萩原朔太郎と『痴人の愛』(ショートショート)
昭和4年7月、44歳だった僕は、所用で訪ねていた故郷の群馬・前橋から、東京・大森の馬込村の家に帰ってきた。玄関の戸を開けても、奥から妻の稲子が迎えに出てこなかったので、すぐに上がって目の当たりにした居間の光景に僕は驚愕した。
そこには一人の若い男が、あたかもこの家の主であるかのように居座っていたのだ。その男の向かいに稲子が坐っていた。その男は稲子の浮気相手の三富だ。三富は、大正6年に犬吠埼で水死した詩人の三富朽葉の甥で、それまで三富とは何度もこの家で顔を合わせてきた。
家に着いたとき、上の娘の葉子と下の娘で知的障害のあった明子の二人は、何ともみすぼらしい泥だらけの姿で道で遊んでいた。家に間男の三富を引き入れた稲子には、二人の娘は邪魔者でしかなかったのだろう。
「いったい、三富はいつから家にいたんだ?」
三富のことのみならず、娘二人の姿を見て怒りがこみ上げてきた僕は、稲子に直接、詰問した。
「一週間になるかしら、ね?」
悪びれる様子もなく、そう答えた稲子に、とうとう僕は手を挙げてしまった。それまで幾度となく嫉妬にかられても、稲子には文句らしい文句さえ言ったことのなかった、いや、言えなかった僕の怒りのマグマが噴出したのだ。こうなったら、僕にはもう家庭を破壊する選択肢しかなった。離婚の相談の結果、二人の娘は僕が前橋の実家まで連れていって養育することになった。
7月77日、夕方の気配が漂っていた馬込から、迎えの人力車に二人の娘とともに乗った僕は、大森駅に向かった。そして上野駅から午後7時過ぎの前橋経由小山行きの汽車に乗り込んだ。
帰郷 昭和4年の冬 妻と離別し二児を抱えて故郷に帰る(注)
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き抜けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽車は闇に吠え叫び
火焔は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の陰に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何処の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗澹として長なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り抜き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒を烈しくせり。
(『氷島』「帰郷」昭和9年6月)
大正7年の12月、33歳になっていた僕は、祖父の八木始の末弟から紹介され、金沢の氏族・上田伊太郎の次女にあたる稲子と東京で見合いをした。母に付き添われての見合いだった。
話がまとまり、僕は、大正8年5月の結婚式の2週間前から酒を断った。品行方正を心掛けたのだ。
前橋の実家で終始、両親の眼を意識せざるを得なかった、田舎特有の生活慣習にがんじがらめになっていたときには、僕も稲子もそれゆえに夫婦らしい一体感を保っていたと思う。それがこの国における家庭の元型だったのかもしれない。
しかし、僕達の夫婦生活の破綻に向かう亀裂が現前化するのに、さほどの時間はかからなかった。
僕には強烈に思慕の念を抱いた、いや、思慕というより崇拝の念だったかもしれない、そんな女性が存在していたのだ。
僕がまだ前橋中学に通っていた頃、前橋で生薬を商っていた伊勢屋の娘、馬場仲子さんだ。仲子さんは僕の妹のワカとともに前橋の共愛学園に進学しており、二人はとても仲が良かった。僕は仲子さんのことを、彼女の洗礼名であったエレナと呼んでいた。
われ君を恋はん恋しき心より君を思へば胸ただ火なり
(「白虹」明治38年4月号)
しかし……。僕とエレナの親密な交際、いや交際などとは言えまい。僕の一方的な憧憬が絶望に転化したのは、一つ目に僕の性格、二つ目に互いの家族の事情を考えると必然的なことだった。
いかにせん君に捨てられ思ひ子は石となりても世にありがたき
(「晩秋哀悼歌」明治43年)
生薬商の伊勢屋の娘のエレナは、僕が高校生だった明治42年、高崎の産婦人科医で僕より1歳年長の佐藤清と結婚、後に二児を産んだ。
それから結核を病んだエレナは、大正6年5月5日、鎌倉腰越の石井方で、28歳という若さであの世に逝ってしまった。
