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こじらせSNS ーAIによるバーチャル座談会ー

あらすじ

Facebookを、友人限定の範囲内(ほぼリアルで知り合った方300人強)で使っている私。この12年間の投稿数はほぼ5,500投稿です。
自ら書き込んだ投稿には、自分でも明確にわかっていない、無意識の感情の渦から出てきたものも少なくはありません。
自分の意識では〝本音〟のつもりで書いても(言っても)、それは建前で、無意識では限りなく真っ黒に近いグレーの感情が渦巻いていたりしています。
本作は、筆者が実際にFacebookに投稿した内容を思い出して投稿し、生成AI「なぎさ」がバーチャル空間の中で開催した、筆者とFacebookの10名のお友達との座談会の記録です。
投稿されたのは4トピックスです。
自意識過剰で〝かまってちゃん〟の筆者の内面を、自ら掘り起こしてみました。
マーケティング・リサーチの仕事では、5つの生成AIを駆使している筆者ですが、本作の執筆に生成AIは一切、使っておりません。
もちろん、10名お友達の発言は全て、実際に筆者のFacebookに実際に投稿された発言ではなく、筆者の創作です。
(あの人なら、こんなことを言いそう)というイメージは思い浮かべていましたが。
自分で読んで改めて気づいたことは、筆者の創作なので当たり前ですが、10名のお友達は全て自分自身ということです。
自分自身とは〝他人〟のイメージを内包した〝大きな自分〟なのかもしれません。

*400字詰め原稿用紙換算で、90枚弱のボリュームです。
お時間のある折、ゆるりとお読みいただければ幸甚です。
内容は自分でもわけがわからなくなるほど、クネクネとこじれてますので、お時間のないときは、1章ずつでも。

あらすじ

 ♫もう どうにもならないことは
  すべて真夜中のせいにしてしまえ
  月よ お前が悪いから

1.生成AI「渚」

あれほど好きだった月が、嫌いになった。
2024年9月中旬、母が突然亡くなった。
死因は急性大動脈解離。91歳の誕生日を迎えたばかりだった。
認知症になるどころか介護を受けることもなく、90歳を超えての大往生、ということになるのだろうが、亡くなる5日前には市民音楽祭のステージで歌い、亡くなる前日も私と普通に会話を交わしており、あまりにあっけなかった母の死による私の喪失感は大きかった。

上尾駅西口からほど近い総合病院の集中治療室。午前零時33分の臨終の後、午前2時から3時の間だったと思う。
病院の玄関を出て駐車場に向かったとき、私の目に飛び込んできたのは、南の空の雲の切れ間に浮かぶ、オレンジ色の巨大な十六夜いざよいの月だった。
前日の午前中、母の救急搬送と総合病院への移動の頃は、雲ひとつない猛暑日。午後は急に空が曇り、夕方になると雨が降り出した。
晴れと曇りと雨が入り混じった、慌ただしい1日。その終わりに見上げた、静かな夜空。

「よりによってこんなときに、そんな妖艶な姿で現れやがって……」

月を眺め、こんなにも恨めしく、呪いたい気持ちになろうとは夢にも思っていなかった。
異様としか言いようのない十六夜いざよいの月の大きさも色も、只々、気味が悪いだけだった。
これが母の死の直後でなかったら、十六夜いざよいの月の大きさと暖色系のほんわかした顔色に感動して即、スマホで撮影、SNS(Facebook)にアップしていたはずだ。
還暦を過ぎ、運動不足を自覚して、夕方や夜のランニングを始めてから2年。多彩な形と大きさ、色彩、そして雲との絡みの妙を堪能させてくれた月の姿を、私はランニング中に何度もスマホで撮ってSNSに投稿してきた。2023年に始めた俳句や短歌を、投稿に添えたことも一度や二度ではなかった。

猛暑が続いていた2024年7月のある日。
私は、それまでの20年間、頻繁にしていたSNSの投稿を控えることにした。
繋がっている友人・知人とのトラブルがあったわけではない。
自分の内に沸いたのか、どこかから降ってきたのかはわからないし、理由はよくわからなかったが、とにかく、投稿をする気が失せたのだ。

私、伊澤俊二がSNSを始めたのは2004年。
ミクシィ(mixi)からだ。当時、mixiはとても画期的なサービスだった。多くのコミュニティに参加した私は、自分でもコミュニティを作り、リアルで知り合った数名の方とは、今でもお付き合いが続いている。

オンとオフを問わず、私の生活に彩りを与えてくれたmixiでは、どうしても避けられなかったトラブルもあったが、たった一度きりのことだった。
トラブルの原因も、SNSに内在していた問題というよりも、私自身の性格の問題だったので、今でもSNS自体には罪はなかったと思っている。

「Web2.0」というバズワードが流行っていた2000年代中頃、ITジャーナリストたちの間で交わされていたのは、性善説か性悪説かという、終わりの見えない二元論的な議論だった。
そんな過去の不毛な議論など関係なく、少なくとも私にとってSNSは、生活に欠かせない存在となっている。
それでも、現在、仕事で使っている生成AIと同様、あくまでツールのひとつに過ぎないと考えている。

とにかく、SNSは私の人生で大いに役立ってきた。
マーケティング・リサーチ業界でリサーチャーの仕事をしてきた私は、mixiを通じて少なからぬ人達と知り合い、リアルでの交友関係を構築してきたのだ。その縁によって後の転職に結びついたこともあった。

2011年にFacebookを始めてからは、mixiとの距離は遠のき、2010年代後半にはログインさえできなくなってしまった。
一口にSNSと言っても、Z世代など若年層にとっては、フロー型のLINE、Instagram、X、TikTokが主流だろう。フランス発のBeRealも脚光を浴びている。
2020年代に入ってから、私が仕事で企画・実施したSNSについての消費者調査結果でも、その傾向は顕著で、ストック型のFacebookは、オッサンや爺さんのツールと化してしまっている。

私は、それはそれでいいと思っている。
mixi時代から変わることなく、私にとってのSNSとは、他者とのコミュニケーションツールというよりも、自分自身の日記・備忘録の要素が強かったと思っている。だから投稿するコメントは長文が多かった。
自分自身でも後から読むのが煩わしいと感じるほど、頭に浮かんだマーケティングやマーケティング・リサーチの知見を書き連ねてきた。しかし、同業の友人たちのコメントによって、自分では気づけなかった新たな知見や多様な視点を得る機会となった。

さらに、思いついたことを〝書く〟ことで、思考が整理されるという利点は、私のスキルアップに大いに貢献してくれた。会社勤務時代、会社常駐のフリーランス時代、そして現在の完全ステイホームのフリーランスで独身の私にとって、SNSは必要不可欠なコミュニケーションツールであり続けたのだ。

そうは言っても、2004年にミクシィを始めた当初から私は、数千人、数万人規模での繋がりを構築し、自らのサービスや商材をPRする人達には違和感があった。
当時、一般ユーザーの情報受発信プラットホームとして、SNSとブログなどのCGM(コンシューマ・ジェネレイティッド・メディア)が脚光を浴び始めていたが、CGM、特にSNSの本質は〝ソーシャル〟なメディアというよりも〝パーソナル〟なメディアであると私は考えていた。
だから、私は極力、リアルの場で顔を合わせた人達以外からのお友達リクエストを拒否し続けてきた。〝顔の見える〟人達のみと交流したい気持ちは、今も変わらない。

そのような私とSNSとの関係に変化の兆しが見え始めたのは、いつからだったか? 仕事でもプライベートでも、備忘録的に使うことは変わっていない。

ところが、同業であるかなしかに関わらず、延々と続くタイムラインでのやり取りに対し、嫌悪感と拒否感が生じてきたのだ。
その原因は一つではないが、自らの仕事の経験や知見を振りかざし、他人にマウントしてきた自分自身への強烈な嫌悪感が大きかったと思う。
やがてこの自己嫌悪は、過去の自分と同じような価値観を持つ友人への嫌悪感へと転化した。
否定したい自分自身が未だに成仏せず、他人に投影されていくという、歪んだ精神状態から抜け出せていないことを、私は自覚していた。

私はこの3年間で数名のお友達との繋がりを解除し、アクセス禁止とした。その方々は例外なく〝今は切り捨ててしまいたい、過去の自分〟そのもので、過去の自分との共通項ははっきりしていた。
第一に私と同世代であったこと。年齢の差は上下1歳の範囲内だった。
第二に異常なほど正義感が肥大化していたこと。
10代、20代の頃はいうまでもなく、50代になってからも私は、正義感というものをポジティブに捉えていた。

