くらげの瞑想と、わたしの創造する陰陽の世界。
今年最初の投稿となります。
親愛なるnoterのみなさま、本年も、どうぞよろしくお願い申しあげます。
昨年は、本当に豊かな年でした。
享受して生きる年から、自ら描いて生きる年へ。
「『俳優』として自分の人生を演じる」生き方から、「『書き手』として自分の人生を創造する」生き方へ。
はっきりシフトチェンジを感じた年でもありました。
その思いについては、年の半ばで下の記事に書きました。
noteさんからの年末の報告によれば、わたしの書いた記事なかで、昨年いちばん読まれたものであったようで、多くの方が、「未来を創造する」時代への移行をそれぞれに感知し、記事に共振してくださったことを、嬉しく心強く思いました。
今年もまた、自由に自由に創造してまいります!
そしてみなさんとの共創を、心から楽しませていただきますね。
さて、今年に入り、ちょっとした世界観の変化がありました。
わたし自身の内面の話ではありますが、世界観の変化は、現実創造にも影響するもの。
それを今年の初投稿として、まとめてみたいと思います。
内面の変化の多くは、わたしの場合、瞑想をきっかけに訪れます。
今回も、「くらげの瞑想」とわたしが呼ぶ瞑想の最中に、その変化は起こりました。
変化したのは「波」、そして「陰陽」についての感覚です。
そのお話をする前に、「くらげの瞑想」について、そしてその前に横隔膜について、少しお話させてくださいね。
横隔膜は、体で最も重要といえる呼吸筋です。
胸腔の「床」にあたる筋肉でもあり、下のイラストのように、肋骨の下端に付着しています。

左側が、吸氣のときの横隔膜の状態。
横隔膜が、ぴんと張られることで胸腔がひろがり、空氣が肺にしっかり取り込まれた状態です。
それに対して右側は、呼氣のときの様子。
横隔膜が緩み、まあるく縮まることで「床」が持ちあがり、胸腔が狭くなった状態。このとき肺は、空氣を外に吐きだします。
イラストAは、あえて背景を海の色に、横隔膜を白にして制作しましたが……この横隔膜の動きって、まるで海を泳ぐくらげみたいだと思いませんか。
呼吸にあわせてひろがったりすぼんだりする……「まるでくらげのような横隔膜の動き」に集中する瞑想が、「くらげの瞑想」です。
ただ無心に、その「くらげの動き」に焦点をあわせていたある日の瞑想中──はっと心に浮かんだビジョンがありました。
そのビジョンは、一瞬のうちに全体像としてわたしの腑に落ちたもので……言語化しようとすると少々込みいったものになるかもしれません。
また、これはあくまでもわたし個人のビジョンに過ぎませんから、みなさんの感覚にぴたりとあてはまるとは限りません。
けれどわたしには、わたし自身のこれからの現実創造の基軸となるイメージのように思われましたので、イラストの助けも借りながら、言語化を試みたいと思いました。
おつきあいくださるなら幸甚です。
では、下のイラストをご覧ください。

これは、「平らになったり盛りあがったりを繰り返す横隔膜の動き」を単純化したものです。
赤線が、吸氣のときの平らになった横隔膜。青線が、呼氣のときの盛りあがった横隔膜だと思ってください。そしてその上にぽつんとのっている人を、「太郎くん」と呼びたいと思います。
「横隔膜の上にぽつんとのっている太郎くん」といわれても、少しイメージしづらいかもしれませんね。
それよりは、「大きな大きなドームの上に、ちょこんとのっている太郎くん」を思い浮かべていただくほうがわかりやすいかもしれません。
横隔膜やくらげと同じように、平らになったり盛りあがったりを常時繰り返す、巨大なドームです。
もしこの太郎くんが、自分がドームの上にいることを知らなかったら……太郎くんからみた「自分の動き」は、こんなふうに感じられると想像できます。

