損切りできない回転寿司|【狸の短編小説】
店内に漂うのは、
神経を逆撫でするほど上質な甘い酢の香り。
ここは高級回転寿司『埋没』。
客は皆、長い沈黙のカウンターに座り、
己の運命を占うかのように、皿を待つ。
その光景はさながら役者が揃った能舞台。
円形に切り取る審判の光が、
俺の目の前の絶望を照らし出していた。
食べることのできない
ゲテモノ寿司が乗っていた皿。
それが十一枚。
俺の愚かな決断が積み上げた、
紛れもない墓標だ。
はっ、、、
口から漏れたのは、乾いた笑いだった。
たった今、十二枚目の皿として引き当てた
『セミの幼虫の軍艦』。
その強烈な視覚的暴力に、
俺の思考は、さらに麻痺していく。
皿が、カタリと音を立てて、
十二基目の墓石となった。
まるで、賽の河原で石を積む子供だ。
崩してくれる鬼もいない、終わりのない苦行。
もう帰ろう。
席を立てば、この悪夢は終わる。
だが、できない。
席を立つには、この十二枚の皿、
一枚につき三千円の『廃棄手数料』
を支払わなければならない。
三万六千円。
ドブに捨てろ、とでも言うのか?
それに加え、圧倒的な存在感を放つ
『金のワサビ』が、俺を止めている。
あと一つ。
あと一つ手に入れれば、
時価数万円の超高級ネタにありつける。
今やめるのは、あまりにも惜しい。
もったいないの呪いが脳に絡みつく。
一度手にした可能性を失う痛み、
いわゆる保有効果というやつが、
俺の足を鉛のように重くしていた。
その時だった。
けたたましいファンファーレが
店内に鳴り響く。
隣の席の男が、あの幻の鮭
『鮭児』を引き当てたのだ。
「大当たり! 全清算です!」
店主の声と共に、男の目の前に並ぶ
二十枚以上のハズレ皿が、
従業員の手で速やかに処理されていく。
顔に浮かぶのは、恍惚とした安堵の表情。
まさに贖罪の一皿。
羨望と、焦燥と、そして黒い嫉妬。
俺はいつの間にか自分の勝負を忘れ、
他人のドラマに釘付けになる
観客側への転落を果たしていた。
「俺も、あっち側へ行けるはずだ」
根拠のない確信が、心の隙間に湧き上がる。
次を一皿に踏み出せない俺に、店主は囁く。
「お客様、このままお帰りですと
手数料は三万六千円になりますが。
もし次で大当たりが出れば、
その負債は無に帰しますよ」
悪魔の囁きは、神の啓示のように聞こえた。
そうだ、合理的に考えろ。
挑戦する方が、得をする可能性がある。
俺は財布から最後の五千円札を取り出した。
これが、俺の最後の晩餐になるかもしれない。
流れてくる『?』の皿。
それに手を伸ばす。
心臓の鼓動が、
レーンを滑る皿の微かな振動と重なる。
それは指先の共振。
頼む。
もはや「美味いものが食いたい」などという
当初の目的は消え失せている。
ただ、ただ。
「まともな食べ物であってくれ」と。
そんな、あまりにも低い地点にまで落ち、
歪んだ祈りを捧げ、蓋を取った。
時が、止まる。
蓋の下にあったのは、淡い桃色の身に、
美しくサシの入った『大トロ』。
「中当たり! 五枚清算入ります!」
歓声が上がる。
目の前の墓から、五枚の皿が取り払われた。
絶望の墓地が、少しだけ狭くなる。
その瞬間、俺の脳を、
得も言われぬ多幸感が駆け巡った。
そうだ、流れが来た。
まだやれる。まだ、勝てる。
「お客様、おめでとうございます」
店主が微笑む。
「この店では、寿司にではなく、
ご自身の『決断』に金を払うのです。
損失の恐怖に打ち勝ち、
未来の可能性に賭ける。
その興奮こそが、我々の提供する
最高の逸品にございます」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
俺は今、この出口のない水槽の中で、
とてつもない解放感と全能感に満ちている。
失った金を取り戻したのではない。
損失が消えるという、
この快感そのものを買ったのだ。
これは、どんな高級寿司よりも甘美な麻薬。
俺は財布からクレジットカードを抜き取り、
カウンターに置いた。
震えは、もう止まっている。
「……もう一皿」
これは未来の前借りだ。
だが、構うものか。
あのファンファーレを、あの贖罪を、
この手で掴み取れるのなら。
俺は再び、深く、暗い海へと沈んでいく。
自らの意思に従って。

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