「幸福論」 になるまで — ②
古今東西、あらゆる寓話が共通して伝えるのは、生きているということは「自分にはどうやっても思い通りにならないことがある」ということと、「そのどうにもならないことから生まれるなにかがある」という、極論すればこの2点ではないだろうか。
試しに、なんでも思う通りに実現される人生を想像してみる。それは、ほとんど空白に近い。真っ白い空間にただ浮いているようなものではないだろうか。苦痛もない代わりによろこびもない。
穂村弘さん — 「迷子手帳」
歌人のエッセイに、「さみしいものがみたくなる」というタイトルの一編がある。地方の商店街を訪れたとき、昭和な寝具店のウィンドウに据えられた、現代では誰も着ないであろうネグリジェ姿の西洋人風マネキンを目に、こんなふうに続いていく。
よく見ると、彼女たちの髪型がおかしい。金髪の鬘が微妙にずれているのだ。可哀想に。ずっとあのままなのだろう。二人とも虚空を見つめて、微笑んでいる。さみしい。なにもかもがさみしい。でも、ウィンドウの前から立ち去ることができない。その空気を隅々まで味わいたいのだ。
さみしいものが見たくなるのは何故だろう。
人間の心の中には、明るさや楽しさや豊かさや優しさや温かさだけでは埋められない隙間みたいな領域があるんじゃないか。さみしさだけがそこを埋めるのだ。
この感覚をよろこびの源水と呼ぶのは時期尚早かもしれない。しかし、幸福の代名詞のような「明るさや楽しさや豊かさや優しさや温かさ」といった感覚だけを感じていたいというほどシンプルにはできていないのが、私たちという生き物なのかもしれない。
その理由はなんだろう。
もしかすると、単独で生きる生物には出来ていない人間は、さみしさや悲しさや憤りといったあらゆる種類のいたみや苦しみを感じることが、自分以外の誰かと繋がっていく結節点になるからかもしれない。自分のよろこびに他者が共感してくれなくても価値観は人それぞれよねと思えるが、圧倒的な悲しみに共感してもらえないことは敵対心へと繋がっていくような気がする。
しかし、どうも釈然としない。悲劇がウケるのは「みんな安心したいから」とはよく聞く。しかし、「さみしいものでしか埋まらない隙間」は、果たしてそんな道理だろうか。
むしろ、あるものをあるように見れば、「さみしいもの」の方がほんとうのことだから、とは考えられないだろうか。普段は覆い隠して別のなにかそれらしい柄で飾っていなければちょっとしんどいような類の。主観の力がここぞとばかりに発揮されるような、その対象。
ロバート・ウォールディンガーさん/マーク・シュルツさん — 「グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない」
かの有名なベストセラーは「よい人間関係」こそ幸福な人生に必要不可欠な条件であると語る。確かに、これまたかの有名なアドラーが「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」という通り、苦しみの核ともいうべきものは「人間関係は思い通りにいかない」ということで、それがなければ、他者との関係によって規定されていく自分という存在の側面は、よい感じになっていくだろう。
では、私たちは、生きている間の幸福か否かという問題を、「人間関係」という他者的なものに振り回されて終わるのか。もちろん、関係の少なくとも半分は自分の努力によって作られるとして。自分自身がよりよい者であろうとすることが、よりよい関係をつくる最良の方法であるとして。
そもそも、人間関係は思い通りにしようとか、こういうふうにつくろうとか、そういう種類のものではない。自分以外の誰かと出遇って、お互いがお互いを経験する今現在の結果の名前が「人間関係」なのだから、それは常に変化している。ゴールはない。そしてまた、この関係が自分にとって重要なものであればあるほど、失う痛みは強くなる。そういう意味では諸刃の剣。
確かに、家族、友人、恋人等々、もしかすると自分自身よりも大切だと思える人がこの世に存在することは、それだけで有り難く、それは幸せだと思う。そんな存在がよろこびに満たされて生きていることは、自分にとって最も重要な感心ごとだ。けれども、その「よい人間関係」が幸福の名だとすれば、それこそ覆いの美しい柄なのでは、という気もする。
例えば、100歳を超え、認知症になって、誰のことも、最後には30年以上に渡って自宅で介護を続けた母のことすらわからなくなってからこの世を去った祖母。よい、以前に、あらゆる人間関係を主観的には失った状態の彼女の最期は、不幸だったのだろうか。
2025年11月に予定しているトーク&ライブ『犀の角・第四夜「幸福論」』に向けて、幸福について考えているプロセスを記述しています。
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合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。