#14 学生が悪いのか?職員が悪いのか?──いや、全員が困っていた話
こんにちは。異業種から大学職員へ転生したおぢです。
最近、とある学園祭のイベントについて学生たちとの話を横目に見聞きしていて、妙な違和感を覚えました。
最初はよくある、
「学生の理解不足かな?」
とも思いました。
でも、よく考えてみると違いました。
学生も困っている。
職員も困っている。
その職員の上司も困っている。
そして、おそらくそのさらに上の人たちも困っている。
なんじゃこりゃ。
学生からすると当然の不満
学生たちは真面目です。
「今年の学園祭を盛り上げたい」
「自分たちで企画を作りたい」
「好きなゲストを呼びたい」
そんな気持ちで何週間もかけて候補者を調べ、企画書を作ります。
ところが大学へ提出すると、
「それは難しい」
「その候補は厳しい」
と言われる。
学生からすると当然です。
「じゃあ最初から言ってくれよ」
となる。
職員も実は困っている
一方で職員も困っています。
なぜ難しいのか。
なぜダメなのか。
実は明文化された基準がない。
だから現場職員は、
大学の不文律を解釈する。
学生へ説明する。
学生の不満を受け止める。
さらに上司へ説明する。
気づけば職員が「翻訳家」になっています。
さらに上司も困る。
もっと上から
「なぜそのゲストなの?」
と聞かれる。
でも基準がない。
説明が難しい。
それがまた現場へ戻ってくる。
学生も困る。
職員も困る。
管理職も困る。
結果として全員困る。
あえてもう一度言っておきましょうか。
なんじゃこりゃ。
悪者はいない
ここで気づきました。
この状況に悪者はいません。
学生は真面目。
職員も真面目。
部長も真面目。
みんなそれぞれの立場で頑張っている。
それなのに疲弊している。
つまり原因は個人ではなく構造にある。
問題は人ではなく仕組みです。
今の流れはこうです。
大学の基準がない
↓
学生が自由に考える
↓
大学が後から判断する
↓
職員が説明する
↓
学生が納得しない
↓
職員が再度説明する
↓
上へエスカレートする
毎年これを繰り返す。
学生が変わっても繰り返す。
担当職員が変わっても繰り返す。
ならば問題は個人ではない。
仕組みです。
学生の主体性を削っていないか
おぢが一番気になるのはここです。
大学はよく、
「学生の主体性を育てたい」
と言います。
おぢもそう思います。
でも、
挑戦してみろ
↓
挑戦する
↓
理由が曖昧なまま却下される
↓
またやり直す
を繰り返した結果、
学生が
「どうせ最後は大学が決めるんでしょ」
と思い始めたらどうでしょう。
それは本当に主体性を育てているのでしょうか。
そしてもう一つ。
大学側が仕組みを持たないまま、
学生へ
「主体的に考えろ」
「仕組みを作れ」
と言うのは、少々都合が良すぎるようにも見えます。
学生を適当にいなすことはできない
たまに、
「学生なんだから適当にいなしておけばいい」
という空気を感じることがあります。
まあそういうこともあるんでしょう。
でもね、おぢは真っ当な大人たちに育てられて今があるんです。
小学校。
中学校。
高校。
大学。
社会人。
大学時代に大学職員と話した記憶も、大学職員に育てられあ記憶もありませんがね。
おぢは大学時代、食って寝て授業行ってバイトしてサークルで遊んでただけだった。
それはおいておくとして、また別の機会に深く語ろうか。
学生の提案が通るかどうかは別として、
なぜダメなのか。
どこまでなら可能なのか。
それを説明する責任は大人側にあると思っています。
必要なのは学生指導の強化ではない
この消耗戦には終止符が必要です。
学生も困る。
職員も困る。
管理職も困る。
誰も得をしない。
必要なのは学生指導の強化ではありません。
大学としての判断基準の明文化です。
最初からルールを示す。
その範囲で学生が考える。
大学が確認する。
本来はそれでいいはずです。
大学に来て驚いたこと
こう言っては角が立つかもしれませんが、おぢが大学に来て驚いたことの一つは、
「それって最初にルールを作れば解決しませんか?」
と思う問題が、案外そのまま放置されていることです。
もちろん現実には歴史もある。
前例もある。
利害関係もある。
だから簡単ではない。
しかし、
学生には自由に考えさせる。
大学には見えない基準がある。
後から却下する。
学生は納得しない。
職員が説明する。
また却下する。
また説明する。
そんな状況を見ていると、
思わず首をかしげてしまいます。
誰も幸せにならない
最初から枠組みや基準を示し、その中で考えてもらう。
組織運営としてはごく自然な話だと思うのですが、なぜかそれが存在しない。
結果として全員が消耗する。
学生も困る。
職員も困る。
上長も困る。
上層部も困る。
怒りというより、
呆れと不思議さで開いた口が塞がらない。
実際、学生からも似たような言葉が漏れます。「常軌を逸している」
この感傷を感じる趣深い表現には、おぢも思わず唸りました。
なんだかんだで回ってしまう
せめて登場人物の誰か一人でも幸せになってほしいのですが、結局、毎年なんだかんだ言って誰かが何とかしてしまう。
だから問題が問題として認識されにくい。
現場は疲弊している。
学生も疲弊している。
しかし学園祭自体は開催される。
そのため構造的な課題が表面化しないまま、不文律だけが温存されていく。
ある意味、美しい仕組みです。趣深い
さすがです。
おわりに
教育機関ですから。
主体性を育てると言いながら、主体性を削る構造になっていないか。
一度くらい立ち止まって考えてみてもいいのではないでしょうか。
大いなるズレに気付きながらも、大学職員であり続けるのもまた、大学職員の一つの在り方なのかもしれません。
あえて最後にこう締めくくろうと思います。
なんじゃこりゃ。