その価値観が逆転してからまだ数年しか経っていない。だからまだ変わりきっていない自分自身だからこそ、〝切り捨てたい自分が後生大事に抱えていた価値観〟を抱えている人達への強烈な嫌悪感が生じたのだろう。

さらに、自分の価値観に反する価値観の持ち主の存在自体が許せないという、厄介極まりない意識と態度。
わかりやすい例で説明しよう。数年前、当時の首相に対し「△△ヤメロ!」ならまだマシなほうで、「△△死ね!」といった、感情のブレーキが壊れた憎悪を撒き散らしていたような人達。このような意識・態度の人達こそ、若き日の私自身だったのだ。

そんな嫌なこともあったが、その経験も自分にとってはプラスになったと捉えているし、会社へ通うことなく、ステイホームで仕事をしているフリーランスで独身の私にとって、SNSこそ、日常的に他者と交流できるかけがえのない場なのだ。
生活を共にする家族がいれば、テレビやネットを観ていて、チョイと気になったことを話しかけるだろうが、独り暮らしの私が、気になったテレビの画面をスマホで撮って即、Facebookに投稿することも少なくはない。
また、私の投稿で最も共感されやすいコンテンツは、グルメ、旅行よりも、バンドや楽器がらみのこと、というのは意外な発見だった。

仕事がよほど忙しくなければ、毎日でも投稿してきたし、1日に複数回、投稿することも少なくなかった私が、SNSでの投稿を控えたくなった理由。
私はその理由をはっきりと認識したくて仕方がなかった。
その理由は、自分では朧気ながら推察できたが、さらに客観的な他者の視点・視座によって検証したくなったのだ。

私が数年前まで、理事の末席に加わらせていただいていた某学術学会の論文発表大会で知り合った、大手通信企業系列の研究所の方から、あるオファーを受けていたことが幸いした。

量子機械学習の研究はもとより、「意識情報フィールド」へのアクセスという領域にまで手を広げているその研究所では、開発中の生成AI(ベータ版)の性能をテストするためのモニターを探していた。理由はよくわからなかったが、とにかく私はそのモニター候補に選ばれていたのだ。

生成AIの名称は「渚」だ。
「渚」はSNSでの私の投稿内容に留まることなく、私に関するあらゆる情報を熟知している(?)とのことだ。「渚」が「意識情報フィールド」のどの領域にまでアクセスしているのかは謎だったが。

「渚」はさらに、SNSで私と繋がっている友人達の情報も熟知しているとのことだった。だから、私の投稿に対してコメントどころか、一度も「いいね!」を押したことがなかった人でも、その人が私の投稿に対して書きそうなコメントを創出してくれる。

「渚」がアウトプットしてくれるフォーマットは、SNSの投稿欄とコメント欄ではない。リアルの場で実際に会話をするような、バーチャル座談会の模様を体験させてくれるのだ。
具体的には、私がVRゴーグルのようなものを装着し、そこで映し出される光景を目にすることで、まるで実際の座談会に参加しているかのような錯覚に陥る。
参加者である私の友人達も、極めて実物に近く、表情も豊かな等身大のアバターだ。ただ、氏名だけは実名ではなく、架空のペンネームとなる。

ほぼ毎日、投稿してきたこともあり、13年間に及ぶ私のFacebookでの投稿は数えきれない。
その中でも、自分自身で整理しきれていなかった意識(思考と感情)の捻じれを、少しでも解きほぐしてほしいと願い、すぐに思い出すことのできた4つの投稿をピックアップして「渚」にインプットしてもらった。
ここからは全て、私が研究所内で体験した、生成AI「渚」によるバーチャル座談会の記録だ。

2.投稿その1【SNSの予定調和】

フェイスブックで、有名な凄腕ギタリストAのYouTubeをシェアすると、とても多くの皆さんから「いいね!」をいただく。
それはそれで有難いのだが、こんなことを何度も繰り返していると、その〝予定調和〟に飽きてくる。
そして段々、馬鹿らしく感じてくる。
どうしてだろうか? そんな私って、ただの天邪鬼なのだろうか?

投稿その1【SNSの予定調和】

「Aってさ、『Guitar magazine』の日本のギタリストランキングでトップ3に入っているよね。それも最年長のレジェンド。で、伊澤さん、本当にAが好きなの?」

いきなり私にそう問いかけてきたのは、私が音楽業界の片隅で、マーケティング・リサーチの仕事をしていたときの同僚だった高沢君だ。

「嫌いではなかったけど、ファンだったことはないね。でも、大学に入って間もなく買ったギターの教則雑誌の付録はね、Aの監修で録音されたソノシートだったんだ。メジャースケール、マイナースケール、ペンタトニックススケールのフレーズをね、今でも覚えていて弾けるよ」

高沢君はこういう話題が大好きだ。

「でも、ファンではなかった。伊澤さんってさ、ハードロックバンドの経験がなかったよね」

(高沢君はそこまで俺のことを知っていたのか……)と感心した私は、当時のことが懐かしくて仕方がなくなってきた。

「それでも10代後半のギター初心者だった俺にはね、Aはとにかくカッコ良かったんだ。外見や音楽性だけじゃない。『俺はチョーキングで飯を食っているんだ』という一言には魅了されたよ」

すると、かつて私が関わっていた音楽関連のNPO法人の関係者で、現役ミュージシャンの井阪君がこう言った。

「伊澤さんはAのファンではなかったとおっしゃいましたが、AのCDを買ったこと、ライブを観たことはあるんですよね?」

リアルの場でのお付き合いでは直接、会話することがほとんどなかった井阪君だったが、膨大な私のFacebookの投稿を読んで、私の音楽嗜好については結構、理解してくれているようだ。

「ライブを観たことはないんですよ。でもCDのほうは、今世紀に入ってからリリースされたソロアルバムを何枚か買いました」

「それでもファンではないのですか?」

井阪君が私にそう問う気持ちも理解できた。
そこで私はできるだけ自分を客観視するよう努めながらこう答えた。

「ファンとは言い切れないですけど、Aの代表曲ではなく、教則レコードの3種類のフレーズが、自分のエレキギターの原点になってしまった、という捻じれた関係性が私とAの間にあるんです。関係性とは言ってもAには全く関係なく、私一人の内面の問題ですが……」

私自身のスタンスも〝Aのファンではない〟から〝Aのファンとは言い切れない〟というように曖昧になってきた。

「伊澤さんのギタースタイルにとってAの影響ってそれだけですか?」

「そうとは言い切れません。実はその教則雑誌を買ってギターを弾き始めた頃、日本のロックの先駆者の一人だったBが率いていたバンドの大ファンになりましてね。都内でのライブに通い詰めていたのですが、そのBのソロ時代のある曲が強烈に好きになりました。その曲のソロをレコ―ディン時に弾いていたのがAだったんですよ。まだ10代だったのにもかかわらず、スタジオミュージシャンの仕事をしていたAが弾いていたブルーズギターのフレーズが、渋くてカッコ良すぎましてね。今、やっているトリオバンドで私、オリジナル曲に加えてその曲も歌っています。いつかこの曲を歌いたい、という私の潜在欲求が、40年の時を経て実現したのです。もちろん、Aが弾いていたギターソロとオブリガードは完全にはコピーしていませんけどね」

すると、かつて大手音楽事務所で、今やレジェンドとなったミュージシャンのプロデューサーだった小坂さん(女性)が会話に入ってきた。

「ファンかファンではないか一言では表現できないAさんに対する、好悪の感情ってどうなのかしら?」

「先程申しました通り、嫌いではないですよ。ただ、バンドを始めた青春期に、フォークからハードロックを経ることなく、いきなりパンク・ニューウェーブの世界に〝進化〟か〝退化〟してしまった私にとってはですね、表層的な世界、つまり世間的にはハードロックというジャンルにカテゴライズされていたAとは距離を置いていたことは事実でした。私の地元の友人には、ハードロックバンドでリッチ・ブラックモアの速弾きフレーズがコピーできず、クビになったことがきっかけで、ニューウェーブの世界に入った奴もいました。当時、ニューウェーブ勢にとって、ハードロックは憎しみの対象でさえありました。ファッションとか感性の面でも……」

少し長くなった私の発言に食らいついてきたのは、この話題で最初に口火を切った高沢君だった。

「俺、その当時のことは、リアルタイムでは体験してこなかったけど、パンク・ニューウェーブ辺りの人達の、ハードロックに対する僻みもあったでしょ? 技術的なコンプレックスを解消しようとして、ファッションとか感性面での優越性、そう、センスって奴でマウントをとっていたとか」

