《手記》ポスト東京ロッカーズ界隈 1980-83
あらすじと(最初に)お詫び
1980年(昭和55年)、立教大学に入学した〝俺〟が、高校時代は〝軟派〟のやることだと、内心、軽蔑さえしていたロックミュージシャンを志向し始め、ポスト東京ロッカーズのシーンの中、ギターを弾き始めてバンドの結成・加入と脱退を繰り返しながら、都内のライブハウスやイベント会場に入り浸り、自らも出演してきた4年間の、筆者の手記です。
楽器、とりわけギターの素養がなかったのにも関わらず、大学生時代、ほぼ初心者ながら、4年生の春には東名阪のツアーに参加。ずっとイジメられて、いや、叱咤ばかりを受けていた先輩のバンドと、京大西部講堂と奈良のライブハウスで対バンしたものの、表現力には全く自信のなかった筆者にとって、実はヒジョーに苦しく捻じれに捻じれた精神状態でした。
夥しい数のミュージシャン、お友達をはじめとする皆様にご迷惑をかけにかけて参りまして、正直、書き進めれば進めるほど、神経的に参ってしまいました。
技術的な表現力が稚拙だったばかりか、表現したいものさえ見つかっていなかった。そんな状況の中、縁あって巡り合い、離れていった多くの人達との交誼、リアルに観てきたミュージシャンのパフォーマンスなどの記録が、この手記です。
当初、登場するバンド名とミュージシャン名は伏せて書くつもりでしたが、それではリアルな時代感覚を読者の皆さんに味わって頂くことが難しいので、実名とさせていただきました。特に、個人名がバンド・ユニット名になっている場合です。
「俺、そんなこと言ってねぇぞ!」「デタラメ書きやがって……」「アタクシの名誉が……」と憤られる方もおられるかもしれません。
この手記に関わる、全ての責任は筆者にございます。
現在でもお世話になっているミュージシャンの皆さま、すでに筆者と絶縁してしまった皆さま、その他、当時、お世話になった皆さまには、大変、申し訳ございませんが、この場の謝罪にて、全て終わりとさせて頂きたく、切にお願い申し上げます。
さらに、本作では、ほとんどの人物をアルファベット頭文字表記といたしましたが、どなたがどう読んでも、現在の文学や芸能界隈でビッグネームとなられた「あの人」だとおわかりになる複数の箇所がございます。
ここはひとつ、たかがこの私、香車伝が書いた手記じゃないかと、大目にみて頂ければありがたく存じます。
この手記を書いたきっかけは、2026年4月上旬、東京ロッカーズをテーマとした映画『ストリート・キングダム』(監督:田口トモロヲ×脚本:宮藤官九郎、峯田和伸×若葉竜也W主演)を観たこと。
そして、noteやFacebookに諸々書いて感じたことです。
筆者が経験した80年以降のポスト・東京ロッカーズ界隈のほんの一部ながら、そのような情報でも、ご興味のある皆さんが多いことに気づいたのです。
ですので、当時、お世話になったりご迷惑をかけた皆さんから受けると想定されるヒンシュクは、一切、無視させていただき書きました。
どうせあと何十年も生きるわけではないので、今のうち、この世に記録だけをしておきたいと思い、曝け出せる部分のみですが、筆者自身の顔写真と経歴(自己紹介の内容の通り)とともに、当時の体験を公開します。
*400字詰め原稿用紙でほぼ90枚のボリュームです。写真も充実させました。お時間のある折、ごゆるりとお読みいただければ幸甚です。
♬こんな人生は 誰かにくれてやらぁ
1.「コンフォートゾーンから飛び出したかった?」(1年生)
1980(昭和50)年4月、俺は立教大学文学部日本文学科に入学した。前年に現役で入学した法政大学社会学部社会学科は、前期を休学した後、退学した。
地方出身者の占める比率が高く、人としての暖かさや人情味が学生の特徴だった法政から、都内と近郊の出身者の占める比率が高く、都会的な雰囲気が特徴(当時は「シティ・ボーイ)」というコトバも流行っていた……)の立教へ移った理由とは?
