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猫はなかない|【狸の短編小説】

 猫の定位置は、決まって部屋の隅だった。遠くでそそり立つ四角い板からは、眩しい光が放たれるのと同時に、大きな声が湧き出ては消えていく。板に相槌を打つ男の笑い声は、腹の底から響いていた。

その耳障りな応酬が聞こえてくると、猫はいつもピタリと両耳を後ろに伏せた。外の世界で何が起きているのか、猫には知る由もない。ただ、部屋の空気を揺らす音だけが絶えず聞こえていた。

猫、ご飯だぞ

男の声がするが、猫は決して動かない。自分を呼ぶその響きに、意味はないと知っているから。重い足音が近づき、かすかに震える床に、白い陶器が置かれた。

カランと乾いた粒の、器を満たす音がする。男は満足げにひとつ息つき、再び四角い板の前に戻っていった。

しばらくの間、粒を見つめていた猫は、気乗りしない様子で立ち上がり、器から一番遠い隅まで歩いて行って、水を舐めた。喉の渇きが癒えると、元の場所に戻って、また体を丸めた。

要求はせず、絶対に鳴かない。それが、猫にできるすべてだった。


 板から出てくる声が止む日がある。代わりに、湿った咳の音が部屋に響き渡っている。時折、紙を乱暴に引きちぎる音と、鼻をすする粘ついた音が続く。

男の立てる音の種類が変わるだけ。笑い声が咳に変わっても、世界の騒がしさは変わらない。猫は、より一層体を小さく丸めた。

動けば、男に気づかれる。気づかれれば、また何かが与えられる。猫にとって、それは嬉しいことではない。


 朝、家は静まり返っている。板は光らず咳も聞こえない。男の気配そのものが消えている。ここぞとばかりに、猫は動き始める。

シンと静まり返った部屋の中、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえる。床を歩いても、自分の肉球が立てるかすかな音しかしない。

その時、ガチャッと扉の開く音がして、猫を驚かせた。猫はバネのように跳ね上がり、弾丸の如く空気を裂いて定位置へ戻っていく。

重い足音と「ただいま」という、かすれた声が聞こえた時、日常は戻ってきた。男は、猫の姿を見つけると、少し顔をしかめたが、何も言わずに台所へ向かった。

やがて、陶器の器に乾いた粒が注がれる音がする。カラン、カラン。苛立たせる音がまた聞こえてきた。

男が立てる生活の音を聞きながら、猫は固く閉じていた瞼を、ほんの少しだけ開ける。その瞳には、男の笑顔が映っていた。




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