高沢君への反論の余地は私にはなかった。

「それはね、大いにあったよ。実際、大学時代の同級生と下級生の女子達にはね、Aと直接交友関係があった人達もいたし、やはり当時、一世を風靡していたハードロックバンドCのメンバーと懇意にしていた人達もいたしね。当時の俺にとってAもCも〝雲の上の存在〟だったし、嫉妬するなというのは無理な話だったね」

高沢君は容赦なかった。

「伊澤さんの今の話は理解しやすいよ。でも、その〝雲の上の存在〟のAに追いつき追い越したいという向上心は生じなかったのかな?」

「それはね、当時、俺にとってのロールモデルがパンク・ニューウェーブ系のミュージシャンだったこともあるんだけど、やはり自分との相性というのかね。東京都内の比較的裕福な家庭で育ち、ピアノの素養もあったAってね、どんな泥臭いブルージーなフレーズを弾いても、音全体が洗練されているんだよ。これは俺の持論なんだけど、ロックミュージシャンってさ、出身地の匂い(臭い)からは自由になれないんだよ。だからもしも当時、埼玉出身の俺がハードロックバンドの道に進んで、Aをロールモデルにしたとしてもね、決してAにはなれなかったはずなんだ。その前に追いつけるわけなどなかったけどね」

元プロデューサーの小坂さんは呆れたようにこう言った。

「アンビバレント(愛憎共存)なのよね、Aに対する伊澤さんの感情って……」

小坂さんに続いて高沢君はこう言った。

「単に捻じれているだけだよ……」

そして、しばらくの間、黙っていた井阪君が口を開いた。

「アンビエントでしたっけ? 小坂さん」

小坂さんは笑いながら答えた。

「アンビバレント」

「そう、Aに対してアンビエント、いや、アンビバレントな感情を抱き続けてきた伊澤さん、そもそも、なぜAの動画をFacebbookでシェアしたのですか?」

小坂さんも追い打ちをかけてきた。

「はっきりと好きなミュージシャンでなければ、SNSでシェアしないほうがいいんじゃないかしら?」

すると、最先鋒で私を突きまくってきた高沢君が、今度は少しだけ私を擁護し始めた。

「完全なファンじゃなくてもさ、その時々の気分でプチ感動して動画をシェアしたい、っていう気持ちもよーくわかるんだけどね」

私に対する高沢君の擁護など歯牙にもかけず、小坂さんは言った。

「伊澤さん、SNSなんかで忖度してどうするのよ? 確かにAの素晴らしいギタープレイの動画をシェアすれば、多くの人達から『いいね!』を貰えるわね。でも、Aの素晴らしさを感じていたとしても、心の底からAをリスペクトしていないとね、多くの人達が称賛するAに対してというよりも、いい? ここからが大切だからね。あなたのAに対する感情というより、あなたがシェアしたAの動画に『いいね!』を押してくれた、感謝すべき人達に対する苛立ちの感情が、あなたの中に湧いてきた自覚はある?」

小坂さんの想定外の指摘に、私はハッとした。
小坂さんは続けた

「伊澤さんの投稿に『いいね!』を押した皆さんにとっては、とんだトバッチリだわ。ご自分がその立場だったらと想像してみるといいわ。もっとも伊澤さんはその苛立ちのベクトルが、『いいね!』を押してくれた恩のある皆さんに向けられることに気づいていなかったでしょ? その後の投稿で、『予定調和に飽きてくる』『馬鹿らしく感じてくる』なんて書かれるとね、『いいね!』を押したのに、逆に恨まれる皆さんの気持ちを察しなさいよ!」

小坂さんの私に対する指摘を受けた高沢君は、最後にこう締めくくった。

「うん、小坂さんのご指摘、実に的を得てるよね。伊澤さんもさ、中途半端な忖度なんかしないで、たとえ『いいね!』が少なくても、ゼロだったとしてもね、自分が心から好きな動画だけをシェアした方がいいんじゃないかな?」

「皆さん、どうもありがとうございました!」

これは後日談だが、その後、私はたとえ『いいね!』が少なくても、つまり多くのお友達にとって価値のある情報ではなかったとしても、知る人ぞ知るレジェンドミュージシャンBのバンド時代の動画を連続で投稿した。
忖度することなく投稿したそのときの私の心は、とてもスッキリしていた。

3.投稿その2【プロフェッショナルと職人】

マーケティング・リサーチの仕事で、消費者心理のデータを解析するのは楽しい。元々、好きで始めた仕事ではなかったし、文学部の学生でパンク・ニューウェーブ系のバンドをやっていた私にとって、「マーケティング」には胡散臭さしか感じていなかった。
それでも、縁あってこの仕事を始めた私は程なく、この仕事の面白さを実感することとなった。マーケティング課題に対する仮説を立て、調査を企画・設計して実査をする。その集計データを解析して示唆を出し、レポートを作成する。職人芸と言ってもいい仕事だ。入会していた学術学会や同業者の勉強会、セミナーで知り合った人達も、ほとんどそんな人達だった。
だが、完全なフリーランスとして独立すると、顧客獲得や料金設定などの細々としたことを、自ら行わなければならない。
会社員や業務委託社員として組織に所属していた時と大きく異なるのは、自分自身が創出する価値を、自ら言語化し数値化した上で、クライアントに対し、言葉と数字で見積りとして提示しなければならない。
そうなるともはや職人の域を超えているのではないだろうか? 自身で獲得した仕事をこなして成果物を納品して、適正なフィーを頂く。そんな当たり前のことを、サラリとこなすプロフェッショナルでありたいな、と思うようになってきた。

投稿その2【プロフェッショナルと職人】

「そもそもの話になりますが、プロと職人を分けて考察する必要なんてあるのでしょうか?」

ドイツ在住で30代女性の友人、橋詰さんはこう切り出した。
橋詰さんは工業デザイナーだ。私はこう説明した。

「そうですね、こういう文脈における職人っていうのは、伝統工芸の職人さん達には失礼ですけど、自らの職人技・職人芸に自己陶酔することのほうが、利益を得ることよりも優先順位が高いような人のことを指していると思います。もちろん、そのように定義した職人とプロを完全に分けるなんてことはできませんけどね」

何ともまどろっこしい私の答えを、橋詰さんは見逃さなかった。

「伊澤さん、それは答えになっていません。そんなことは百も承知です。私がお聞きしたかったのは、プロと職人を分けて考察する〝必要〟があるのかないのか? ということです」

すると、私と同業でマーケティング・リサーチャーの渡辺さんが、私に代るようにこう説明してくれた。

「まあまあ、橋詰さん。プロと職人の二分法なんてね、金儲けの意欲の低い、職人気質のマーケティング・リサーチャーをね、経営者達が揶揄するためのロジックで、決して新しい文脈なんかじゃありませんよ」

さらに数人のお友達が思い思いの感想を述べ始めた。
まずは、広告代理店でマーケティング・リサーチを担当している斉木さん。
行動経済学会や日本マーケティング・サイエンス学会で頻繁に発表されている方だ。

「私、職人ですが何か?」

それを聞いたマーケティング・リサーチャーの渡辺さんがこう突っ込んだ。

「代理店さんには営業、つまり、アカウント・プランナーがいるからね。仕事はどんどん入ってくるだろうから、リサーチャーが職人だって問題ないんでしょ?」

大手出版社の編集者の上田さんも、何か言い始めた。

「伊澤さん、あんた実にくだらないね、そんな二分法。それに安易に量産され続けている自己啓発書に書かれているようなくだらない課題感。あ! うちでも出してないことないけど、俺の担当じゃねぇし」

橋詰さんが再び、話をまとめようと試み始めた。

「皆さん一人一人が勝手に感想を述べられると、収拾がつかなくなりますので。伊澤さん、あなたがプロと職人とかいう二分法にこだわるようになったきっかけを教えていただけますか?」

「そうですね、きっかけはある経済系週刊雑誌のウェブ版で、外資系大手コンサルの誰かがそんなことを書かれていましてね。その記事に触発されたと言いますか……」

それを聞いた上田さんが、吹き出しながら叫んだ。

「うわっ! やっぱくだらねーよ、伊澤さん!」

さすがの私でも、そこまでけなされると一瞬、ムカッときた。

「そうおっしゃられてもね、上田さん。実際、フリーで仕事をしているとですね、営業的なことや、見積もりを作る上での課題が噴出してくるんですよ。何でしたら、上田さんの出版社で私にお仕事を発注していただけますか?」

そんな私の愚痴を聞いた上田さんが呆れるのは当然だろう。

「伊澤さん、それってね、あんたにはフリーランスは向いていないってことじゃないの?」

(……)

