私は「耐える人生」が正しいと思い込んでいた
耐える人生しか見えなかった理由
――世代で引き継がれた「我慢」の構造から抜けるまで
――そして、子どもへの影響
母が教えてくれた、私の「長所」
――真面目で、我慢強いこと
母が言っていた、私の長所は「真面目」「我慢強い」だった。
それが、夫に利用されてしまう資質になることを、当時の私は知らなかった。
相談できる相手が母しかいなかった私は、それが異常だと気づくまでに、26年という時間を要した。
母方の家系にあった「耐える女」と「壊す男」の歴史
叔父から聞いた話では、母方の祖父は酒乱で、祖母に手を上げ、浮気を繰り返す人だったという。
私の記憶の中の祖父は、無口で、どこか気難しい人だった。
小学生の頃、夏休みに従姉妹と泊まりに行き、祖父と一緒にお風呂に入った記憶だけが残っている。
母方の祖母は、幼い頃から苦労を重ねてきた。
地元では財閥的な立場にある本家に嫁いだものの、寝たきりの継母の世話や行商に出るなど、過酷な生活だったそうだ。
そんな家庭で育った母は、「優しい人と結婚しよう」と考え、父と結婚した。
しかし、その選択は結果的に誤っていた。
父の結婚資金と、ギャンブルが奪った人生の始まり
父は、お金が逃げていく人生を歩んだ人だった。
父が亡くなってから、かなり時間が経ってから聞いた話は衝撃的だった。
結婚式の前日、父は友人を自宅に招いて麻雀をしていたという。
翌朝、友人の一人と、結婚式のために用意していた現金が消えていた。
結婚式の費用は、すべて母の実家が負担したそうだ。
父は貧しい家庭で育ち、教室から給食費が消えた時、真っ先に疑われ泥棒扱いをされたこともあったらしい。
父の母は小学生の時に亡くなり、父の父(私の祖父)もギャンブルをしていたという。
父の兄は中卒で働き、弟たちの学費を工面した。
父は働きながら夜間高校を卒業したそうだ。
一生懸命貯めた結婚資金が、麻雀仲間に奪われる。
それは、あまりにも幸先の悪い始まりだった。
麻雀をする人は、パチンコもする。
ギャンブルは、家庭や人生を静かに壊していく。
お金が人を狂わせる構造を、私は身近で見て育った
父は、母の実家に何度も借金をしていたそうだ。
最近妹から聞いた話では、父は何度かサラ金が増えすぎて完済してもらっていたそうだ。
私も生前母から預かったお金で完済しに行ったが。
それは初めての事ではなかったそうだ。
パチンコにのめり込み、サラ金に手を出してしまう。
祖父がいくつかは完済してくれたという。幼い孫たちのためだったのだろう。
しかし祖父は、「これ以上助けると本人のためにならない」と、途中から援助をやめた。
事業に失敗し、亡くなった時点でも、20年前の借金は完済できていなかった。
私たちは相続放棄を選んだ。
その後、サラ金の存在も発覚した。
私は「お金で人生を狂わせた身近なモデルケース」を、目の前で見た。
「お父さんも同じだった」と言われ続けた日々
私が夫のことで母に相談すると、母は決まって言った。
「お父さんも同じだった」
母は、耐え方を教えてくれた。
パチンコにのめり込む父と夫。
恐らく、ギャンブルをする人の根底は同じなのだろう。
父が母の職場の付き合いでの飲み会や慰安旅行に拒否反応を起こしていたのは記憶がある。
1つの事件があった。
父が飲み会の帰りが遅い母を探しに行ったのか、外に出ていた。
何も知らない母はドアをチェーンも施錠し、戻った父は施錠されていたため入れずにドアを蹴り上げてドアが大きくへこみドア交換する出来事があった。
異常なまでに母を監視する。
母が職場の人との飲み会の時は、必ず機嫌が悪く、必ず夕飯を作っておかなければいけない状況だった。
これは愛ではない。支配なのだ。
私は結婚したら夫も同じだったので、男の人はみな同じなのだろうと思っていた。
お金を使い込み、自由は制限する。
経済的DVをする。
家族がいたら給料を全額自由に使えない。
そんな当たり前の話が、通じない。
