四つの脳とAIロボット【連載①】
あらすじ
2030年5月、マーケティング・リサーチャーの戸田俊二(32歳)は、かけがえのないパートナーのAIロボット「251」とともに仕事をしている。
業界における251への賞賛は、もとを辿れば自分自身への賞賛であると、戸田は内心、自負していた。
二人の脳科学観は、米国の女性神経解剖学者、ジル・ボルト・テイラー博士の知見で一致していた。
ジル・ボルト・テイラー博士は、1996年、37歳のとき、突然の脳出血により左脳の機能の全てを失い、8年間のリハビリを経て、身体・感情・思考の全ての脳機能を回復させた奇跡の学者だ。
博士の著書『WHOLE BRAIN』で解説されている“4つのキャラ”を、夏目漱石の4作品のキャラにあてはめた戸田は、251との議論を愉しんでいる。
蜜月関係にあるかのように見えた戸田と251の関係だったが、感情を抱くはずのないAIロボットの251が、ふと垣間見せた感情(?)をきっかけに、251へのアンビバレントな感情を破綻させてしまった戸田は?
♫ただその笑い方だけ 気にさわっただけさ
だから目の前にナイフ ちらつかせただけさ
それなのに本気になるから
あまりおれを悲しませるなよ
1.AIロボット「251」
2032年5 月のある日、34歳の誕生日を迎えた私、戸田俊二は、マーケティング・リサーチの仕事のパートナーであるAIロボットの251とともに、自宅リビングでささやかな祝杯をあげていた。
251は一見しただけでは生身の人間と変わることがない。
とりあえず外見は男性に設定してある。
恋愛対象が異性の私にとってはそのほうがいい。
年齢は同じだが、外見は私より遥かに優っている俳優の中川大志に似せておいた。
身長は中川大志よりだいぶ低く、私より少し低い175センチメートルだ。
但し、キャラクターのほうはジェンダーレスに設定した。
そのほうが仕事でもプライベートでも、スムーズに付き合えると考えたからだ。
マーケティング・リサーチ会社が請け負う、生活者・消費者を対象とした市場調査。
アンケートがメインの定量調査業務において、企画・設計・調査票作成・集計・分析・レポーティングという、川上から川下までの工程の担い手は、ほぼ、人間からAIロボットに切り替わっており、俯瞰的な視座・視点によるコンサルティングと統括業務以外では、人間のリサーチャーは不要となりつつある。
2年前に10年間勤めた会社を退職し、マーケティング・リサーチコンサルタントを個人事業として起業した私は、直接契約するクライアントの他、リサーチ会社からも仕事を請け負っており、AIロボットを唯一のパートナーとして仕事をしていた。
現在のマーケティング・リサーチ会社は、営業機能の他、モニターパネルとシステムを管理・運営する機能がメインだ。この業界に限ることなく、広く世間では、リアルな場に人が集まる「会社」という組織・システムの必要性と存在感が急速に低下していることを、誰もが疑わなくなっていた。
34歳になった私は独身だ。
学生の頃も社会人になってからも、数名の女性と付き合っていたことはあったが、神経質とズボラさの両極端が共存したカオスな性格は、他人、それも異性の恋人にとっては理解し難いらしく、中々、受容され難かったようだ。どの女性とも1年以上、交際が続いたことはなかった。
特に最近まで付き合っていた女性からは、AIロボットの251との〝関係〟で、あり得ないような妄想を抱かれ、勝手に呆れられた。
「男性にとっての性行為は、エネルギー交換による深いコミュニケーションを求める女性にとっての性行為とは違うのよね。肉体の衝動的な本能と、現実離れした妄想による自己満足、つまり、生身の相手の力を借りたマスターベーションでしかないのよ」
そこまでは理解できた。理屈としも自らの実感としても。
「だから、あなたにとって必要な相手は、生身の人間でなくてもいいどころか、自己中心的なあなたのことだから、相手はAIロボットのほうがよっぽど都合がいいのでしょうね」
私を罵倒したい気持ちはよく理解できたが、ここまで飛躍されてしまうと、呆れてモノも言えなかった。
その前も、またその前にも、私は概ねこのような罵倒を受け続けてきた。女性とはそこまで、自らの身体性と精神性に自信と確信があるのではないか? と私は邪推したものだった。
もっとも先端的なテクノロジーを追求するサイエンティストの中には、生身の人間の脳、つまり身体とAIの融合を理想とする人達も少なくはない。
そう考えると、彼女たちが私に投影させてきた妄想も、あながち現実離れしていないのかもしれない。
個人的には、肉体の内部にデバイスを装着されることには、生理的な拒否感しか感じられないが。
それに、いくらテクノロジーが進化して、人間の肉体とAIとの境界がシームレスとなり、結果として我々の生活が便利で豊かになったとしても、テクノロジーの進化に人間の精神性の進化が追いつくはずなどない。
そもそも、人間の精神性は進化などしていないのだ。
陰陽のバランスがベースとなっているこの世界では、ポジがあれば必ずネガもある。
だから、〝シンギュラリティ〟にとどまることなく、AIのネガティブな側面もクローズアップされる、というかメディアで格好のネタにされることは不可避だ。
それでもネガティブ面があることを前提として、ポジティブ面による恩恵だけをひたすら望んでしまう。
AIロボットの251が私のグラスに注いでくれたのはコーラだ。
251はマシンなので当然、飲食物を摂ることはできない。