一つ目の理由は、高校3年間の新左翼セクトC派活動家からの〝脱皮〟である。自分の属していたC派の全国最大の拠点校であった法政大学への現役入学という〝エリートコースを進むような予定調和〟。俺はこの予定調和に物足りなさと違和感を感じていた。
もちろん、そんな違和感は俺の表層心理での話だ。深層心理ではずーっと活動家をやめたかったのだろう。もっとも、高校卒業の時点で、俺はミッションをコンプリートしていた! ということに気がついたのは、還暦を過ぎてからのことだったけどね。
二つ目の理由は、若気の至りという奴だろうか? 自分の本質との相性で、真逆な環境を敢えて選びたかったことだ。令和の今の言葉で表現すると〝コンフォートゾーン〟から飛び出したかったということだろう。法政大学のような自分にとって居心地のいい人間関係の環境ではなく、自分の本質にはなかったであろう、都会的な洒落た環境に身を置きたかったのだ。そのほうが目立つだろうし……と。いや、実際、大変だったけどね。こじらせてばかりで……。
2.「こんなのが音楽⁉」(1年生)
4月のある日の午前中、文学部日文科1年N組の一般教養ドイツ語の授業が終わった。教室内で俺は、YKさんという日本人離れした、くっきりとした眼が印象的な女子と話していた。YKさんは外国人ギタリストを写真の入ったファイルを持っていた。俺は早速、聞いてみた。
「それ、ジェフ・ベック?」
そんな的外れな質問をした俺に、内心、ドン引いていたのかどうかわからなかったが、彼女は幼子に諭すように教えてくれた。
「ローリング・ストーンズのキース・リチャーズという人よ。ギターがね、上手いのよ……」
その日、俺はキース・リチャーズという人の名前を一発で覚えた。
後日、やはり語学の授業の後、YKさんは、暴走族風の男性が二人、下から睨みつけているジャケットのレコードを俺に見せてくれた。
「私、名古屋の女子高に通ってた時、スタークラブというロックバンドのマネージャーをやっててね、そのレコードなのよ。どう?」
「どう?」と言われてもどうしたらいいのかわからなかった。が、ひとまず俺は、そのザ・スタークラブとかいうバンドのレコードをYKさんから受け取り、代金を支払った。いくらだったのかは憶えていない。ちなみにYKさんは私立のお嬢様学校の出身だったそうだ。
その日、俺は自主制作盤というレコードの存在を知ったのだ。自主制作盤は後年、インディーズのレコードと呼ばれることになる。
埼玉県大宮市(当時)の家に帰り、そのザ・スタークラブのレコードを聴いて、俺は唖然とした。
(こんなのが……音楽、しかも、商品として販売されている……)
そりゃ当然だろう。当時、俺が聴いていたのはABBAやゴダイゴだ。そして俺は、そのザ・スタークラブのレコードに二度と針を落とすことはなかった。もちろん、いつもしていたようにカセットテープに落とす(録音する)こともしなかった。
3.「ロックバンドとかやってるの?」(1年生)
小学生の頃は、ベートーベンやモーツアルト、シューベルトなど、ごく一般的な作品ながらクラシックを聴くことが好きで、中学・高校生の頃はAMとFMラジオで、世間並みにポピュラー音楽を聴いてきた俺だったが、高校の3年間は過激派の活動家だったわけで、顕在意識では、バンドとかやったりすのは軟派な奴らだと軽蔑していた。
ところが、高校3年生のとき、大学受験勉強のため大宮市立図書館(当時)に行くたびに、出会った中学校の同級生たちは、長髪の俺の姿を見て、皆、一様にこう問うてきた。
「ロックバンドとかやってるの?」
身長177センチ、体重53キロで、とりわけ足が細かった俺の姿を見れば、バンドでもやってると思うのは当然だろう。
そして、同級生たちから同じような問いを投げかけられることが、だんだん鬱陶しくなってきて、こう思ったのだ。
(そんなに俺がロックミュージシャンに見えるんなら、いっちょ、楽器でもやろうか?)

