言葉はどこで言葉になるのか 〜言葉が響き合うとき〜
ーはじめにー
前回、「“さ”に神性はあるのか?」という問いから、
音が意味を超えて、どこか感覚に触れてくるような働きについて考えてみました。
では、その「感じ」は、いったいどこで生まれているのでしょう。
前回記事はこちらをご覧ください。
🌱感じるより先に、意味はあるのか
ふつう私たちは、
外からの刺激を受け取り、それを理解し、言葉にする、
そんな順序で世界を捉えているように思っています
けれど実際には、その流れはもう少し複雑です。
🌱意味より先に届くもの
たとえば「ざわざわ」や「さらさら」といった言葉を聞いたとき、
私たちはまず意味を考えるでしょうか。
むしろ、先に何かの気配や質感のようなものを感じているはずです。
ここでは、言葉はすでに「意味になる前」に働いています。
🌱言葉は感覚をまとめていく
一方で、言葉は感覚をそのまま残しているわけでもありません。
人は、目で見たものと耳で聞いたものを、
そのまま別々にするのではなく、
同じ「言葉」で扱えるように、ひとつにまとめていきます。
その過程で、細かな感覚は少しずつ削ぎ落とされていきます。
🌱意味が音をつくるとき
けれど、それで終わりではありません。
たとえば同じ漢字でも、
前後の言葉によって読み方が変わることがあります。
意味を見てからでないと、音が決まらない。
つまり今度は逆に、意味が音をつくっているとも言えます。
🌱行き来する言葉
こうして見ていくと、音が先に感じられ、意味があとから与えられ、そしてまた意味が音に戻ってくる。
言葉は、一方向に進むものではなく、そのあいだを行き来しているように見えてきます。
🌱ひとつの場所では起きていない
さらに脳の働きを見ても、
こうした流れは一つの場所で起きているわけではありません。
見ること、聞くこと、感じることが、つながり合いながら同時に処理されています。
言葉もまた、そのつながりの中で立ち上がっています。
🌱言葉になる、その瞬間
言葉は、どこかで完成するものではありません。
音になり、意味になり、そしてまた感覚へと戻っていきます。
その行き来の中で、ふと立ち上がるもの——
それを私たちは「言葉」と呼んでいるのかもしれません。
ーおわりにー
だとすれば、言葉はどこかにあるのではなく、その行き来の中で、言葉になっているのではないでしょうか。
もしかすると、言葉は思っているよりもずっと流動的で、音や感覚、身体と関わりながら立ち上がっているのかもしれません。