この動きをグラフにして表すと、こうなります。

上がったり下がったりを繰り返す、波の形。
こういう波のグラフを、わたしたちは通常、「プラスとマイナスの間をいききする波」として受けとります。
「陰陽のバランスがとれた波」です。
そして、これを人生にたとえることもよくありますよね。
「人生の浮き沈み」などの言葉もあるように、生きていれば良いことも悪いこともある、プラスもあればマイナスもある……そんな考え方を表す普遍的な波形です。
こうした世界の捉え方を、わたし自身、決して嫌いなわけではありません。
「沈む」時期を経験しながら、大切な学びを享受するというのは、とても大切な、そしてやさしい視点です。
でももし太郎くんが、自分がドームの上にいることを自覚していたとしたら。
太郎くんは自分の動きを、全く別の視点から捉えることもできます。
イラストにすると、こんな感じです。

そしてこの繰り返しをグラフ風に表現すると、下のようになります。

グラフというより、ただドームの形状を並べただけになりましたが……これは「浮き沈み」とは表現しづらいですよね。
浮くけれど沈まない波、とでもいいましょうか……むしろ、「凪と波」といい表すのがふさわしいように感じます。
そして、わたしたちは通常、凪の状態をゼロ、盛りあがった波をプラスとして捉えます。
つまり、「太郎くん個人」の視点で世界を捉えたときには、「プラスとマイナスの往復」で表現された、その同じ現象が、「太郎くんののったドーム全体」という視点から眺めたときには、「ゼロから上のプラスの世界」として表される、ということになります。
常態的で連続的なな変化を、プラスとマイナスの往復──つまり「陰陽のバランスがとれている」状態として捉える習慣のあるわたしたちには、マイナスの存在しない変化は、一見不自然なことのように感じられるかもしれません。
けれど実は、「マイナスという視点のない世界のあり方」は、意外にもわたしたちの日常に満ちています。
たとえばコンピューターの世界は、「ゼロとイチ」の二進数ですべての情報が管理されていますし、体の働きも、神経を通して伝達される「オンとオフ」の命令で成り立っています。
わたしたちの人生だって、よくよく考えてみたら、「『する』か『しない』か」、二択の繰り返しで成立しています。
実はそこには「マイナスする」という選択肢は存在しておらず、マイナス方向に動いたようにみえる現象は、「する」と「しない」の選択の組み合わせが結果的に生みだしたものに過ぎません。
そう捉えると、「マイナスという現象」は、「結果という幻想」に過ぎず、わたしたちの目の前に常時存在するのは、本当は、「するかしないか」、「オンかオフか」、あるいは「ゼロかイチか」の選択肢だけなのかもしれません。
では、「マイナス」の存在しない世界では、「陰陽」も幻想なのかと問われると──それは少し違うように感じられるのです。
ここでちょっと、「ドーム全体」の変化を表した前掲のイラストFに、上から光をあててみます。
すべてのドームに右斜め上から光があたっているとすると、そこにはイラストGのような影ができると考えることができます。

「凪状態のドーム」には、いっさい影が生まれません。
それは全体に光のあたる世界。すべてが明るく照らされた、平安の世界です。
「波状態のドーム」には、その盛りあがりに応じて影が生じます。
つまり、動きがあれば影ができる。なにかが「存在」すれば、そこに必ず陰陽が生まれる、ということです。
いうなれば、影は「存在の半身」。
沈んだ状態でもなければ、マイナスを表すものでもありません。
少し整理してみます。
「波状態のドーム」そのものにフォーカスすれば、そこには切り離しがたい光と影が存在することになりますし、「凪状態のドーム」と「波状態のドーム」を比較すれば、「いっさい影の生まれない『凪』が陽」であり、「必ず影を伴う『波』が陰」だと捉えることができます。
興味深いのは、このとき生じる陰陽の関係は、太郎くんが自分の人生を「浮き沈み」と捉えていたときの陰陽のあり方とは、全く逆転していることです。
それを、グラフで比較してみますね。

