短編【下町の歌姫-マルゴ・フェイユ】 -運命の星に導かれー第三章
ヘッダー画像はKei様の作品を使わせて頂いております。
第三章ー1【契約とマルゴの成長】
1913年、マルゴが16歳になった春、居酒屋[黒猫]にひとりの男が訪れた。
40過ぎと思われるスペイン系の顔立ち、黒髪で長身のエンリケ・サントスと名乗る紳士だった。
彼は、パリの芸能界でも少しは名の通った人物で、表の顔とは別に裏社会との繋がりも囁かれている謎の多い男だった。
実際に、彼の豊富な資産には、黒い影が付き纏い其の筋にも警察にも顔が効いたようだ。
クロードの居酒屋でマルゴの歌を聴いたその夜、エンリケはマルゴに言った。
「君の声は、夜のパリに欠かせない光だ。今の儘で終ってしまうのは惜しい。その気が有るなら私を頼って貰って良い」と言うエンリケに
「でも、私は有名にならなくても今のままで少し上級の生活が出来れば良いのだけど」と答えるマルゴ
然し、エンリケは「君は未だ若い、其の美貌と実力を磨けば大舞台に立つことも夢じゃない」と言って名刺を渡された。
マルゴは迷った。エンリケの瞳の奥には、計り知れない大きな野望が秘められて危ういものも宿っているように感じられた。
唯の親切心か、あるいは一流にして利用する為か。
クロードに相談すれば反対されるだろう。
だが、彼女の夢──場末の居酒屋を抜け出し、貴婦人になること──その夢が
脳裏に浮かぶ。
エンリケの言葉に心揺さぶられる16歳のマルゴだった。
幼少の頃から、此のマロニエの樹と共に下町の彼是を見聞きして来たマルゴは、自然に用心深くなっていたが、危うさを含んではいても其のチャンスを逃せば次が有るのか。
考えた末にマルゴは自身の運に賭ける事にした。
クロードには相談せずにエンリケと契約を交わしたのだった。
クロードは怒ったが、マルゴは契約を破棄する気はなく彼女の意思の硬さに根負けして親代わりのクロードも渋々サインをしたのだった。
その一枚の契約書にマルゴの未来が、自由と束縛もすべてを含んでいたのだが。
クロードは、マルゴが手元から離れて行くのが言いようもなく寂しかった。我が子では無いマルゴだが、15年の日々で父娘の絆が出来上がっていた。
マルゴが何時か独り立ちして去って行くで有ろうと判ってはいても未だ大人としての経験は乏しい彼女が心配だった。
クロードは急に不機嫌になり黙り込んで溜息をつきボンヤリする事が多く成った。
マルゴから「パパァ、遠くに行く訳じゃなし、同じパリの中よ何時でも逢えるわ。心配無いって❗」と言われても納得していない表情でマルゴを心配そうに見詰めるクロード。
然し、マルゴが居酒屋を後にする時は「身体に気をつけろよ、またな」と素っ気なく言うと手を振って送り出した。

第三章ー2【デビューに向けての日々】
エンリケは、契約後、日置かずして自分の邸宅の中の渡り廊下で隔てられた建物にマルゴの為の部屋を用意させた。
クロードの居酒屋を後にしたマルゴは、エンリケの邸宅につれて来られ妻マリーに紹介された。
マリーは穏やかに対応したが、12歳の息子ルカは少し距離を置くような態度をとった。
その夜の晩餐の後、リビングに移って皆で寛いでいる時だった。
マルゴは、ふと立ち上がると窓辺に歩み寄り静かに唄い始めた。
ピアノの伴奏もなく、彼女の声だけが部屋に流れた。
それは、どこか遠い記憶を呼び起こすような、彼女が歩んできた人生の哀愁をも含んだ旋律だった。
ルカは廊下からそっと部屋を覗き込み息を潜めて其の声に耳を傾けた。
その夜の記憶が、彼の人生の一コマのピースとして、やがて再び浮かび上がる日が来ることを彼は知る由もなかった。
エンリケは、マルゴのイメージを変える為に、妻マリーに協力を求めた。
マルゴにとって彼女は近寄り難く見えたが、マリーは上流婦人としての教養を身に着けた素晴らしい感性の持ち主だった。
マルゴを卑下して見る事もなく自然な応対で接してきた。
夫エンリケの仕事がら様々な女性と関わり苦労も経験していたマリーはマルゴを一目見ると全てを心得て何も言わずに承知した。
マルゴに対するマリーの第一印象は加工前の宝石、粗削りな中に純粋さを認めると、数々の初体験に緊張気味の若いマルゴに優しく接した。
マルゴは、自分が育った環境から全く逆の広くて洗練された住居の内装や家具調度に目を見張り、また始めて身近に接する貴婦人との触れ合いに憧れの眼を向けるばかリ。
センスの良いマリーは、マルゴのジプシー女のような梳かしっ放しの髪を、後頭部の襟足近くで纏め白い花の髪留めで飾った。
彼女の美貌と歌唱力を引き立てるには余分な飾りは出来るだけ省くように、身に合ったシンプルなドレスを仕立てさせ、センスの良いアクセサリーや小物を選んでコーディネイトした。
最後の仕上げは帽子だったが、下町育ち其のもののマルゴにマリーが選んだのは小さめの鍔の帽子だった。
歩き方や椅子に腰かける姿勢も顔の表情さえも厳しくチェックされた。
更に言葉遣いにボイストレーニング、食事の作法まで、すべて上流に通じるマナーを仕込まれた。
マルゴは飲み込みが早く其れらを忽ちの内に自分の物にした。
2年余りの歳月はマルゴを見事に成長させた。
第四章 【マルゴのデビューとエンリケの思慕】に続く
有り難う御座いました。