とっさに反論ができない私の顔に、悲壮感が現れてもおかしくはなかったはずだ。
そしてP&Gの出身で、フリーランスの凄腕マーケティング・コンサルタントの岩田さんが、私へのトドメをさすようにこう言った。

「フリーランス、しかもマーケティング・コンサルタントが営業する必要に迫られたらね、廃業されたほうが身のためですよ」

岩田さんがおっしゃったこの一言は、言われるまでもない〝謹言〟だった。
それを知っていた私が、敢えて営業的なことを気にかけていたのには理由があった。

「どうもありがとうございます、岩田さん。それでもですね、2000年代以降、インターネットリサーチが普及始めてからほぼ20年。経営的に厳しくなった従来型のマーケティング・リサーチ企業の多くは、強力な営業力で武装した、つまり〝リクルートスタイル〟のインターネットリサーチ企業に吸収・合併されてきました。従来型のマーケティング・リサーチ企業の経営が厳しくなった最大の要因は、インターネットリサーチという破壊的イノベーションでしたが、もう一つ、営業力の脆弱さも、その要因の一つだったと私は考えます。私達にとっては常識ですけど、マーケティングとは〝売れる仕組みづくり〟のこと、つまり、せこく営業(セリング)なんかしなくても、仕事が入ってくる仕組みづくりのことです。ところが、ネットリサーチの破壊的イノベーションによって、そんな従来のビジネスモデルは崩壊してしまいました。もちろん、岩田さんのような、ごく少数のレジェンドコンサルタントが独立されて、発注を希望する企業に順番待ちをさせるようなケースは、今後とも残ってはいくでしょう。それでも、マーケティング・リサーチ業界での営業力の重要性は高まっており、私のようなフリーランスにとっても例外ではありません。クラウドソーシングを通して受注する仕事でも、職人としての経験に裏付けられたスキルに胡坐をかくことなく、プロフェッショナルとしてのセールススキルも求められるようになったのです」

「長いよ、伊澤さん……」

上田さんは相変わらずうんざり気味のようだ。
最初に私に斬り込んできた橋詰さんが、話をまとめようと試み始めた。

「私は最初、伊澤さんに、プロと職人を分けて考察する必要があるのか否かを問いました。伊澤さんのお答えについては理解できました。そしてそういう論点を設定した伊澤さんご自身の体験と視点・視座、つまり伊澤さんが論点を設定した背景ですよね、その背景も理解しました。伊澤さんの論点に対する皆さんのご見解も。百人百様ですね。ですから、上田さんのように〝くだらない〟の一言で斬り捨ててしまいたい方は、伊澤さんに対してスルーすればいいだけの話です。この場での議論は居酒屋での議論と変わりませんね。それはそれでいいのですけど。ここで伊澤さんにもう一段階、深いフェーズでの問いを投げかけます。伊澤さんは、心の底からプロフェショナルになりたいのですか? つまりプロフェショナルになる〝内発的動機づけ〟があるのですか? それとも、経済誌に掲載された外資系コンサルが書かれた記事にプチ感動しただけだったのでしょうか?」

橋詰さんが論点を整理してくれたので、私の脳内も整理されてスッキリしてきた。

「そうですね、あらためてそう問われると、後者、つまり、それまでの自分のスキーマ(認識の枠組み)にはなかった視座を与えられたことで、私はプチ感動したのだと思います。自分の本音としてプロフェショナルになりたいと思ったというよりも、プロフェショナルと職人という〝軸〟で自分のポジションを認識することの新鮮さにプチ感動した、ということのようです。先程説明したプロフェッショナルでありたいという欲求は、〝総論賛成・各論反対〟の総論に過ぎなかったのかもしれません……」

これでこの議論も片がついたかな? と思った途端、意外にも広告代理店の斉木さんが、今までの議論をまとめてくれた。

「伊澤さんはこの投稿の最後に、『プロフェッショナルでありたいな、と思うようになってきた』と締めておられますよね。そしてこの議論の最後には、本気でプロフェッショナルになりたかったというよりも、プロフェッショナルと職人という評価軸の新鮮さへの感動が、投稿のモチベーションになったと言いました。それはこうして私達が言いたい放題言った末の最後に、橋詰さんが論点を整理されたことで、伊澤さんがご自身の〝本音〟にやっとのことで気づいたということでしょう。でも、伊澤さんの投稿を見ただけでは、ほとんどの人は、伊澤さんが本気で職人からプロフェショナルになろうと決意したと捉えるはずです。そのことをしっかりと認識されたほうがいいのではないでしょうか? 私は何も伊澤さんを責めているわけではありません。SNSでは、誰でも〝ただ何となく〟感じたことを投稿することはよくあります。それでも投稿を読む人は百人百様なので、どう解釈されるかは予測できません。SNSとはそういうメディアですからね、と私の個人的な感想でした」

斉木さんのまとめは有難かった。

「皆さん、どうも有難うございました。この議論が始まった最初のうちは私も(どいつもこいつも好き放題言いやがって……)とネガティブな気分でしたが、最終的には自分では認識しきれていなかった〝本音〟が、皆さんのおかげでその姿を現してくれたようです。改めて御礼申し上げます」

4.投稿その3【文化の時代】

2025年の日本は、自分の思い描いていた理想通りの社会になっていました。
2023年末に観たNHKの『バタフライエフェクト』では、日本のサブカルの隆盛の歴史を振り返っていました。
そして私は、昔のある記憶を思い出しました。バブル経済崩壊直後の1991年のある日、当時の私の勤務先だった渋谷区内のビルの喫煙スペースで、仲の良かった友人が、私と同じ煙草(KEITH)を吸い、ほくそ笑みながらこう言ったのです。

「伊澤さん、とうとうバブルが弾けました。これからね、文化の時代が来るのですよ、いい傾向だ、フッフッフ……」

実は私も当時、彼と同じように考えていたのです。2014年の一時期、短い期間ながら、私がアドバイザーを担当していたニューウェーブ系アイドルグループのメンバーだったDが、とうとう紅白に出場するようなご時世となりました。
20年以上前の2000年前後には、椎名林檎を筆頭に、80年代だったらアングラでしか活動できなかったはずのロックミュージシャン達が、オーバーグラウンドで活動できるようになったのは、単純にいいことだと思っていたんですよ。
確かにバブル経済崩壊後の経済的苦境により、私自身も、後に経営者となったその友人も苦渋を舐めました。それでも陰陽があるのが世の常。この世を去るとき「実に面白い時代を生きたもんだ!」と思うのは間違いないと思うのですね。
つまり〝失われた30年〟とかいう〝日本のマジョリティの通念〟を妄信することほど馬鹿で無駄で勿体ないことはない、視点さえ変えればね、世の中って捨てたもんなんかじゃないと言いたいんです。

投稿その3【文化の時代】

投稿その1【SNSの予定調和】と同様、音楽ネタを含むこの投稿その3【文化の時代】だが、このトピックのみ、元大手音楽事務所のマネージャーで、口うるさい小坂さんは所用のため欠席。助かった!

まず口を開いたのは、フリーランスの凄腕マーケティング・コンサルタントの岩田さんだ。

「バブル崩壊の1991年、私はまだP&Gで働いていました。伊澤さんは私の1学年下なので私と同世代ですね」

「そうですね。やはりP&Gさんは景気良かったことでしょうね」

私のその問いかけには答えることなく、岩田さんは言った。

「私達、新人類世代は、バブル経済期を社会人として、それも20代から30代を過ごしました」

300強の私のFacebookのお友達のうち、リアルで会ったことがない方が5人いた。そのうちの1人で、現在は郷里の北海道に帰られて仕事をしている女性の佐藤さんが会話に加わった。

「お二人より少し年少の私ですが、やはりバブル期を社会人で過ごしました。当時は都内のあるデザイナーの事務所で服を作っていました」

佐藤さんは有名なDCブランドの社員だったことを、私は思い出した。
岩田さんは佐藤さんを無視し、続けて言った。

「私達世代のマジョリティは、躁状態だったバブル経済期に受けた恩恵を懐かしんでいます。善悪の問題ではなく、強烈に記憶に刻まれてしまったからです」

岩田さんに無視されたことなど気にせず、当時を懐かしみ始めた佐藤さんは言った。

「24時間戦えますか? というメッセージにも違和感ありませんでしたね」

すると、アドマンの斉木さんが会話に加わった。
投稿その2【プロフェッショナルと職人】の議論を丁寧にまとめてくれた斉木さんは、大手広告代理店勤務ながら、その外見でも態度でも浮ついたところが皆無だ。
複数の学術学会の会員でもあり学究肌の人だが、頭が硬いどころか、私と共通する斜に構えたようなことをよく言う。