さらに、もう一つ、バンドをやることで、とてつもなく大きなメリットがあることを発見した。小学校高学年になるまでは、コンプレックスなど感じていなかった俺だったが、思春期、中学生になってから、自身の体が細いことに強烈な劣等感を感じるようになった。当時通っていた中学校にはプールがなかったのは救いだったものの、体育の授業のときには、真夏でも半袖ではなく長袖の体操着を着ていたぐらいだ。
ところが、ロックバンドをやるのなら、体の細いこと、特にスリムジーンズが似合う細い足は、大きなアドバンテージとなる、と気づいたのだ。
弱みだったことがガラリとが強みに転化する。生まれて初めて実感した〝逆転の発想〟だった。
(何をやろうか? ドラムか? サックスか?)とカッコいい楽器ばかり候補に挙げてみたが、とりあえず手軽なギターを始めることにした。
俺の潜在意識の中でミュージシャン志向が芽吹いたのは、法政大学入学前だったが、実際にフォークギターとエレキギターを買ったのは、立教大学入学直後のことだった。
4.「そんなことしたら、指が痛いじゃん!」(1年生)
19歳になっていた俺は、大宮の中心街にあった新星堂(当時)で、YAMAHA製の1万円くらいのフォークギターを買った。
中学生と高校生の頃に聴いていたAMラジオでよく流れていた、かまやつひろしの一言が忘れられなかった。Morrisのギターのコマーシャルだった。
「モーリス持てば スーパースターも夢じゃない」
そんなことあるはずないとは思っていたが、現実はとてつもなく厳しかった。
大学に入ってから俺は、地元の国鉄(当時)操車場で夜間のアルバイトを始めたのだが、同期には同じ中学校の友人達がいた。そのうちの一人で、4年弱の間、バイト以外でもよく一緒に遊んだTT君はギターが上手く、当時流行っていた高中正義の「BLUE LAGOON」を完全コピーしていた。
(いずれエレキのほうも買うし、俺も「BLUE LAGOON」とか弾けるようになるんだろうか?)
そう意気込んで買ってきたフォークギターを弾こうとしたものの、まず音が出なかった。早速、俺はTT君にギターの音が出ない理由を尋ねたところ、こう返された。
「秀ちゃん、それはね、ギターの弦を押さえてないからだよ……」
(弦を押さえていないだって⁉)
俺はTT君に言い返した。
「そんなことしたら、指が痛いじゃん! 指が痛くなるなんて誰も言ってなかったよ……」
後になってからよくわかったが、これはつまり、俺にはギターを弾く適性がない、ということだった。とにかく先が思いやられたが、やると決めたからにはやろうと、自分には向いていなかった修羅の道を進むこととなった。
5.「アメリカ文化研究会はC派なのか⁉」(1年生)
ギターを始めると決めたものの、軟派な学内の音楽サークルに入る気はなかった。そこで、俺が出入りし始めたのは、かつてC派のサークルだったこともある「アメリカ文化研究会」という〝幽霊サークル〟だった。
〝幽霊サークル〟というのは、誰もアメリカ文化など研究しておらず、ただ旧サークルメンバーの知り合いが入り浸っているだけの集まりだったからだ。池袋キャンパス(当時、大学と大学院は池袋キャンパスのみ)の5号館東側に、プレハブ2階建ての「24部室」という棟があって、「アメリカ文化研究会」は「24部室」の1階にあった。
当時、立教大学は都内で法政大学に次ぐC派の拠点校、とされていた。ところが実態は、多くの学生と外部からの応援部隊が常駐していた法政に比べれば、C派の拠点校どころでは全くなかった。
