「発達障害は才能だ」に違和感を覚える、当事者父の本音
「エジソンもアインシュタインも発達障害だった」
「発達障害は才能」
「普通の人にはない特別な力がある」
SNSや書籍で、
こういう言葉をよく目にします。
善意で言っているのは分かるし、
実際に著名な方で診断を公表している方もいます。
「発達障害=ダメ」というイメージを
覆したい気持ちも分かります。
でも、、、、
発達凸凹の息子を育てる父として、
この言説にずっと違和感を覚えてきました。
今日は先日に引き続き、私の気持ちを中心に
書いていきたいと思います。
「天才」も「ダメな子」も、同じ構造
「発達障害=ダメな子」
という偏見がある一方で、
それを打ち消すために
「発達障害=天才」
という物語が広がっています。
最近だとイーロン・マスクさんがいい例ですね。
気持ちは分かります。
でも、よく考えてみてください。
どちらも
「発達障害を特別な存在として扱っている」
という点では同じなのです。
「ダメ」も「天才」も、
外から貼るラベルです。
マイナスのラベルを剥がして、
プラスのラベルを貼り直しただけです。
ラベルを貼っている構造自体は
何も変わっていません。
「うちの子はエジソンにはなれません」
著名人の成功例を見せられるたびに、
当事者の親は複雑な気持ちになります。
「エジソンも発達障害だったんですよ!」
と励まされても、
心の中では
こう思うのです。
「……でも、うちの子には
そんな突出した才能はありません」
そして、その次に来るのは
もっと辛い感情です。
「じゃあ、
才能がないうちの子はダメなの?」
「発達障害でも天才ならいい。
でも天才じゃなかったら?」
「才能があるから素晴らしい」は、
裏を返せば
「才能がなければ価値がない」です。
全員に
突出した才能があるわけではありません。
それを見つけ出すのが、
親、教育者、支援者だ、と言われてきたことも
あります。
これは発達障害のある子に限らず、
定型発達の子も同じです。
クラスの30人全員が
何かの天才ではないのと同じように、
発達障害のある子全員が
エジソンやアインシュタインに
なれるわけではない。
当たり前のことなのに、
「発達障害=才能」という物語は
その当たり前を見えにくくしてしまいます。
「才能」でも「欠陥」でもない。「特性」です、「個性」です。
発達障害は、
その人の「特性」です。
「才能」でも「欠陥」でもありません。
例えば、過集中と呼ばれる特性があります。
ある文脈では
「すごい集中力」と称賛されます。
でも別の文脈では
「切り替えができない」
「声をかけても反応しない」
と困りごとになる。
こだわりの強さもそうです。
ある場面では
「専門性の源」になります。
でも別の場面では
「柔軟性がない」
「変化に対応できない」
と見なされる。
同じ特性が、
環境や文脈によって
「強み」にも「困りごと」にもなる。
ただ、それだけのことなのです。
だから、
「才能だ」と持ち上げるのも、
「障害だ」と落とすのも、
どちらも的外れだと私は思っています。
特性は特性。
良いも悪いもない。
それが、
どんな環境でどう現れるか。
大事なのはそこであって、
特性そのものに
「すばらしい」も「ダメ」も
ないのです。
天才でなくても、価値がある
私が本当に伝えたいのは
ここです。
才能があるから価値があるのではない。
特別な人だから支援するのではない。
天才でなくても、
エジソンにならなくても、
何かに秀でていなくても、
その子がその子のまま、
安心して生きられること。
それだけが大事なのです。
才能を見つけなくていい。
天才のエピソードで
自分を奮い立たせなくていい。
ただ、
目の前のその子が
今日笑っているかどうか。
明日も安心して
学校や家や事業所に行けるかどうか。
それだけを見ていれば、
十分なのです。
最後に
「発達障害は才能だ」ではなく、
「発達障害はその人の一部だ」。
持ち上げなくていい。
落とさなくていい。
ただ、そのまま見てほしい。
前回の記事で
「普通って何ですか」と書きました。
「普通」も「天才」も、
外から貼るラベルにすぎません。
その子自身は、
ラベルの下にいます。
ラベルを剥がして、
その子をそのまま見ること。
それが、
「発達障害は才能だ」よりも、
「発達障害はダメだ」よりも、
ずっと大切なことだと
私は思っています。
うちの息子は、
エジソンにはならないと思います。
でも、
今日も笑って「ただいま」と帰ってきた。
それだけで、
十分すぎるほど十分です。
