ジ・ガ|【狸の短編小説】
私はガ。
壁に張り付き、息を殺している。
家具裏の暗い隙間に、床板のささくれた穴。
ここだけが、私の安全を保障する場所。
ひやりとした湿気が肌を濡らし、
堆積した塵の匂いが、私を隠してくれる。
壁の向こう側からは、
巨大な何かの気配が、絶えず伝わってくる。
その振動、その生活の音。
あれが「人間」だ。
奴らの気に障ることを、してはいけない。
それが絶対のルール。
世界は、糸でできている。
蜘蛛が張った見えざる、罠の糸。
積もった埃が風に舞い、
光の中でだけ姿を現す、繊維の糸。
私の内側で、過去から今へと伸びる、
断ち切れない、思考の糸。
それらが複雑に絡まり合い、
私をこの場に、縫い付けていた。
動けば、必ず綻びる。
特に、痕跡である鱗粉が剥がれ落ち、
存在が気づかれて、しまうかもしれない。
「ジ……」
天井の古い灯りが、不意に鳴った。
虫の羽音のような、神経を逆撫でする音。
そして、一条の光が闇を裂く。
わかっている。あれは破滅の誘いだ。
近づけば己の身を焼き、
私という矮小な存在を白日の下に晒す。
無慈悲な暴露の光だ。
だというのに、身体の奥底で、
何かが疼くように光へと惹きつけられる。
残念ながら抗えなかった。
安泰の穴から、ソロリと這い出す。
床を伝う空気の淀みに、未知の匂い。
人間のものだ。
食べ物の残り香、薬品の匂い、
そして、生きている肉の匂い。
それは、私を食らう側の匂いだ。
恐怖で身体の芯が凍る。
ずっと前から、私を巣食っている鈍い痛み。
その隠されたもう一つの「ガ」が、
恐怖と共鳴して熱を持つ。
その時だった。
巨大な影が、私を覆った。
見上げてはならない。
しかし、何故だか見てしまう。
二つの山のような足。
そこから伸びる、壁のような身体。
「人間」だ。
その影は、私という存在をまるごと、
飲み込んでしまうほどに濃く、
そして圧倒的だった。
「ジ…」
床がきしむ音。人間が、動いた。
私という無価値な塵芥に、気づいたのだ。
視線が突き刺さる。
それは診察室のライトよりも冷たく、
私のすべてを暴く光。
逃げなければ。
だが、思考の糸はもつれ、
身体は縫い付けられたように、動かない。
ああ、これが終わりか。
この得体のしれない不安。
自己嫌悪の堆積。
内と外からの絶え間ない痛み。
そのすべてが、今、潰されて終わる。
人間の手が、ゆっくりと降りてくる。
世界が、その掌の影に呑まれていく。
私は、ただ、眼を閉じた。
「ジ……」と耳鳴りがして、
「ガ…」と骨の砕けるような音が響く。
衝撃はなかった。
目を開けると、そこにはもう何もない。
ただ、私という「ガ」の意識が、
内臓を突き刺す、痛みだけを残していた。

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