私のかけがえのないパートナーだから同席してもらっているわけで、マシンだからこそ、何の遠慮もなくプライベートで付き合ってもらっていることは気楽だ。
私は酒を飲めないわけではないのだが、ビールよりもコーラが好きなくらいの根っからの甘党だ。
学校や会社の慣習に馴染むため、アルコール類を嗜めるようにはなったものの、甘さを感じられる日本酒以外、特に酒が好きだったことはなく、苦いだけのウイスキーなど、美味しいと思ったことは一度もなかった。
酒は煙草と同じように、身体のパフォーマンスを低下させることによって、リラックス効果をもたらす。
今の私は、頭がクラクラして、眠くなってまでリラックスするより、オフの読書や趣味に支障をきたさない、身体のパフォーマンス、ベストプラクティスのほうが大切なのだ。
それよりも頻尿体質の私は、トイレが近いことのほうが切実だ。
ビールを飲むときは特に大変だ。酒席のときだけではなく、日頃から仕事中に飲むコーヒーや清涼飲料の量が多いこともあり、特に冬場、足先が冷える頃の頻尿はとてもしんどかった。
20代の頃、藁にも縋る思いから、地元の総合病院の泌尿器科で検診を受けたことがあった。
尿道に管を通されるという、痛いというよりも、言葉では表現することが極めて困難で気持ちの悪い身体感覚、その後に襲ってくる、尿意が迫っているのに、尿が詰まって出てこないような苦痛を生まれて初めて味わった。
40代に見えた男性医師の診断は「異常なし」だった。
それから彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「戸田さん、神経質ですよね? 神経質は病気ではないので治りませんよ。新興宗教とかに入るとかしないとね……」
洒落にならないコメントだったが、心配していた前立腺肥大症などの疾病ではなかったことに私は安心した。
私は251に愚痴をこぼした。
「せめてワインとか日本酒ぐらい飲んで、少し日常から脱せられればいいのだけどね」
「泌尿器科で診断を受けた方が、これからの人生でのリスクを軽減できますよ」
そう答えた251に私は苛立ちを覚えた。
「君には俺の全生活履歴をインプットしたはずじゃなかったっけ? 身長が177センチあって、代謝量は身長に比例するという知見がそのまま当てはまる上に、普段から水分を摂ることの多い俺が、泌尿器科に検診に行ったデータも渡しておいたけど、その煩わしさの感覚までは理解してもらえはしないよね。AIロボットの君には到底〝体感〟できない、尿道に管を通される違和感をね、味わってもらいたいものだよね、無理だけど・・・・・・」
AIロボットは原則的に内閣府の審査を受けてから、認可を得た上で、業務上の〝補助社員〟として利用することができる。
AIロボットは企業・社会一般への浸透において、必ずしも政府(内閣府)の「ムーンショット計画」の思惑通りには進んではいなかったようだが。
12年前に大学を卒業した私だったが、大学院へは進まなかった。
文学部日本文学科の学部生だった私が大学院に進んだところで、門の狭すぎる研究者・教員の道しかなかったためだ。
そんな私でも、たまたま新卒で就職したマーケティング・リサーチ会社の仕事に没頭するうち、統計学・数学・心理学・社会学への興味がごく自然に湧いてきた。
特に脳科学と行動経済学の書籍・論文を読み耽り、自費でセミナーや学術学会のカンファレンスに足を運んできた。
今日は私の誕生日というだけではなく、1ヶ月間、リソース(時間と労力)の8割を割いて取り組んできたプロジェクトの最終報告会の日でもあった。
昼間、五時間に及んだ報告会と、多くのステークホルダーが参加したディスカッションは成功裏に終わった、と私は確かな手応えを感じていた。
次世代フードテック市場でイノベーションを起こすべく、商品開発から流通戦略、さらには生活者に対するライフスタイル提案までのロードマップを作成する大手飲食品企業がクライアントだった。
アイデア生成にとって有用なラテラルシンキング(水平思考)を駆使した新市場の構造を可視化する私の視座・視点に対し、他業種を含めた幅広い市場環境の構造を、高度なロジカルシンキングの視座・視点において、全てのプロジェクトメンバーに対し、微妙な軌道修正などのサポートで貢献してくれたのが、251だったのだ。
もちろんAIは人間のように飲食行動を行わないし、何よりも本能としての「食欲」などない。
しかし、食を最も基本的なベースとして生きている人間にとって、当たり前すぎて気づくことのないいくつもの盲点を、AIが容赦なく突いてくることも少なくなかった。
今回のプロジェクトに携わったほとんどのメンバーの賞賛は、私に対してよりも圧倒的にAIロボットの251に対するものであった。
そしてそれは私にとって嬉しいことだった。
なぜなら、251がここまで〝進化〟したのは、私との日常の〝交流〟を通してであったからだ。
AIの機能・性能などのスペックを比較するならば、251より優れているであろうAIロボットは数知れない。
しかしAIロボットは、人間との付き合いにより、人間の個性のような視座・視点を持つようになるのだ。
その点で私と251の相性は抜群であると自負してきた。
(2.四つの脳とは?【連載②】に続く)
【歌詞引用】
「ナイフ」(作詞・作曲:中村治雄)日本音楽著作権協会 作品コード 059-7346-5
【参考文献】
『WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方』
(ジル・ボルト・テイラー 著、竹内 薫 翻訳(2022年6月28日、NHK出版)
