうなずいた。
「だから――」
そこで、マチコは手を止めた。
顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
その目は静かだった。
けれど、逃げ場はなかった。
「恵まれているあなたたちは
――できることを、全部やりなさい」
その目は、私を見ているようで、
どこか違う場所を見ているようにも見えた。
ただ、
私はその話をされるのがわりと面倒で、
よくコンビニに寄り道をして時間をつぶしていた。
家に帰ると、
月に一度届く学習教材を、
やっているふりをして答えを丸写しする。
そしてマチコの前では、
きちんとした顔で机に向かっていた。
マチコは、
帰宅するたびに私たちの様子を確かめ、
机に向かっているかを静かに見ていた。
テストの点が良ければ、
少しだけ表情を緩めて褒めてくれた。
ただ、その距離はいつも変わらなかった。
親のように深く踏み込んでくることはなく、
どこか一線を引いたまま、
私たちを見ていた。
当時の私は、
「どうしてこんな話を
毎日のように聞かされるのだろう」と思っていた。
小学生の自分には重すぎる言葉で、
どこかプレッシャーのようにも感じていた。
ただ、今になって思う。
あの言葉は、
私に向けられているようでいて、
本当は、
私だけに向けられた言葉では
なかったのかもしれない。
私に語りかけるようにしながら、
マチコ自身が、
自分に言い聞かせていたのかもしれない。
そんなふうに思える。
そして――
マチコは、そのあとも変わらなかった。
年を重ねても、
バイタリティが衰えることはなく、
いつも新しい何かを探し、
新しい困難に向き合い、
それを乗り越えていった。
その姿は、
当時の私には強くて頼りになる人に見えていた。
だからこそ、
あの小言も受け止めていられたのだと思う。
だから私は、
あの小言を、
最後まで聞いていられたのだと思う。
……もっとも、
その納得も、ほんのわずかなものだったけれど。
マチコは、そういう人だった。
了
▶︎「マチコ」シリーズです。
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