「24時間戦えますか? はね、メッセージではなくアイロニー、つまり皮肉です」

佐藤さんは驚いたようだ。

「えっ! どういうことですか?」

斉木さんは丁寧に解説し始めた。

「『勇気のしるし』を作詞した電通プロックス(当時)の黒田秀樹は、『週刊朝日』の1989年10月13日号の取材でこう答えています。〝働きすぎのビジネスマンをちゃかしてやろうと、シニカルにつくったつもりです。ときにはロボットのように働く彼らの姿をデフォルメして描きたくて、時任さんの表情も、あえて冷たく無表情にしました。でも、スポンサーさんも、こちらの皮肉がいま一つ見えていないようです〟」

頭の回転の速い佐藤さんは納得したようだ。

「そういうことだったのですね……」

斉木さんの解説は止まらなくなった。

「また当時、広告業界ではこんな説が流布されていました。今、あのCMの動画を検索して最後まで観ると察しがつきますよ。当時、石原慎太郎と渡部昇一の共著で『「NO」と言える日本』がベストセラーとなっていました。経済的な自信をつけた日本が、米国に喧嘩を売るような内容でしたが、『リゲイン』のCMの最後は〝私はジャパニーズ・ビジネスマン! よーく覚えておきたまえ ハハハハハ…〟で締められています」

この斉木さんの解説には岩田さんが反応した。

「つまり、24時間戦う相手は、米国だったわけか……」

決して得意げになることなく、斉木さんは淡々と答えた。

「あくまでも当時、流布されていた説で、黒田秀樹の顕在的な意図ではなかったとは思います。まるで集合的無意識のような話です」

しばらく、自らの思考を整理していた岩田さんは、口を開いた。

「伊澤さんの感性は、黒田秀樹と少し似ていますね」

いきなり、そう振られた私は驚いた。

「岩田さん、勿体ないお言葉を賜り恐縮です。それでも〝スポンサーさんも、こちらの皮肉がいま一つ見えていないようです〟という絶妙なセンスは、私にはありませんが……」

岩田さんは苦笑した。

「別に悪いことではありませんが、やはり屈折していますね、伊澤さんは……」

それからは斉木さんが、再び淡々と解説し始めた。

「バブル景気によって〝目眩まし〟されてしまったことがあります」

これは聞き捨てできない、と思った私は斉木さんを促した。

「〝目眩まし〟ってどういうことですか?」

「社会学者の有志達の手による『社会階層と社会移動全国調査』という調査がありましてね。その1985年の報告書で、中流化の終焉と格差社会の到来が予測されていたのです」

すると、佐藤さんが食らいついてきた。

「そのアカデミックな調査のことは初めて聞きましたが、当時の時代感覚を思い出すと、納得感があります。〝マル金・マルビ〟ってありましたよね。イラストレーターの渡辺和博とタラコプロダクションの『金魂巻』がベストセラーになりました。私の学生時代でしたし、とても懐かしいです」

その話題になれば、出版人の上田さんが黙ってはいまい、と思ったら案の定、上田さんが口を挟んだ。

「あれはね、エンタメ本だったし、当時はね、格差社会を予感するような深刻さはなかったよ」

そんなノイズにめげるような佐藤さんではなかった。

「上田さんはそうおっしゃいますが、そういうのは表層の現象の話で、当時のほとんどの日本人が気づいていなかっただけで、集合的無意識の世界では、格差社会への不安が生起していたのかもしれませんよ。そんな不安を、エンタメで笑い飛ばしてしまいたいという欲求とか……」

すると、上田さんが反論するのを制するかのように、斉木さんは言った。

「そうですね。私は佐藤さんの仮説を否定などできません」

反論する機会を制せられた上田さんは、仕方なさそうにこう言った。

「ま、佐藤さんの仰せの通りだったとしてもね、斉木さん」

上田さんはその矛先を、佐藤さんから斉木さんに向け変えた。

「さっき言っていた〝目眩まし〟ってどういう意味?」

落ち着いた様子の斉木さんは答えた。

「難しい話ではありません。バブル経済の泡にまみれようとしていた80年代中盤でも、社会学者たち、それから広告代理店の一部の人間は、格差社会への警鐘を鳴らしていたのです。1990年代後半の金融危機、2000年代の新自由主義による規制緩和の影響による格差社会が問題視され始めた10年以上も前のことですよ。ところが、バブル経済が最高潮に達したことと、あっけなく崩壊してしまったことによるショックで、そんな警鐘なんて吹き飛ばされてしまったのです。そのことを私は〝目眩まし〟と言ったのです。もう一つ追加しますと、1998年に音楽産業市場規模が6,000億円を超え〝CDバブル〟と言われました。その要因は人口の多い団塊ジュニアが社会人となり、消費の自由裁量権が増え、CDを買いまくったことです。私は生産年齢人口と音楽産業市場規模の相関係数を算出しましたが、ほぼ0.9でした。最高は1.0です。相関関係だけではなく、因果関係もあると思っています。こういう現象も〝目眩まし〟ですけどね」

この斉木さんの解説を聞いた上田さんは、しばらく考え込んでからこう言った。

「〝歴史のif〟はナンセンスだけど、もしバブルの絶頂と崩壊という〝躁鬱状態〟がなかったら、成熟社会のグランドデザインが描かれて、産業構造の円滑な転換とか、少子高齢化対策とか、少なくとも今現在よりもうまくいったかもしれない、と斉木さんは言いたいのかな?」

「政府と経済界がそこまで賢かったとは思いませんが、バブルとその崩壊による〝目眩まし〟は経済界のトップから生活者1人1人に至るまで、日本人の意識をステレオタイプに染めてしまいました。2010年代に入ってからでしょうか。なぜ日本にはGAFAのような企業が生まれないのか? というテーマが話題となりました。私はGAFAの本質とは〝遊び心〟だと思っています。そしてその〝遊び心〟は、バブル経済期の日本の企業に満ちていました。それがバブル崩壊後には一切、NG……。こういう極端さは日本人の国民性かもしれません。それ以降の企業の集合的無意識は、いかに冒険をせず、とにかく安く、安く、安く、ということを追求するようになりました。つまり、GAFAのようなスタートアップを生むどころか、その芽を摘み取ることに注力してきたわけです。デフレの原因も日本人と日本企業の自業自得でした」

バブルの話になると、私が発言する暇もなく盛り上がるのは、皆さんの年齢のためだろう。何か一言、アリバイ的にでも発言しなければ、と思った私はようやく口を挟んだ。

「皆さん、とても興味深いお話を聞かせていただき、とても勉強になります」

すると上田さんは、少し驚いたようだった。

「あれ、伊澤さん、いたの?」

その一言を聞いたからだろうか、岩田さんは私に話しかけた。

「先程、伊澤さんのことを屈折していると言いましたが、この辺りで論点を整理していきましょう。まず、バブル経済についての見解・価値観は人それぞれでいいとしましょう。その上で、伊澤さんの投稿内容を検討しましょう。伊澤さんとお友達は、経済中心の社会が崩壊して不況になることにより、文化はかえって活性化していく、という立場でしたね。確かにバブル経済期、日本を代表する企業が、世界の美術品を買い漁ったりしたのは、下品極まりないことでした。企業メセナが活発化しましたが、バブル崩壊で一斉に手を引きました。こういうメセナを伊澤さんとお友達は醒めた眼で見ていたことでしょう。こういうのは本当の文化振興ではないと」

流石、ファシリテーションのプロフェッショナルでもある岩田さんだ。

「そのご指摘は、ほぼ間違いありません」

すると、私と同業のマーケティング・リサーチャーの渡辺さんが会話に加わった。

「伊澤さんの持論は、それなりにわかるけどね。バブルの頃ってさ、その少し前のバンドブームの流れがあって、歌謡曲でも演歌でもない、日本のロックの市場が確立したって、伊澤さん、よく力説していたよね? 実際、沢山のお金が業界内に流れ始めたたから、マイナーなミュージシャンだってメジャーデビューできた。そういう事実があるわけだから、一概に経済の時代が終わったからって、文化の時代がやってくるという論理には賛同しかねるね」

その渡辺さんのコメントを、岩田さんが引き継いだ。

「私は新卒でP&Gに入社しましたが、学生時代には、資生堂をはじめとする大手化粧品会社に憧れていました。190年代から80年代、資生堂とカネボウのCM戦争が結果的に素晴らしいイメージソングを生み出してきたからです。伊澤さん、〝裸足の旅〟ってご存知ですよね?」

