【近未来サスペンス】人間蒸留|#0 プロローグ
note創作大賞2026「お仕事小説部門」応募作品です。
全10回で掲載します。
【あらすじ】
AI時代に働く人間の境界を描く、近未来職場サスペンス。
大手デベロッパーの企画推進部に勤める藤崎凛は、失踪した同期・安藤樹の発想が、本人不在のまま社内AIの提案に現れていることに気づく。国の認証制度HKS(ヒューマン・ナレッジ・シェア制度)は、人の知見や判断を組織の資産として保全する仕組みだった。
だが、樹の妻・遥は、まだ誰にも話していないはずの着想を本人から聞いていたという。同じような“静かな消失”は、他の会社でも起きていた。
樹を追ううち、凛は自分がまだ誰にも話していない比較軸まで、すでに画面の中に出力されていることを知る。樹だけではない。凛自身もまた、制度の中で判断を吸い取られる側にいた。仕事の中で培った判断が会社のものになるとき、自分でなければならない理由はどこへ消えるのか。
――――――
蒸留は、残すことではない。
変わり続けるものを、ある時点で止めることでもある。
――――――
#0 プロローグ
安藤樹(あんどう・いつき)がいなくなってから、樹の判断だけが前よりよく働いていた。
HKSなんて言葉は、もう説明なしで通じた。通じること自体が、藤崎凛(ふじさき・りん)にはずっと気味が悪かった。
凛が働くのは、都内の再開発や複合施設をいくつも抱える大手デベロッパーだった。
企画推進部にいる凛たちの仕事は、建物を考えることだけではない。
その土地がなぜ価値を持つのかを、会議で通る言葉に変えることだった。
その仕事の中に、HKSはいつの間にか入り込んでいた。
HKS――ヒューマン・ナレッジ・シェア制度。
国はそれを、熟練の継承と人手不足の補完のためだと言った。会社は、知見の保存と競争力の維持のためだと言った。いまさら反対する者もいない。賛成している者も、たぶんいない。ただ、天気予報や改札や配送通知と同じように、ある前提として人は働き、暮らしていた。
その朝も、凛の社内端末にはHKSの通知が出ていた。
同意範囲の更新。判断ログの連携確認。継承対象データの保全状況。どれも、勤怠通知や会議室予約と同じような顔をして画面の端に並んでいる。
凛は、その制度を完全に信じていたわけではない。
何を開いたか。
どこで戻ったか。
どの案の前で手が止まったか。
そんなものまで残されることに、気味の悪さはあった。
それでも、拒めば仕事にならない。制度は制度だ。乗らなければ、会議の前提から外れる。判断する側ではなく、判断される側へ回るだけだ。
完全に安全だとは思っていない。
けれど、外れるほうが怖い。
凛はずっと、そのくらいの温度でHKSを受け入れてきた。
エレベーターホールで、黒瀬真紀(くろせ・まき)とすれ違ったのは、その少しあとだった。
以前は人事企画にいたはずの人だ。
いつ見ても姿勢がよく、声を荒げるところを誰も見たことがない。社内の揉めごとを、揉めごとに見えない形で片づける人だと、凛は思っていた。
「黒瀬さん」
声をかけると、黒瀬は足を止めた。
「藤崎さん」
「HKS統括室の室長に就かれたんですね。昇進おめでとうございます」
黒瀬は、ほんの少しだけ頭を下げた。
笑った、というほどではなかった。
「ありがとうございます。おめでたいかどうかは、まだわかりませんけれど」
「大変そうですね」
「ええ。でも、必要な部署です」
その言い方に、余計な熱はなかった。
必要。
黒瀬がそう言うと、反論する余地のない言葉に聞こえた。
「人の知見は、個人の中だけに置いておくには、もう重すぎますから」
凛は、返事を少し遅らせた。
「……そうですね」
黒瀬はもう一度だけ軽く会釈し、音のしない歩き方で廊下の奥へ消えた。
その背中を見送りながら、凛は、HKSという言葉が会社の床にもう一枚、薄く敷かれたような気がした。
