【短編小説】「悲しみの風景」2
「俺ん中じゃあの人はとっくに死んどる」
湖山が読み上げた訃報に、旧友は乾いた声で答えた。
◆
湖山は一日半の休暇を取って甲府へ向かった。池谷と話がしたかった。
彼は幼稚園時代からの幼馴染であり、幼少期に母を失くしたという共通点がある。湖山は病死によって、池谷は離婚によって、各々母の顔を知らないまま育った。
父子家庭というのはまだ地方にあっては珍しい時代だった。地域社会からぽつんと浮いた両家庭は、同い年で同じ境遇の二人を一緒に過ごさせるようにした。彼らは仲睦まじく、水面の泡同士が密着するように、何をするのも一緒だった。孤独を共有し合う時も少なくなかった。
甲府は雪混じりの雨だ。
肌寒さが染みる夜、彼らは駅南口のもつ鍋屋で再会し、近況を語り合った。
「湖山に比べりゃ地味な仕事さ」
池谷は県職員として男性介護者支援に従事していた。
「いやいや。こっちも毎日勉強で、絵を描く暇もないよ」
一方の湖山は都立美術館の司書としてレファレンス業務に携わっていた。
「それでも、俺よりかは自分に合っとる仕事じゃんけ」
「美術、の点ではな」
池谷はスーツの上着を脱ぎ、七賢の吟醸を一口含む。そして、懐かしむように言った。
「やっぱ好きなんやなあ」
「うん」
湖山はジョッキに手を添えたまま頷いた。正面に座る幼馴染は、馬刺しを頬張りながら話を続ける。
「観に行けたんけ? モネ」
「ああ、大学時代に観に行ったよ」
「ほうか。よかったなあ。本物はどうやったけ?」
「……やっぱり温かかった。〈日傘の女〉は。僕の原点だから」
彼らには因縁の絵画があった。――〈散歩、日傘をさす女性〉。
通称、〈日傘の女〉。
「俺が文句を付けたせいやったなあ」
その絵を巡り、二人の友情は破局してしまった。
◆
発端は美術の時間だった。
その日はモネの風景画を鑑賞し、自由に感想を発言することができた。
白いドレスの女がこちらを振り向く一瞬を描いた作品。夏風にそよぐヴェールが顔に降り掛かり、女の表情はぼやけてはっきりしない。
その絵を観た湖山少年は母のことを考えられずにいられなかった。もし生きていたならこんな雰囲気だったかもしれない。そう思うと、日向に手をかざすような温かみを感じた。
感動を覚えた彼は授業中、挙手を連発して周囲を苦笑させた。
「池谷君はどう思ったけ?」
困った美術の先生は、すぐ横の池谷少年に救いを求めた。
彼は言った。
「悲しい風景や。俺は好かん」
その日の帰り道、湖山は池谷を問い詰めた。あの感想は何だ、あの絵の温もりをお前も理解できるはずだ、と。
しかし彼は失笑し、皮肉交じりに答えた。
「良いじゃんけ。お前の親は死んじまって静かにしとって」
「どんな意味だんけ、それ?」
湖山は怒りを語頭に込めて聞き返した。同胞に母を侮辱された、と思った。
「俺の親と比べてみろや」
そう言って彼は、道端の掲示板を指さした。そこに、ピンクのスーツを着た女性の写真があった。「鳴海れいか」と名前が書かれてある。彼の実母は再婚し、苗字を変え、政治の表舞台に立っていた。
「お前に俺の悲しみは分からん」
◆
二人は食べ頃になったもつ鍋をつつき始めた。
「俺も母親があんな感じやったらよかった。でも現実はな……」
池谷の母は対極的な人物だった。男顔負けの気概と強気な発言が持ち味で、メディアの間でも有名だった。
しかし、その女傑も先日、住宅火災で亡くなった。
「一緒に行かないか。明日の葬式」
湖山は唐突に切り出してみた。
ぐっぐっと音を立てる鍋の具材だけが蠢いていた。湯気で湖山の眼鏡が曇り出す。間を置いて池谷は悪態をついた。
「それが目的やったんけ。電話でも伝えたけど、俺は今さらあの女を弔う気はない。太陽みたいな人や。燃えて死んだんも本望やろ」
湖山は咄嗟に出かけた言葉をニンニクの利いた汁と一緒に飲み込んだ。
そして眼鏡を曇らせたまま、説得した。
「池谷。親とはちゃんと別れないと後悔するぞ」
湖山の母が亡くなったのは、彼が物心付く前だった。母の最期の姿も覚えていない。幼馴染には同じ経験を味わわせたくないと思った。
「僕が出たいんだ。君は付いて来るだけでいいから」
そう言うと、湯気の向こうでようやく彼は頷いた。
「〈日傘の女〉ってどこで観れるんけ?」
会計の時、池谷はこんな質問をした。
「ワシントン」
「フランスじゃないんか」
「ああ。今度一緒に観てみないか?」
湖山の誘いを受け、池谷は落ち着いた声で呟いた。
「ほうか。やっぱ、悲しみの風景は一生もん。変わることはないじゃんね」
◆
湖山はB&Bで一夜を明かし、朝、池谷を伴って東京に戻った。降車した後、池谷は「香典を下ろしてくる」と言って中央口の方へ歩いて行った。
旧友は戻って来なかった。
◆
湖山が職場のパソコンで情報を漁っている時だった。
一件の英文の記事に目が留まった。
ワシントンのナショナルギャラリーで邦人客がモネの絵画に火を付けようとして取り押えられたという。
絵の方は無事だったらしい。
※本文は1,998字。
※※以下に応募します(2作目)。
#タイトルから書く文芸賞
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