稲子と結婚し、子供が生まれてから後も、僕の亡くなったエレナへの崇拝の念は消えることはなかった。僕の夢の中でエレナは、赤い衣装を着て春の夜の墓地を歩いていた。そして僕の肉体が朽ち果てたとき、僕の魂はエレナと出逢い、墓場の陰で泣きながら抱いていた。
そんな死霊とともに生活をしていた僕は、アブノーマルな態度で稲子を愛するしかなかった。頭の中でエレナのことを思い浮かべながらの稲子との夜の営み。稲子はそんな僕の心象・態度を見抜いていたようだった。実際、僕たちの離婚後に稲子が記した「結婚敗残者の手記」には、エレナの恋文を見たと書かれていた。
事実上破綻していた僕らの結婚生活だったが、それでも僕は何とエレナの幻影から逃れ、奇跡的に稲子との情愛を回復させようと躍起にならざるを得なかった。
大正15年(昭和元年)の暮れ、僕らは鎌倉から東京・大森の馬込村へ引っ越した。そこには林も坂も並木もあった。そして高地からはの展望は実に開放的で、自然だらけの田舎生まれだったのにも関わらず、僕は初めて「自然」というものへの愛を感じた。もちろん、田舎そのもののような剥き出しの自然ではなく、人間社会との調和における自然ではあったが。
それから間もなく、広津和郎をはじめとして、尾崎士郎と宇野千代夫妻たちとの交誼が深まった。
僕は早速、稲子を尾崎さんと宇野さんご夫妻に紹介した。そして、僕ら夫婦の関係が倦怠化していることを訴え、大正14年7月に谷崎潤一郎が改造社より出版した『痴人の愛』を引き合いに出し、稲子を宇野さんに弟子入りさせることを懇願した。〝女房教育〟だ。
昭和2年秋以降、稲子は宇野さんに倣って洋装をし始めた。長女の葉子は授業参観に稲子が洋服を着てくることを嫌がっていたが、僕はそれも致し方ないと思っていた。
そして奇跡のようなことが起こった。稲子は髪の形に苦心するようになり、着るものの選択に熱中、化粧も上手くなった。全ての挙動がコケティッシュとなり、驚くほど綺麗な女になったのだ。
さらに、僕の勧めで社交ダンスとピンポンも始めた。
ほどなく、稲子の美への傾倒は度を越えることとなった。かつて、子供が病気でも家を抜け出して酒を飲みに出かけた僕を強く非難した稲子は、僕と同じように二人の娘を放置するようになったのだ。
〝女に目覚めた〟稲子は、ダンス仲間の若い男たちとの乱れきった交友関係の沼にはまりきっていた。その天真爛漫さは谷崎潤一郎の『痴人の愛』のヒロイン、ナオミそのものであったが、こうして物質世界から〝こちらの世界〟に戻った僕は、自らの失策を反省すること甚だし、といったところだ。 言うまでもないことだが、僕は谷崎潤一郎とは全く違っていた。
そして最大の教訓。それは、自らでさえコントロールすることが困難な人間が、他者をコントロールしようとすることの愚かさだ。
『痴人の愛』の主人公とナオミのパズルは、世間からいかに非難されようとも、二人の意識がズレようとも、最終的には完成するように出来ていた極めて稀な例だ。しかし、僕は夏目漱石先生の『行人』を読んだくらいで、夫婦生活の破綻の恐怖に苛まれたような、あまりに常識的で小心な家庭人だったのだ。
家庭人として不甲斐なかった僕の思考・嗜好・態度・言動・行動は、全て夏目先生が唱えていたところの「自然」の発露だったと思う。そして、変容した稲子のそれらも「自然」の発露だったのだろう。なにしろ、僕への愛など、全く消え失せた後だったのだから。
保守的な田舎で逼塞していれば、古からの慣習により「意識的」に生きざるを得ない。だが、モダンな都会的生活を希求しそれに呑まれた途端、「意識」から解き放たれ「自然」のま命じるままに振舞い始めた途端、混沌の渦に自ら呑まれざるを得なかった。それも夏目先生がいくつかの作品で示された通りだった。
家庭
古き家の中に座りて
互いに黙しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
眼は意地悪しく 復讐に燃え 憎々しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に座りて
脱るべき術もあらじかし。
(『氷島』「家庭」昭和九年六月)
了
(注)「帰郷」の前書きには昭和四年の冬と記されているが、磯田光一によると、昭和4年7月の稲子との離別と、父の危篤による帰郷が重ね合わせれたことが推察されるとのこと。
参考書籍①:『萩原朔太郎』(磯田光一著、講談社、昭和63年第2刷)
参考書籍②:『作家の自伝47 萩原朔太郎』(萩原朔太郎著、日本図書センター 平成9年第1刷)
参考書籍③:『日本の詩歌14萩原朔太郎』(中公文庫、昭和57年6刷)
