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[劇団四季・ノートルダムの鐘]信仰とは、知ることなのか、生きることなのか

※一部ネタバレ、キリスト教についての素人的解釈を含みます。ご容赦ください。

『ノートルダムの鐘』を三度観て、ずっと「ひどい皮肉だな」と思っていることがある。

1. フロローは神学を知る「知識人」


聖書を読み、祈り、聖人について語り、ノートルダム大聖堂の大助祭という権威ある立場にいる。

カジモドには文字を教え、聖アフロディージアスの物語を教え、外の世界から隔離しながら、自分なりの方法で「正しい道」へ導こうとする。

2. エスメラルダは神学を知らない


一方のエスメラルダには、そんな知識も権威もない。

教会の人間ですらない。むしろフロローから見れば、神から遠いところにいる女だ。ジプシーで、踊り子で、彼の欲望を刺激する「誘惑する女」。やがて魔女として扱われ悲劇的な最期を迎える。

フロローはそんな彼女に、聖堂へ通い、学ぶように諭す(真意はさておきエスメラルダが無学な立場であることは明確)。彼にとってエスメラルダは、正しい信仰について「教えられる側」の人間なのだと思う。

それなのに、この作品を観ていると、私にはどうしても、フロローよりエスメラルダのほうにキリストの姿が見えてしまう。

最初にそう感じたのは、愚者の祭りでカジモドが晒し者にされる場面だった。

縄で縛られたカジモドを群衆が笑い、野菜などを投げつける。誰も助けない。フロローも見ている。

そこへエスメラルダが入っていく。彼女は短刀でカジモドの縄を切り、そして水を飲ませる。

この場面で、私は新約聖書の「罪のない者が、まず石を投げなさい」というイエスの言葉を思い出した。もちろん、同じ話ではない。

聖書では姦通の罪を問われた女性が石打ちにされようとしており、イエスが群衆に問いかける。『ノートルダムの鐘』では、群衆から物を投げつけられているのはカジモドで、その前へ出ていくのがエスメラルダだ。

それでも、群衆が一人の人間を囲み、辱め、物を投げつける中で、一人だけその輪から離れて、虐げられている者の側へ行く。

私にはその構図が重なって見えた。(聖書の印象的なところしか知らないせいもあるのだけど)

そしてエスメラルダは、カジモドに水を与える。聖書には「渇いていたときに飲ませてくれた」というイエスの言葉もある。神学についてほとんど知識を持たないであろうエスメラルダが、結果としてキリストの教えをそのまま行動にしている。

“God Help the Outcasts”でもそうだ。

大聖堂を訪れたエスメラルダが祈るのは、自分の幸せではなく、自分と同じように社会から見捨てられた人々のためだ。

そして最後には、フロローに屈すれば生きられるという状況でも、それを拒絶する。

火刑台に拘束されたエスメラルダの姿を観他際に、私は一瞬十字架にかけられたキリストまで連想してしまった(ここは飛躍してる自覚はあります)

英語圏にはエスメラルダを “Christ-like” と表現し、処刑場面の身体を “cruciform” と見る批評があることを、後から調べて知った。

とは言っても、エスメラルダをキリストそのものだと言いたいわけではない。

むしろ私が気になるのは、冒頭「皮肉」と言った点。

キリストについて最もよく知っているはずのフロローより、神学についてほとんど知らないであろうエスメラルダのほうが、その教えを生きているという事実。

3. カジモドは聖人を「知っている」のか


そして、もう一人いる。カジモドだ。

フロローはカジモドに知識を与える。

外の世界を知らず、言葉さえ満足に発することができなかった彼に文字を教え、聖人の物語を教える。その中に、聖アフロディージアスがいる。

殉教して首を落とされても、自らの頭を抱えて歩いたと伝えられる聖人だ。

ところが物語の最後、フロローへの服従を破るのはカジモドである。

彼は神学を論じない。はじめは聖アフロディージアスの名前さえ満足に発することができず、その発話の仕方にも物語の中で変化がある。

ただ、エスメラルダが殺されたことを前にして、自分を育て、自分に世界を教えてきた絶対的な権威に背く。

そして舞台では、石像達との会話で勇気を持ち自分の役割を理解しフロローに決定的な一撃を与える。

ここにも、ひどい皮肉を感じる。

私には、フロローが「教えた」聖人を、カジモドのほうが生き方として体現しているように見える。

そして最後には、聖アフロディージアスに自分を重ねたカジモドがフロローを打つ。

4. 信仰とは、知ることなのか、生きることなのか


エスメラルダは、教えられていないのにキリストの教えを生きる。

カジモドは、教えられた言葉をうまく操れなくても、教えられた聖人の精神を生きる。

フロローだけが、聖書を深く知っている。聖人を知っている。祈りを知っている。神について語る言葉を持っている。そして社会的な権威まで持っている。

それなのに、彼が「神から遠い」と考えている二人のほうが、彼の信じる宗教の核心に近づいていく。

私はキリスト教徒ではないし、神学を専門的に学んだこともない。

だから、これが神学的に正しい『ノートルダムの鐘』の読み方だ、と主張するつもりはない。

ただ舞台を観ていて、2回目の芝さんフロロー、寺元さんカジモド、宮田さんエスメラルダの回から、どうしても「皮肉」というキーワードが頭から離れなかった。

神について誰より多くのことを知っている人間が、目の前に現れた慈悲を認識できない。

聖人について教えている人間が、その教えを実践した者によって否定される。

だとしたら、この作品が投げかけている問いの一つは、こんなものなのかもしれない。

信仰とは、知ることなのか。それとも、生きることなのか。

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