器は何も語らない|【狸の短編小説】
食卓にいつも置いてある器に、母の手が金色の液体を注ぐ。
粘り気の強いその液体は、鈍い音を立てながら器の底に溜まっていく。
母の言葉が落ちるたびに液体の密度は増して、器の縁まで満たされた金色は、僕の呼吸を圧迫する。
器そのものの重さが消えて、ただ注がれるものの質量だけがそこににあった。
自分の部屋の扉を閉ざして、ベッドに横たわり、天井が微かに震える音を聞いていると、傾けてもいない器の縁から金色の雫がひとつ、またひとつと床にこぼれ落ちる。
液体は広がることなく、ただ音もなく蒸発していった。
器の底が見えたときには、体がわずかに浮き上がる錯覚がある。
空であることの静けさが、耳の奥を満たしてくれる。
器が空になったその日から、部屋の扉は激しく揺れるようになった。
外で母の器が沸騰し、壁を叩いている。
僕は扉を開けない。
もう、どんな色も受け入れたくなかった。
まぶたの裏に微かな光が滲んで、頬を薄く照らしていた。
枕元のスマートフォンが静かに点灯している。
『屋上』
フェンスの向こうで街の光が滲んで、横顔を薄く照らしていた。
呼び出した彼の器が静かに光を抱えている。
隣に立った彼の器は、どす黒く濁った液体で満たされているように見えて、誰も触れようとはしない。
「約束、忘れてた」
この街を出て、国境を見に行く約束。
「別に」
彼が吐き出した煙は風に溶け、器の中の黒い液体がゆっくり揺れると、その濁りの底に、小さな光が瞬いているのが見えた。
僕の器が空だからだろうか、そのか細い光の輪郭がはっきりと映る。
彼が自分の器の縁を指で弾くと、器は鈍い音を立てて、表面から薄い湯気が立っていた。
家に帰ると、母が金色の液体で満たされた器を手に、待ち構えていた。
表面は不安で波打っていて、今にもこぼれそうな器を、僕は静かに手を差し出して押しとどめた。
「今は、受け取れない」
自室に戻って、スマートフォンの冷たい画面に触れる。
『国境、まだ行けるか?』
窓の外を茜色の光が満たしていた。
僕の空の器の内側で、その色が静かに揺れている。

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