本を読むとき、私たちに何が起こるのか 〜読むことは、理解することだけなのか〜
ーはじめにー
前回まで、
「“さ”に神性はあるのか」
「言葉はどこで言葉になるのか」
という二つの記事を通して、
言葉は固定された記号ではなく、音や感覚と結びつきながら立ち上がっているのではないか、ということについて考えてきました。
言葉がそのように働くとすれば、言葉を束ねた、本を読むという体験の中では、何が起きているのでしょう。
これまでの記事はこちらをご覧ください。
何かが残る文章
同じ「文章を読む」という行為でも、取扱説明書を読むことと、物語や詩を読むことは、どこか違います。
取扱説明書は、書かれている内容を正確に理解することが目的です。
けれど物語や詩では、読み終えたあと、何を受け取ったのかはうまく説明できないのに、なぜか感情だけが残っていることがあります。
ある一文が、何年も心に残り続けることもある。
そこでは、「理解した」で終わらない何かが起きています。
意味を超えて届くもの
文学では、ときどき、書かれていないものの方が強く届くことがあります。
たった一つの比喩が、説明以上に感情を動かしてしまうことがある。
そしてそれは、一つの言葉だけに限りません。
物語全体や、その中に流れている空気そのものが、読む人の中で、何かを感じさせることがある。
比喩は、意味を説明するだけではなく、感覚そのものを立ち上がらせることがあるのかもしれません。
たとえば、景色の描写を読んでいるだけなのに、なぜか郷愁や、胸の奥が少し揺れるような感覚が立ち上がってくることがある。
そこでは、言葉は単なる情報としてではなく、感覚へ触れるものとして働いています。
アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンは、詩人についてこう書いています。
ありきたりの草花から
すばらしい香水を抽出する人
ありふれたものだったはずなのに、そこに突然、忘れていた感覚のようなものが姿を現す。
比喩にはどこかそれに近い働きがあるように思います。
読書の中で何が起こるのか
言葉はたしかに、本の中に書かれています。
しかし本を読んでいるとき、言葉はその人の内側に触れ、別の姿として立ち上がることがあります。
だとすれば、
言葉は本の中に固定されたものではなく、読むたびに、読む人の中で生まれるものなのかもしれません。
ーおわりにー
もしかすると、本を読むことは、
私たちの内側を通った言葉によって起こる
“何か”
に触れることなのかもしれません。
