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【障害者×アート】に覚える違和感。当事者父の本音

テレビをつけると、
たまに「障害者アート」の特集が流れてくることがあります。

自閉症の画家が描いた色鮮やかな絵。
知的障害のある人が作った陶芸作品。
ダウン症の書家による力強い書。

スタジオでは、
タレントやコメンテーターが口を揃えてこう言います。

「障害があるのに、こんなすごい絵が描けるなんて」
「感動しました」
「勇気をもらいました」

その言葉を聞くたびに、
妻と顔を見合わせて、
テレビの音量を下げてしまう自分がいます。

感動するのが間違っているとは思わない。
悪意がないのも分かっている。

でも、どうしても、
胸のあたりがザワザワする。

このモヤモヤの正体を、
ずっとうまく言葉にできませんでした。

今日は、そのモヤモヤを
自分なりに言語化してみようと思います。


「のに」が引っかかる

「障害があるのにすごいね」

この言葉を分解してみます。

引っかかるのは「のに」です。

「のに」は、
「本来はそうならないはずなのに」
という前提を含む接続詞です。

つまりこの言葉の裏には、
「障害がある人は、本来すごいことはできないはずだ」
という前提が貼りついています。

褒めているようで、
実は「障害者=できない人」という枠組みを
強化してしまっている。

「女性なのにすごいね」
「若いのにすごいね」

これらの言葉が持つ構造と同じです。

褒めた側に悪気はない。
むしろ「すごい」と本気で思っている。

でも、その「すごい」の土台に、
「あなたたちは本来できないはずの存在だ」
という無意識の前提が敷かれている。

「のに」が入った瞬間、
褒め言葉は見下しに変わってしまう。

それが、私のモヤモヤの正体の一つです。

偉そうに書いていますが、
正直に告白させてください。

以前の私も、
まったく同じ消費をしていた側の人間です。

教員時代、
特別支援学校の文化祭で
生徒たちが描いた絵を見たとき、

「この子たちが、こんな絵を描けるんだ」

そう思いました。

「この子たちが」。

今思えば、
その時点で私は絵を見ていなかった。
「障害のある子が描いた」という情報を見ていたのです。

色使い、構図、タッチ。
そういうものを純粋に見る前に、
「障害」というフィルターが先に来ていた。

そのフィルターを通すと、
どんな作品も自動的に「感動的」に変換されてしまう。

あの頃の自分を振り返ると、
恥ずかしさでいっぱいになります。

見ているのは「絵」か、「障害」か

一つ、考えてみてほしいことがあります。

もし、同じ絵を「健常者が描きました」と紹介したら、
同じ反応になるでしょうか。

同じ「すごい」が出てくるでしょうか。
同じ「感動しました」が出てくるでしょうか。

もし出てこないなら、
その感動は作品に対するものではなく、
「障害を乗り越えた物語」に対するものです。

作品そのものの力ではなく、
「障害があるのに」という文脈が
感動を生み出している。

それは鑑賞ではなく、消費です。

作品に向き合っているのではなく、
作者の属性を消費している。

私はこれを否定したいわけではないのです。
人が何かに感動すること自体は、
誰にも止められないし、止める必要もない。

ただ、
「自分は今、絵を見ているのか、障害を見ているのか」
という問いだけは、
一度立ち止まって考えてみてほしいのです。

「感動ポルノ」という言葉

少しだけ、
ある人の話をさせてください。

ステラ・ヤングさん。
オーストラリアの車椅子のコメディアンであり、
障害者の権利活動家だった方です。

彼女は2014年のTEDトークで、
「感動ポルノ(inspiration porn)」
という言葉を世に広めました。

障害のある人の日常や努力が、
障害のない人たちの「感動の材料」として消費される。

「あの人は障害があるのに頑張っている。
 自分ももっと頑張らなきゃ」

そう思うとき、
その文章の主語に障害のある本人はいません。

「自分が」頑張るために、
「あの人の障害」を利用しているだけです。

ヤングさんは、こう言いました。

障害のある人は、
あなたたちが自分の人生を前向きにするための
道具ではない、と。

この言葉を知ったとき、
自分の胸にずっと刺さっていたトゲの名前が
ようやく分かった気がしました。

親として感じるモヤモヤの正体

息子が何かを作ったとき。
絵を描いたとき。

周りの人が、善意で声をかけてくれます。

「すごいね」

その言葉が、純粋にうれしいときもあります。

でも、時々こう思ってしまうのです。

「この人は、息子の絵を褒めているのか。
 それとも、障害のある子が絵を描いたという事実を
 褒めているのか」

才能があるから価値がある。
すごいことができるから認められる。

この構造は、
前回の記事「発達障害は才能?」で書いた
違和感と根っこが同じです。

「発達障害は才能だ」も、
「障害があるのにすごい」も、

結局のところ、
「何かができるから、その人に価値がある」
という物差しの上に立っている。

じゃあ、
絵が描けない障害者はどうなるのか。
何かに秀でていない障害者は。

才能がなければ、
「感動」の対象にすらなれないのか。

息子がエジソンにならなくても、
画家にならなくても、
何者にもならなくても、

その子はその子のまま、ここにいる。

それだけでいいはずなのに。

「すごいね」が、
その「それだけでいい」を
揺るがしてくる瞬間がある。

それが、親として感じるモヤモヤの正体です。

「すごいね」の代わりに

じゃあ、障害のある人の作品を前にして、
何と言えばいいのか。

難しく考える必要はないと思っています。

「この色、きれいだね」
「この絵、好きだな」

それでいい。

「障害があるのに」を外して、
作品そのものを見る。

属性ではなく、表現を見る。

そのとき、
「感動の消費」は
「対等な鑑賞」に変わるはずです。

別に感動してもいいのです。
心が動くなら、それは本物の感動かもしれない。

ただ、その感動が
「障害があるのに」というフィルターから
生まれたものなのかどうかだけは、
自分に問いかけてみてほしいのです。

最後に

前々回、「普通って何ですか」と書きました。
前回、「発達障害は才能か」と書きました。

今回は、「感動」について書きました。

「普通」も「才能」も「感動」も、
全部、外から貼るラベルです。

そのラベルの下に、
一人の人間がいます。

ラベルを全部剥がして、
その人をその人のまま見ること。

私自身、まだ完全にはできていません。
教員時代の自分のように、
無意識にフィルターをかけてしまう瞬間は
今でもあります。

でも、「自分はフィルターをかけているかもしれない」
と気づけるかどうかで、
目の前の人との向き合い方は
少しずつ変わっていくと信じています。

息子が描いた絵を、
「障害のある子の絵」ではなく、
「息子の絵」として見ること。

それが、
私にとっての出発点です。

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