安藤樹の失踪にも、その言葉はきれいに添えられていた。
保全措置。
継承対象の一時凍結。
関係者への共有制限。
どれも意味はわかる。だが、樹がいなくなったことだけが、その中にうまく収まらなかった。
凛はモニターに開いた企画比較画面を見たまま、指を止めた。
社内AIが推奨順に並べた三案の上に、小さく「HKS参照済み」と表示されている。
三案並んだうちの二案はどうでもよかった。残る一案の切り口だけが、樹だった。
土地の新しさではなく、そこに積み重なった時間を売る。
開発の価値を、建物ではなく履歴のレイヤーで語る。
三日前、社内に上がってきたばかりのその案には、別の担当者の名前が載っていた。文体も整えられている。余計な熱も、ためらいもない。だが凛にはわかった。これは樹が見つけた角度だ。彼の頭の中で、まだ企画書になる前に光っていたはずのものだ。
樹らしいものが残っているほど、樹本人がいないことだけが濃くなった。
画面の右端では、凛自身の閲覧時間と比較操作も、自動で記録されていた。
見る、迷う、戻る。
そんな小さな動きまで、もう仕事の一部として残る。
本人はいないのに、判断だけが先に働いている。
凛と樹は同期だった。
同じ年にこの会社へ入り、何度か部署を移りながら、最後は企画推進部で並んだ。
親友ではない。
何でも話す仲でもなかった。
ただ、企画の入口で何を見ているかだけは、互いにわかることがあった。
凛は、見つかったものを形にするほうが得意だった。
筋を通し、資料に落とし、会議で通る言葉へ整える。
樹は、その前に立ち止まる人間だった。
まだ企画にも資料にもならないものを、街の端や、古い地名や、人が見落とした違和感の中から拾ってくる。
凛はそれを、少し羨ましかった。少しだけ、腹立たしくもあった。
だからこそ、わかった。
この案は、樹が先に立ち止まった場所から始まっている。
あの夜、樹が低い声で言ったことを、凛は思い出した。
――俺の判断が、俺より先に働いている。
そのときは、疲れているのだと思った。
HKSで残されるものが細かくなってから、企画推進部の人間はみんな少しずつ疲れていた。何を開いたか。どこで戻ったか。どの案の前で手が止まったか。
思いつく前の揺れまで、共有資産みたいな顔で回収される。樹だけが特別だったわけじゃない。だから凛は、聞き流した。
社内チャットが短く鳴った。
受付からの通知だった。
来客です。高原遥(たかはら・はるか)様。藤崎様をご指名です。
凛は一度、画面から視線を外した。
名前を見ただけで、胸の奥のどこかが古い傷みたいに固くなる。安藤樹の妻。会社の文化事業室でギャラリー運営をしている人。会社のレセプションや展示の立ち会いで顔を合わせることはあった。二人きりで会う理由は、一度もなかった。
樹が消えるまでは。
「通してください」
そう返した自分の声が、思っていたより乾いていた。
数分後、遥は応接スペースのガラス扉の前に立っていた。
黒でも紺でもない、色の名を言いにくいコートを着ていた。職場で見かけるときと同じように、姿勢がよくて、取り乱してはいなかった。むしろ、それが不自然だった。
凛が席を勧めると、遥は礼を言って座った。
膝の上で指先だけが、静かに組み替えられた。
「突然すみません」
「いえ」
そこから先を、どちらもすぐには言えなかった。
樹の失踪が、言葉より先にそこにいた。
遥は凛の顔をまっすぐ見た。
「あの企画のことです」
凛は何も答えなかった。
「会社の説明は受けました。でも、どうしても腑に落ちなくて」
そこで遥は一度だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「あれ、樹がまだ誰にも話していない時に、私、聞いています」
――――――
次回:人間蒸留|#1 仙台坂の夜
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