それが暴力だと、母も私も気づけなかった。
経済的DVは、暴力として認識されにくい
友人に夫のことを相談しても、同じ状況の人はおらず、具体的な助言は得られなかった。
ただ話を聞いてもらうだけだった。
だから私は、母に頼り続けた。
それがモラハラやDVだと気づかないまま、負のループに入っていった。
人間関係を学ばず、本音と建前の区別もなく、純粋に人を信じてしまう私にとって、母は「正解」を知っている人だった。
父の厳しさも、愛情だと思っていた。
しかし、亡くなった後に見つかったサラ金の存在は、それが愛情ではなかったことを突きつけた。
だから私は、父の死後、子どもが生まれていたこともあり、
「パチンコをやめること」を結婚継続の条件として夫に伝えた。
税込300万円台の年収でパチンコをする余裕などない。
無理なら離婚だと腹を決めて、伝えた。
不自然なトラブルが重なっていた、夫の周囲
今思えば、夫の周囲には不自然なトラブルが多かった。
賃貸時代から、私に嘘をついてお金を引き出していた可能性もある。
会社のカメラを水たまりに落として壊した。
上司同乗の社用車を民家にぶつけ、現金で弁償してきた。
「やっと貯金ができた」と喜ぶと、すぐに臨時出費が重なる。
今なら、それらが事実だったのか疑問に思う。
会社の備品に保険がなく、個人に全額負担を求める企業が本当にあるのだろうか。
家を購入してから、夫のモラハラは本格化した。
私の自由は奪われ、気づけば母と同じ人生をなぞっていた。
祖母も、母も、夫で苦労していた。
だから私は、「どこの母も同じように苦労しているのだ」と思い込んでいた。
私が抜け出せなかった背景
なぜ私は、ここまで長い時間、「耐えること」を人生の前提にしてしまったのだろう。
今なら、その理由がわかる。
私が見て育った大人の姿が、そうだったからだ。
耐えることが「正しい生き方」だった
私にとっての人生モデルは、母だった。
母は、家族のために自分を後回しにし、苦しくても耐え、責任を引き受け続ける人だった。
楽しむよりも、楽になるよりも、「守ること」「我慢すること」に価値を置いて生きていた。
それを見て育った私は、
人生とは、カツカツで、耐えて、責任を果たすものだと信じ込んでいた。
選択肢が見えなくなる仕組み
その価値観は、私の選択肢を少しずつ狭めていった。
我慢できることが美徳
違和感は自分の弱さ
問題があっても、耐えればなんとかなる
そう信じていたから、人間関係でも、結婚でも、危険信号を見過ごしてしまった。
私は意識的に選んでいたわけではない。
ただ、そういう人生しか知らなかった。
抜け出せなかった理由は「弱さ」ではない
今なら、はっきり言える。
私が抜け出せなかったのは、意志が弱かったからでも、判断力がなかったからでもない。
最初から、別の生き方を知らなかっただけだ。
転換点は「命の感覚」だった
変化が起きたのは、心と身体が限界に達したときだった。
病気になり、
「このまま同じ生活を続けたら、生きていられないかもしれない」
という、はっきりした危機感を持った。
その瞬間、初めて思った。
耐えることより、生きることを選ばなければならない。
妹の怒りが教えてくれたこと
別居後、妹に今までのことを話すと、妹は母に怒りを向けた。
「どうして、こんなに酷いことをされ続けているのに、離婚するなと言うのか」
それは、母自身が歩んできた道だったのだと、
私は理解できた。
妹は、同じ家庭で育っても、私とは違う道を選んだ。
生まれ育った環境を打破しようと努力し、
環境を変え、条件の良い企業へ転職し、
安定した家庭を築いている。
幼いころから、母に言われ続けてきた言葉がある。
「お姉ちゃんだから我慢して」
それが、私には当たり前だった。
私は、耐えることしか思いつかなかったのだろう。
誠意をもって接すれば、いつか必ず伝わる。
そう信じていたからこそ、
どんな困難でも、頑張ることができてしまった。