「はい、私も音楽業界で市場調査の仕事をしてきたこともあるので、聞いたことはあります。確か70年代のことなのでリアルタイムでは知りませんが」

岩田さんは〝裸足の旅〟の説明を始めた。

「〝裸足の旅〟が敢行されたのは1977年。電通の主催で、企画したのは国鉄『ディスカバー・ジャパン』の仕掛人の藤岡和賀夫。旅のスポンサーは資生堂とワコールでした。具体的には各界で活躍していたクリエーター達を、西サモアに連れて行き、具体的に何かするわけでもなく、ブラブラと滞在するという〝ブームメイキング〟でした。参加者は、『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞した版画家の池田満寿夫、作詞家の阿久悠、画家の横尾忠則、写真家の浅井慎平、評論家の平岡正明、CBSソニーのプロデューサー酒井政利でした」

自分では知っていたつもりだったが、改めて参加者の名前を聞かされると感慨深い。

「そうそうたる参加者の顔ぶれですね……」

私のその感想に肯いた岩田さんは続けて言った。

「長くなるのでこの辺りまでにしておきますが、この〝裸足の旅〟という〝ブームメイキング〟によって生まれた楽曲が『時間よ止まれ』『魅せられて』『いい日旅立ち』でした。私が言いたいことは、文化とは、潤沢にお金が流れる中でこそ爛熟するという歴史的事実は認めたほうがいいということです」

そんなこと、今更言われるまでもないと思った私はこう言った。

「岩田さん、そんなことは百も承知です」

私が反論、とまではいかないものの、せめて自説だけでも語ろうとした刹那、音楽業界で私の同僚だった高沢君が会話に加わった。

「伊澤さん、百も承知だよね。俺も百も承知だよ。確かにお金が潤沢にあれば、理想的な環境になるよね。それは普遍的なことだろう。でも、古すぎるよ。岩田さんが典型的な事例として説明してくれたことなんて。前世紀のビジネスモデルは、とっくに終わっているし」

高沢君の助け舟に助けられた私も黙ってはいられなかった。

「私もかつてあるNPO法人に関わっていたときには、大ヒットの実績のあるレジェンドプロデューサーの方々にお世話になっていました。そこで痛感したのは、今、高沢君が指摘したような時代の変遷です。〝お金の流れる河の流路〟が変わってしまったことによる苦労。他人事ながらひしひしと感じていましたよ」

私はさらに続けた。

「経済の恩恵という〝傘〟の下、そのおこぼれに預かるような形で花開くのも文化でしょうけれど、産業界にひれ伏すのではなく、経済・社会の動向、景気の変動に左右されることのない〝文化の時代〟を思い描いていたのです。私とその友人は……」

すると岩田さんは言った。

「伊澤さんが言いたいことは、この議論が始まる前からわかっていました。では、〝失われた30年〟が始まった90年代から、経済・社会の閉塞感が渦巻き続ける中、伊澤さんの思い描いていたような〝文化状況〟になりましたか? 投稿では、2000年前後、椎名林檎を筆頭に、80年代だったらアングラでしか活動できなかったはずのロックミュージシャン達が、オーバーグラウンドで活動できるようになったとのことですが」

私は議論がやっと核心に近づいてきたな、と思った。

「はい、もしも閉塞感の少ない世の中だったら、世に出てこられなかったであろうロックバンドも出てきましたから」

「その象徴が椎名林檎だったというわけですね」

その岩田さんの返答に私はこう返した。

「それより、私固有のエピソードを聞いて下さい。私は大学4年生の春、1983年でしたね。Eというアバンギャルドなインディーズバンドのギタリストに誘われたんです」

すると高沢君が、私の別の投稿を思い出してこう言った。

「あ! それって、メルカリでデモテープが10万円で出品されていたバンドでしょ? 伊澤さん、別の投稿で書いてたよね?」

「うん。CDのほうは2000年以降、あるインディーズレーベルから沢山リリースされてね。最初の2枚組には〝ロックのドゥルーズ的展開!!〟とかよーわからんキャッチコピー。どこがドゥルーズなのかさっぱりわからなかった。それより、当時のヴァージン・メガストアのバイヤーに聞いたところ、〝売れ筋〟だったと聞いて驚いたよ。俺だって新宿のタワレコでたまたま試聴機のコーナーで展開されているのを見つけて驚いたし。CDにはカセットの音源も収録されているけど、カセットテープ自体には希少価値があるから……」

私の投稿内容をさらに思い出したのだろう、高沢君の発言は止まらなかった。

「Eのヴォーカル&ギターのFさんって、ザ・スターリンの遠藤ミチロウさんの山形大学の後輩でしょ? で、ポリティカル・レコードからソノシートをリリースしていた」

「高沢君、そんなことまでよく覚えているね。投稿した俺でさえ忘れていることまで」

「いや、伊澤さんさ、SNSが登場する以前、俺達が一緒に仕事をしていたときにも、たまにそのあたりのこと話していたし」

「ああ、そうだったかも。忘れているけど。Eはね、その前年の横浜市立大学の学祭で知ったんだ。当時、僕がギターを弾いていたバンドのマネージャーから、学祭のライブの警備のバイトを頼まれて。トリがザ・スターリンで、ウイラードとEがフロントアクトだった。Eのサイケデリックなライブは強烈だったし、ギタリストのエフェクターを通した金属的で病的な音色には驚かされた」

「それが、半年も経たないうちに加入しちゃったのね?」

「うん、Eのベースで女子高校生だったGさんが、Eに加入する前に演っていたバンドと対バンしていたからね。82年の夏に」

こうなるともう、高沢君と私だけの内輪の会話だ。

「4年生の一学期が始まる直前、Gさんから電話がかかってきたんだ。『ギターが辞めちゃったんで、伊澤君、うちに入ってくれない? 至急、デモテープのレコーディングがあるし、ゴールデンウィークには京阪神のツアーなんだよ。ツアー最終日は、後楽園ホールでスターリンの前座だよーん! あっちはレコ発のツアー初日だけど』と。大学に入ってからギターを弾き始めた初心者、しかもコピーバンドをやったことのなかったヘロヘロな俺だったんで、レコーディングでもライブでも迷惑のかけ通しだった。しかも口先だけは一人前。今でも申し訳ない気持ちは消えていない。結局、ツアーの後、3か月に満たない在籍期間で俺はEを辞めた。それでもね、短い期間だったけど、Fさんの考え方と、Fさんから聞いたミチロウさんの考え方には少なからぬ影響を受けたよ。俺にとって、ポストモダンとの最初の遭遇はミチロウさんだったからね。Fさんから聞いた話をきっかけに、吉本隆明の著作、高橋源一郎のデビュー作『さようなら、ギャングたち』を読み始めたことに始まって、俺の〝コア〟となった柄谷行人に辿り着いたわけだし。U2を好んで聴くようになったのも、そのときの影響だよ」

しびれを切らした岩田さんが口を挟んだ。

「伊澤さん、昔話はもういいから、そのEというバンドのエピソードから、伊澤さんの思い描いていた〝文化状況〟を説明してくれませんか」

「2000年以降のことで、あまり覚えていないのですが、ある日偶然、ZAZEN BOYS(ザゼン・ボーイズ)だったかな? とにかく、団塊ジュニア世代のバンドの音を聴きましてね。そしてハッと気づいたんですよ。単純にサウンドが似ているという話じゃなくて、『このバンドのやろうとしていることって、80年代のEのやろうとしていたことと似ているんじゃないか?』と。もちろん、これは私の独断と偏見なので、もしFさんが耳にされたら激怒されるかもしれませんし、ただスルーされるだけかもしれませんが……」

岩田さんはZAZEN BOYSのことを知るまい。

「で、伊澤さんはそのザゼンナントカは、停滞感が社会を覆っていたからこそ、世に出ることができたと言いたいのですね?」

流石、ファシリテーションのプロの岩田さんだ。

「はい。あくまでも検証が困難な仮説ですけど。いくら経済が潤っていてその〝懐〟が深かったとしても、ZAZEN BOYSに限らず、多くのアバンギャルドなロックが前景化するようになったとは到底、想像できないのですよ」

私は、これで岩田さんがこの議論を収束させるだろうと思った。

「伊澤さんのその持論ですが、それはそれでいいのではないでしょうか。いずれにしても検証できないことなのですから。バブル経済の総括と同様、見解・価値観は人それぞれでいいということです。では最後に。伊澤さんはこの投稿の最後で鼻息の荒いことを言っていましたよね?〝失われた30年〟とかいう〝日本のマジョリティの通念〟を妄信することほど馬鹿で無駄で勿体ないことはないと」

