呼吸する家具|【狸の短編小説】
ドアの下にある厚さ五ミリの隙間だけが、僕と世界をつなぐ唯一の呼吸口だった。
毎朝七時、その細い隙間の向こうに現れる灰色の靴下が、一日の始まりを告げる。
カタッと硬い音を立てて滑り込んでくる銀色のお盆。
そこに乗った冷めたスープとパンが、僕という生き物を維持するための、最低限の燃料補給だった。
僕はそれを食べて排泄をして、呼吸をして二酸化炭素を吐き出す。
この密閉された透明な瓶の中で、ただ代謝を繰り返すだけの存在。
それが僕だった。
終わりは、静かな暴力としてやって来た。
七時を過ぎても、灰色の靴下が現れることはなく、代わりに廊下の奥でドサッという、重い袋が落ちたような音が一度だけ響いた。
それきり世界は沈黙した。
管が断たれた僕は、膝を抱えたまま、燃料切れを知らせる胃の収縮音を、遠い工場の騒音のように聞いていた。
部屋の外へ出るという選択肢は、僕の頭の回路には組み込まれていない。
床の上では、黒い板が虫のようにのたうち回っている。
そいつ画面が光るたびに、毒々しい色彩が僕の部屋を汚そうとする。
あれは外部からの侵略の合図で、社会という名の巨大な獣が、僕を再び飲み込もうと触手を伸ばしてきているんだ。
僕は毛布を頭から被って、その暴力的な光を遮断した。
電池が尽きて、黒い板がただの石ころに戻った時、ようやく部屋の平穏は守られた。
郵便受けから溢れ出した白い封筒の群れが、床を雪崩のように埋め尽くしている。
赤いインクで印字された督促や安否の文字。
あれは、僕に人間として生きろと命令する呪いの札だったが、今の僕にはもう効果はない。
体内から水分が抜けて、指先が薄い紙のように乾いていく感覚がある。
これは、生き物としての湿った営みを捨てて、永遠に腐らない物質へと変わっていく、聖なる仕上げの作業。
喉の渇きとともに、頭の中が澄み渡っていき、部屋を舞う埃の一粒一粒が、宝石のように光を反射しているのが見える。
ゆっくりと僕の皮膚に降り注いで、薄い膜となって僕を包み込んでいく。
床板の木目が、僕の背中の皮膚と溶け合って、境目が消えていく。
瞼の裏に焼き付いていた銀色の盆の残像も、白く風化して消えていった。
僕は、完成された標本になるんだ。
***
数週間後、業者のドリルが鍵穴を破壊して、鉄の扉がこじ開けられた。
踏み込んだ男たちは、鼻を覆いながら顔をしかめている。
異臭を放つ郵便物の山と腐敗した生の残骸。
一人の男が、部屋の隅にライトを向けると、奇妙なものを見るように息を呑んだ。
「おい、なんだこれは」
そこに、人間はいなかった。
衣服の山の中に、精巧な蝋細工のようなものが埋もれている。
皮膚は透けるほど薄く乾燥していて、骨の線に沿って美しく張り付いている。
瞳は閉じられているが、その表情には苦しみも恐怖もなく、ただガラス玉のような冷たい静けさだけがあった。
西日が差し込んで、舞い上がった埃を黄金色に照らし出す。
その光の中で、かつて生き物だったその物体が、家具や床の一部として、完璧な風景に同化していた。
男たちは知らなかった。
この孤独が、誰にも邪魔されることのない永遠の安らぎを、自らの肉体を使って完成させていたことを。

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