出会ってはいけない相手だったのかもしれない
夫はモラハラの母から教育されていた。
私は被害に遭いやすい土台ができていた。
なるべくして、なった。
そう言える部分もある。
問題提起してくれたのは、距離のある人たちだった
家事代行で来てくれたENTP気質の女性。
久しぶりに会った、今も独身の昔の同僚。
グラビティで知り合った、私を知らない人。
関係が薄い人ほど、問題提起してくれた。
その言葉をきっかけに女性相談に行き、
私は自分がDV被害者であることを知った。
「あなたが悪いわけではない」
その言葉で、初めて、自分の置かれていた状況が異質だったと理解できた。
私の代で、この連鎖を終わらせる
母は、死別するまで友人も持たず、娯楽で外出することもなく、
働き、耐え、父に依存する人生を送っていた。
そんな人に相談していた私は、同じ方向へ導かれていたのだ。
やっと、私の代で、この呪縛から離れられた。
よく持ち堪えたな
振り返って思う。
私は、何も知らずに過酷な場所を走り続けていた。
それでも倒れず、立ち止まり、気づき、ここで止まった。
だから今、あの頃の自分にこの言葉を贈りたい。
よく持ち堪えたな。
それは、自分への評価であり、
同じ場所で苦しんでいる誰かへの言葉でもある。
これは「抜けた人」の記録
この文章は、誰かを責めるためのものではない。
「耐える人生しか見えなかった理由」を言葉にした、構造の記録だ。
もし今、
「なぜこんなに我慢してしまうのか」と自分を責めている人がいたら、
それは、あなたの欠陥ではない。
あなたが見てきた世界の形かもしれない。
我慢は、必ずしも「守ること」ではなかった
母親であると、
「子どものため」「家族のため」に生きることが疑いなく正しく見えてしまう。
けれど、
私だけが耐え続ける構造は、結果的に、子どもにも影響を与えていた。
我慢し続けることは、
必ずしも「守ること」にはならない。
ときにそれは、子どもにとって見えない重荷になる。
子どもが受けていた、見えない影響
夫が子どもに離婚の話をしたことをきっかけに、
私は、これまで隠してきた出来事を、少しずつ子どもに話し始めている。
その中で、息子から初めて聞いた言葉がある。
「父親の影響で、
母親を信用しないように誘導されていたと分かった」
だから、今まで両親どちらも信じられなかったのだと。
どちらが嘘をついているのか分からず、
どちらにも聞くことができなかったのだと。
自我が芽生えてきたころから、
父親が豹変しはじめたという。
「厳しくしつけないといけない」
私には、そう言っていた。
けれどそれは、
支配や服従を正当化するための
カモフラージュだったのだと、今なら分かる。
私は、防波堤になっているつもりだったが、全てを防げていなかった。
けれど私に隠れて、
息子に圧力をかけていた。
そう、涙ぐみながら打ち明けられた。
私が姑と夫にやられてきたことを、
息子もまた、夫からやられていた。
私は、夫の理不尽な話を
子どもには伏せてきた。
けれど息子もまた、
理不尽な扱いを受けていた。
私のいないところで、
自分に有利になるよう、
私に関する嘘を吹き込まれていた。
それは、信じがたいことだった。
夫は、自分の母親と同じことをしていたのだ。
すべては、自分の利益を守るために。
息子に、父親が原因で流産したことを話したことで、
母子の信頼関係も、少しずつ変わってきた。
私が自分の利益のために
嘘をついているのではないと、
やっと分かったそうだ。
そこから、少しずつ、
本音を話してくれるようになった。
私が耐え続けてきたことは、
守ったものだけではなく、
同時に、子どもに与えてしまった影響もあった。
このことについては、
「子どもが受けた影響」という視点で、
別の記事にまとめる予定です。
また、読みに来てください。
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