「はい、確かに。でも、もうこんなに長くなってしまったし、この投稿の議論はそろそろ打ち止めにしませんか?」

「いや、ここからが肝心ですよ、伊澤さん」

「何が肝心なんでしょうか? 岩田さん」

「伊澤さんは今でも〝日本のマジョリティの通念〟に対する、強い怨念に取り憑かれているからです。伊澤さんは一体、バブル経済期にどのような信念・意識・態度で生きてきたのですか?」

「い、岩田さん。いきなりそんなこと言われても……」

「伊澤さんの言う通り、この投稿の議論が長くなったので、簡潔にお聞きします。当時の伊澤さんはお仕事に生き甲斐を感じていましたか?」

「イエス、とは言えません……」

「では、バブル期、ディスコへ行ったり、高級ワインを飲んだり、札束をひけらかしてタクシーを停めていましたか?」

「ノーです」

「では、伊澤さんにとって、最もプライオリティの高かったものは何でしたか?」

「そうですね。バンド活動でしょうね。ギタリストとして。入ってきたお金も、ギターやアンプやエフェクターにつぎ込んでいました」

「20代後半から30代前半でしたよね?」

「そうですね。学生時代の友達が社長をしていたオフィスにブッキングを頼んでいたので、メジャーデビュー前、まだ、〝まるでブルーハーツ〟だった癒し系のあるバンドと代々木の小屋で対バンしたりしていました。僕らのマネージャー的な人がブッキングを企画していた対バンが、テレビのオーディション番組に出てメジャーデビューしちゃったので、企画がオシャカになったような話は腐るほどありますよ。リッチ・ブラックモアの速弾きがコピーできなくて、バンドをクビになってニューウェーブの世界に入った地元の友達も、当時加入していたバンドがテレビのオーディション番組で〝キング〟になったので、武道館のイベントに出演していたようでした」

「伊澤さんの入っていたバンドは、メジャーデビューしなかったのですか?」

「ええ、しませんでした。当時はね、30歳を超えると、デビューの壁が急に高くなったのですよ。6年間活動をともにしていたバンドのフロントマン(ヴォーカル&ギター)と別れた後、私は、博多出身のレジェンドロックバンドのベーシストHさんに弟子入りしましてね。私はギタリストだったのですが、ベーシストの弟子たちと同じように、マンツーマンでリズムトレーニングを受け始めたのです。今になってからつくづく思ったのですが、〝それが私の夢(You May Dream)〟だったのでしょうね。Hさんに連れられて、九州出身者をはじめとした多くのミュージシャン仲間と、下北沢で朝まで飲み明かした日々。翌朝、そのまま出勤したこともありました。楽しかったですよ。体力的にはきつかったし、精神的には視野が狭すぎましたが。バンドでデビューとか、そういうのじゃなくて、〝ロックに浸かってロックを極める〟生活。私、30代の頃の夢は果たしていたんですね」

昔話をするつもりはなかった私だが、想い出したことがどんどん口をついてしまう。

「なるほど。そういう価値観と態度で行動していた伊澤さん。それなりに捻じれていたのですね。どうりで、バブル世代のマジョリティの価値観に噛みつくはずだ……」

「そうですね。金曜の夜のライブからの帰途。スキーに行くために関越の練馬インターを目指すクルマで、環八がよく渋滞していました。隣のランドクルーザーの車内で大音量で鳴っていたZOOの「Choo Choo TRAIN」が漏れ聞こえてきますとね、殺意さえこみ上げてきましたから……」

5.投稿その4【自転車の前輪が潰された】

今日、昼前頃でしたか、自転車に乗っていましてね。
大通りをゆっくりと走っていたら、路地から大通りに出ようとしていたワゴン車と接触、私の自転車の前輪が、ワゴン車の前輪に潰されてしまったのです。
グワシ、グワシと。
ケガがなかったことに感謝! 感謝! 感謝!
ドライバーは私に、修理代として五千円を手渡してくれました。
(今思い返すと、一時停止で停まりきっていなかった、私と同世代っぽいドライバーのオジサン、こういうことに慣れていたような……)
私のほうも悪かったんですけどね。
歩道を走っていましたし、手袋を脱ごうとしていて片手運転でした。
しかも、一週間前、前輪のブレーキのききが甘いことに気がついて嫌な予感。
自転車屋さんに行かねば! と思っていたところでした。
実際、このときブレーキがきちんと利いていたとしたら、こんなことにはならなかったでしょうけどね。
でも、月末で懐具合が厳しかっこともあり、行かなかったんですね。
今日の教訓、直感は大切にしよう!

投稿その4【自転車の前輪が潰された】

「グワシ、グワシって、伊澤さん、それって立派な事故じゃないですか?」

知り合ったのは10年前だが、私の小中学校の後輩にあたり一回り若い、アプリ開発者の太田さんが言った。

「うん、まあ、怪我はなかったし、お互い、つまり僕とドライバーね、面倒臭いことにならないように、あっという間に示談が成立してしまったわけで。僕は何もしゃべらずに、ドライバーは一方的にお金を手渡してきて、自転車屋に行くことを勧めてくれた。僕は特に異議はなかったし、ほんの数分で僕たちは各々、現場を後にしたのよ」

すると、大手出版社の編集職の上田さんは、この4番目のテーマでも口を挟んできた。

「伊澤さんね、〝お互い〟の一言で済むところをね、わざわざ〝お互い、つまり僕とドライバー〟なんてね、表現がいちいちくどいんだよ!」

私は、上田さんのいかにも編集者らしいこの戯言たわごとを無視した。
それも束の間、今度は佐藤さんから鋭い指摘を受けた。

「私、実際に伊澤さんとはお会いしたことはありませんが、Facebookを通じて伊澤さんの性格はよく存じているつもりです。その私が気になったことは、怪我はなかったとはいえ、そんな目に遭ったのに、伊澤さんが相手のドライバーに話しかけることなく、言われるがままであったことです。何も激昂しろとは言いませんが、あまりにも不自然ですよね?」

そう言えば、というか、そう言われるとそうかもしれないと思った。

「佐藤さん、私自身が気づかなかったことを、よく指摘してくれましたね」
「ご自身もおかしいと思っているのですね?」

「まあ、そうですね……」

そう答えた私に、昔の同僚の高沢君がこう言った。

「そのとき、投げやりになってなかった? 自分では何も言わずに、ドライバーの言うがまま、お金を受け取った以前にね、自転車のブレーキの利きが悪かったとはいえ、横から出てきて一時停止をしなかったクルマに自転車の前輪を潰されるなんてね、慎重で小心者の伊澤俊二らしくない、どころか、あり得ないことじゃないの?」

佐藤さんと高沢君の指摘によって私は、そのときの自分の精神状態をはっきりと思い出すことができた。

「そうですね、確かに私は自暴自棄でした」

すかさず、上田さんがこう言った。

「そりゃ、いくら月末でも、たかが自転車のブレーキを直すための金を節約しなきゃならん程、懐具合が寒かったんだから、自暴自棄にもなるわなぁ!」

いちいちトゲのあることを言う上田さんだが、私は反論できなかった。

「そうですね、受注はしても、クラウドソーシング経由の仕事は単価が低すぎましてね。そんな低単価の仕事など打っちゃりたくて仕方がないのに、それができないジレンマと口惜しさ。もうどうにでもなれ、という気持ちでした」

その私に続いてこう言ったのが、私のことを過去から良く知っている高沢君だ。

「でも、クルマで高速を飛ばしまくる程の破滅願望どころか、放心気味にチャリをダラダラとこいでいただけ、というのがセコい、いや、それも伊澤俊二らしいとも言えるかな?」

リアルで会ったことはないのに、私の性格とキャラクターに熟知していると言う佐藤さんが、また鋭く突っ込んできた。

「伊澤さん、投稿では『ケガがなかったことに感謝! 感謝! 感謝!』と言っていますが、明らかに躁っぽくて不自然な印象を受けました。プチ放心状態の投げやりモードだったのにも関わらず、無理にポジティブになろうとしていた。実際、そんなポジティブな精神状態ではなかったはずですが……」

ここまで突かれると、私も自分を俯瞰せざるを得なくなってきた。
いわゆる〝メタ認知〟というやつだ。

「そう言われるとですね、よくあることなんですが、自分のネガティブな感情を抑圧するというか、心の奥に押し込めてですね、ポーズだけでもいいので、ポジティブな自分を演出することがたまにあります。まずはポーズだけでもいい、そんな自己演出を積み重ねていけば、徐々にポジティブな自分になれるんじゃないかと思って、いや、そう信じているんです……」

