メガネをつけない老人|【狸の短編小説】
夏バテだな、と呟く声がした。
規則正しく流れる水の音だけが、空気を揺らす乾いた空間のなかでただ一人、声を発する者がいる。
誰もが顔に薄いメガネを纏い、その内側で絶えず何かを交わしているなか、メガネをつけない老人は、人の気配のない広場にやって来て、独り言を口にする。
かつてベンチだった物にもたれ掛かった老人は、空気に溶けていく自分の声が、ひどく場違いなもののように感じていた。この違和感は一体いつ消えるんだろう、などと考えていると、三つの影は近づいてくる。同じ仕立ての服を着た、表情のない者たちの影。
『メガネなし、情報が確認できません。データベースを検索します。顔認証の結果、一件確認されましたが、最終更新日は規定外です』
『行動を予測します。加害や逃走の恐れがあります。接近する際は十分に警戒をしてください』
メガネに表示された警告文を見るやいなや、彼らは間合いを計るように、ゆっくりと老人を囲んだ。靴底が地面を擦る音さえ立てない彼らは、滑るような歩みで近づいてくる。
「こんばんは」
そう老人が声をかけると、三人はピタリと足を止めたが返事はない。ただただその視線が、老人の顔や服、手先などを隅々まで撫でていた。
しばらくの沈黙の後、一人が懐から小さなマイクらしきものを取り出した。そこから、甲高い女性の声が聞こえてくる。
「こちらは、治安維持部隊です。あなたの情報が確認できません」
声は、広場の静寂を支配するように広がっていく。
「お互いの安心のため、公共の安全のため、直ちに情報を開示してください。マイナンバー、氏名、住所、口座番号。いずれか一つで結構です。積極的な情報開示を求めます」
抑揚のない言葉の羅列が、水の音ときれいに重なる。老人は瞬きもせずに、音の出どころを見つめている。その無機質な響きに、遠い日の温もりを思い出しながら。
気づいたときには老人の目から、ひとすじの雫がこぼれていた。頬を伝って顎の先で震え、地面に落ちて小さな染みを作る。
小さなマイクらしきものは、なおも言葉を律儀に繰り返す。メガネの向こう側にある三対の瞳は、ただ戸惑ったように男の涙を眺めていた。


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色々考えていたら、片想いが何なのか分からなくなってしまいました😨

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