もちろん、この違いは視点の差から生まれるものに過ぎず、どちらが正しいとか優れているとか、比較できるものではありません。
でもだからこそ、「自分がどの視点から世界を捉えるか」を「選ぶ」ことが、自身の現実創造に大きく影響してくるのだと感じるのです。
「浮き沈み」を陰陽として捉える価値観を、もちろん否定はしません。
「善と悪」。「光と影」。「楽と苦」。
それらがバランスを取りながらこの世界を構成しているとする価値観に、わたし自身影響を受けてきましたし、救われてきました。
でもときどき、それに違和感を感じていたのも本当の氣持ちです。
たとえば「経験した苦しみ」を肯定し、ためらわず両腕をひろげて、それを抱きしめることと。
この世界に「苦しみはあって当然」なのだとあらかじめ決めつけ、定義づけることと。
似て非なるものではないでしょうか。
前掲の過去記事にも書いた通り、この世界を創造するのはわたしたち自身である──その思いに、もはや迷いも疑いもありません。
だとしたら、陰陽を「善悪や苦楽のバランス」だと捉え、どちらもあることが必然だとわたしたちが思い込んでいる限り、その世界は繰り返されます。
光はあります。影もあります。
でも、いまのわたしの価値観において、影は「マイナス」ではありません。
「悪」でも「苦しみ」でもありません。
「悪」や「苦しみ」を甘受し全身で受けとめる覚悟はありますが、それを自ら想念によって創りだしてしまうような思い込みは、手放そうと思います。
昼がきて、夜がきます。
でも、夜は悪でも苦でもありません。
わたしはいつだって影を纏って生きていますが、その影は、もちろんマイナスではありえません。
影は影です。
それは、存在の半身。命の象徴。

「マイナスとプラスの往復」の世界観から、「ゼロとプラスの選択」の世界観へ、自らの視点を切り替える。
それは、「マイナス」や「苦」を、「人生に必須のものであると思い込む」ことから、自分自身を解放することでもあります。
大切なことなので、もういちど繰り返させてください。
わたしは、世界に存在する「悪」や「苦」と呼ばれるものを否定しません。
けれど、それがあってこそ世界のバランスがとれるとする従来の陰陽の価値観から、自分を解放しようと思います。
影は影です。
それは存在と誕生の証であり、「悪」である必要も「苦しみ」を伴う必要もありません。
ただ、ありのままの影を愛し、影を生みだす自分の生を愛します。
そして、その価値観とともに、自分の現実創造を、今年も進めてまいります。
最後に、この視点を瞑想時に受けとったとき、同時に届いたイメージについて、つけ加えさせてください。
「横隔膜にのる太郎くん」と同時に、わたしのビジョンにあらわれたのは、伊邪那岐さまと伊邪那美さま──ご存知、日本神話に登場する国生みの神様でした。
伊邪那岐さまが男神。伊邪那美さまが女神。
その語源には諸説ありますが、「ナギ」とつくほうが「陽」である男神。「ナミ」とつくほうが、「陰」である女神。
それがはからずも、横隔膜の凪と波の陰陽と一致することを、不思議な氣持ち半分、納得の氣持ち半分……で受けとりました。
男性と女性が世界に命を生みだすように、呼吸を生みだす横隔膜の動きは、命の源です。
だとしたら、わたしたちの世界はやっぱり、凪と波から成っている──そう思えてくるのです。
息を吸い、息を吐き、凪と波とを交互に繰り返し──そのたびに、もしかしたらわたしたちは少しずつ、ふわり、ぷかりと上昇していくのかもしれないとさえ思います。
もしかしたら、くらげのように。
もしかしたらわたしたちは、日々上昇していく「凪」。
「波」の力によって、ゆっくりと、絶え間なく、上昇していく光。
それが、わたしが新しく描く陰陽の世界です。
そういう世界で生きてみたいと……いま、心がふつふつと願うのです。