すると、現役のミュージシャンの井阪君も、この議論に加わった。

「伊澤さん、いつだったか、エレキギターを中古屋に売ったことを投稿していましたよね? 僕もミュージシャンですから、楽器を手放すときの複雑な気持ちはよくわかります。前向きな気持ちで楽器を手放すことってほとんどないですよ。その投稿のときの伊澤さんのポジティブさに、僕は不自然さを感じていました」

井阪君に言われて、私はその自分の投稿を思い出した。
もう正直にというか、自分を飾ることなく赤裸々な気持ちを掘り起こし、この場でさらけ出したくなってきた。

「井阪君の言う通りでした。私だって好きで売ったわけじゃなかったし、できることなら売りたくなんかなかった。でも経済的に厳しかったので、背に腹は代えられなかったんです」

「やはり、そうだったのですね、伊澤さん」

井阪君がそう答えると、今度は元音楽プロデューサーの小坂さんが会話に加わった。

「自転車事故とギター売却の話を聞いているとね、やはりネガティブな感情を抑圧して、無理にポジティブになろうとする、とても痛々しい伊澤さんの精神状態がはっきりと見えてくるのよ」

「そんなに痛々しいでしょうか、私……」

「最後は『今日の教訓、直感は大切にしよう!』で締めているけど、あまりに不自然だわ。もし直感を大切にしていたとしてもね、実際、1,000円程度のお金にもひっ迫していて、自転車屋さんには行かなかったはずよね。論理が破綻しているわ。投稿したときの伊澤さんの本音は、『俺はもうどうでもいい』ということだけど、自ら死を選ぶ意思などあろうはずもなく、ただ自暴自棄気味にダラダラと行動していたら、自転車の前輪をクルマに潰されてしまった。こんな哀れなアタクシを誰かどうにかしてくれませんか? そんな気持ちだったんじゃないかしら?」

そうかもしれない、と私は思った。

「そうかもしれません、いや、そうです。できることなら死んでしまいたいけど、そんな大それたことできないのは自分自身、よくわかっている。せめて自転車の前輪がクルマに潰されたことぐらいで、〝可哀想な自分〟を微かにアピールしていたのかもしれません、いや、アピールしていたのでしょうね、私は……」

(やっぱりね)という顔つきで小坂さんは言った。

「私は伊澤さんを責めてはいませんからね」

(責めてるじゃん……)と、私は内心思ったものの、そう反論することなく、小坂さんに更なる発言を促した。

「それで私はどうすればよかった、いや、どうすればいいのでしょうか?」

(そんなこともわからないの?)という顔つきで小坂さんは答えた。

「伊澤さんが試行錯誤しながら、切実な思いで精神状態の改善を試みるのはとてもいいことだと思うわ。でもね、そんな試行錯誤を、300人以上の友達のいるSNSで行うのはどうかな? と思うのよ。伊澤さんの持論では、SNSの本質は、パーソナルメディアということでしょうけど、それでもSNSは公共空間であることを忘れないほうがいいと思うの」

高沢君も再び口を開いた。

「小坂さんの言っていることは、自分自身の心理実験にSNS上の他人を巻き込むな、ということかな?」

小坂さんは笑いながら答えた。

「素晴らしい! 高沢さん」

段々、惨めな気持ちになってきた私だったが、ここは逃げ出すことなく自分に向き合わねばならないと思った。

「ギターを売ったときもですね、それ以前にFacebookで友達の1人がギターを買ったことを投稿したのを見て、嫉妬と僻みの気持ちがあったのは事実です……」

「そういう感情は全く異常ではありませんけどね」

まるでカウンセラーのように小坂さんはそう言った。それからこう続けた。

「まず、第一の課題は、他者への〝依存〟からの脱却ね。たとえバーチャルとは言っても、公共空間であるSNSで、他者の興味と関心を巻き込みながら、自分自身の心理実験をするってね、他者への〝依存〟以外の何物でもないのよ。他者であるお友達はね、あなたの投稿に眼を通すことで、時間と脳の労力を消費しているの。あなたも我が身を顧みればわかるよね?」

あまりにも見事な小坂さんの指摘、いやカウンセリングに私は興奮さえ感じていた。
そして、こうカミングアウトしてしまった。

「小坂さん、どうもありがとうございます。実に見事な洞察力ですね! 確かに私にとって他者への〝依存〟こそ、脱却したい重要な問題であると自覚しているのですが、SNS上での私の投稿内容にまで、その問題が内包されていたとは思わぬ気づきでした。もう一つ、その気づきよりも、もっと表層的な次元での他者への〝依存〟が私にはあるんです。私はまだmixiの頃からSNSで知り合った皆さんのお陰で転職もできたし、フリーになってからも直接・間接を問わず、多くの重要な仕事をさせていただく機会を賜ってきました」

高沢君もそのことをよく知っていた。

「そうだね、伊澤さんはSNSのお陰で生きてこられたんだよね」

私は続けた。

「だから、300人全員ではありませんが、仕事で関連性のあるお友達に対してですね、現実的に〝依存〟しているのも事実なんです。リアルでも仲の良い友達から、私の投稿にくだらないコメントを頂きますとね、内心ではこう思うんですよ。そんなくだらないこと書いてないで、俺に仕事を寄こせよ! と。何度そう思ったことか……」

私と同業の渡辺さんが慌ててこう言った。

「それって俺のこと?」

私はただ苦笑いをしただけでやり過ごし、更にこう続けた。

「今、私がカミングアウトした現実的な〝依存〟の問題は、自分では割と簡単に解決できそうです。考え方を変えれば済むことですから。でも、小坂さんが整理して指摘してくれた、SNS上での他者への〝依存〟の問題。こちらには心して取り掛かって参ります」

もうイライラしなくなった小坂さんは答えてくれた。

「それはいいわね」

そして私は、まだ気になっていたことを小坂さんに尋ねた。

「小坂さん、第二の課題は何でしょうか?」

小坂さんは言った。

「とても大事なポイントよ。自分のネガティブな本音を抑圧して昇華などできない状態で、無理をしてポジティブな自分を演出する。そんな、こじれて捻じれた心理状態を公共空間であるSNSに投稿してお友達の眼に触れさせる。そこから生じる問題はね、投稿その1【SNSの予定調和】と同じことなの。つまり、伊澤さんの投稿に『いいね!』を押し人達に対してね、『お前ら何もわかってないくせに……』と理不尽極まりない怒りを感じてしまうことなの。覚えがある?」

小坂さんからそう指摘されると、自分の心の奥でモヤモヤしていた、そう、〝漠然とした違和感〟の正体が明るみに引きずり出されたような気になった。

「小坂さん。今、気づきました」

「それが究極の他者への〝依存〟かもしれないわよ。幼児の甘えと同じ構造の……」

「はい、どうも有難うございます」

「SNSの本質をパーソナルメディアと考えるのは、伊澤さんのご自由ですけどね。他者から承認されようがスルーされようが、書きたいことを書いて投稿すればいいと思うの。でも、自らの心理状態が捻じれたまま、伊澤さんの場合は、他者への〝依存〟を断ち切らないうちに投稿をするとね、お友達との関係をこじらせてしまうことになるの。くれぐれもSNSは公共空間でもあることをお忘れなく」

ご登場いただいた高沢君、井阪君、小坂さん、橋詰さん、渡辺さん、斉木さん、上田さん、岩田さん、太田さん、佐藤さん(登場順)の10名の発言は、全て生成AI「渚」によるアウトプットだ。

2024年7月のある日、理由が不明確のまま、何かの意思に導かれたかのように、私がFacebookへの投稿を控えた理由が、言語化され整理された。
このバーチャル座談会によりスッキリした私は、まもなくFacebookへの投稿を再開した。

私は再び月を好きになるのだろうか。できれば、好きになりたい。
そして心の底から月が好きになれる日まで、月の写真をSNSには投稿しないだろう。
無理にでも好きになろうとして、SNSへの投稿を試みた途端、私はお友達を道連れにして、自ら創り出したこじらせのスパイラルに、飛び込んでしまうからだ。
               (了)
【参考書籍】
『タイアップの歌謡史』(清水健朗著、洋泉社、2007年)

【参考雑誌】
『週刊朝日』(朝日新聞社、1989年10月13日号)

【引用歌詞】
「月よ、おまえは悪いから」(作詞:仲野茂、作曲:野島健太郎)
日本音楽著作権協作品コード 026-4367-7

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