まず、C派メンバーは常駐していなかった。かつては構成員が常駐していたのだろうけど。そして、数か月に1度ぐらいの頻度で、数名のC派メンバーが「アメ研」部室に顔を出していたのは、俺が1年生のときまでだった、ような気がする。
それでも、C派と凄惨な内ゲバ殺傷事件を繰り広げていたZ派が撒いていたビラには、「アメリカ文化研究会はC派だ!」と書かれていた。
そのような環境は結果的に、俺がC派から徐々に離れていくのに悪くはなかった。もっとも、C派のほうでは〝もうこいつは使えない……〟と俺を認識していったのかもしれなかったが。
僅か1年間のことだったが、俺が出合った立教のC派活動家に対して、悪い印象は全くなかった。ギターがとても上手な人もいた。
彼らが出入りしなくなったことを知ったのだろうか? 俺が1年生だった秋のある日の午後、今度はZ派の活動家が4,5人、部室にやって来た。たまたま居合わせた俺は彼らを部室内に案内し、一通り話を聞いた。話の内容はZ派のビラに書かれていたこと以上でも以下でもなかったので、何の新鮮味もなかった。全員が俺と同世代、つまり現役の学生のように見えた。
それから数日後、大田区南千束でZ派の5人の活動家がC派に襲撃され、5人とも殺害されたことを知って驚いた。
(あのときの彼らじゃなけりゃ、いいんだけど……)と、何か複雑な気分になった。
6.「何だ君は⁉ 立教の学生か⁉」(1年生)
実質的なサークルではなかったものの、「アメ研」のメンバーは、俺より1学年上の先輩たちで、造反医学というバンドのメンバー3人(うちドラムスは別の大学の学生)と、2人の先輩だった。
先輩たちは、もとは学内のサークルに所属していたものの、内輪ノリが肌に合わずに辞めて、演奏活動の場を学外のライブハウスに求めていた。同学年では1年だけで去っていった男が一人だけいた。
造反医学のリーダーでヴォーカル&ベースのJNさんは、俺が法政にいたとき最も仲の良かった男性の級友の高校の同級生だった。
Z派のビラには、「造反医学はC派だ!」と書かれてはいたが、それはデマだった。
それでも、C派とは全く関係はなくなったものの、造反医学は反体制的気質が強く、よく昼休みに、時計台のある本館と第1食堂の間の「四丁目」と呼ばれている中庭で、無許可のゲリラライブを行っていた。
機材運びとセッティング・撤収を手伝っていた俺の主な役割は、ゲリラライブを止めにきた学生部職員への対応だった。少しでも長く演奏させるための時間つぶしだ。
「何だ君は⁉ 立教の学生か⁉」
学生部職員のこの一言が、俺の耳にこびりついたほど、ゲリラライブを続けてきた造反医学だったが、俺が2年生になった頃、新宿ロフトをはじめとした都内ライブハウスでの活動に軸足を移し始めたことで、ゲリラライブは行わなくなり、俺はホッとした。
そんなことをやっていた俺たちだったので、「アメ研」の名称を使うのはどうかな? ということで、とりあえず新しい名称を考えた。
そこで決まった名称は「Walkin' Jap」。部長とかそんな役職もなかったが、自然の流れで、造反医学のJNさんがリーダーだった。
「Walkin' Jap」は音楽サークルではなく、ただ来たい人だけが、来たい時だけ部室に来て、喋ったりするするだけの集まりだった。バンドどころか楽器を弾かなくてもいい。サロンのような空間だった。全然、洒落てなどなかったが。
7.「造反医学とかいう病気バンドとやるんだって?」(1年生)
俺は「Walkin' Jap」の部室に、中学生のときに剣道部の部員仲間だったTSを呼んだ。現役で上智大学に入学していたTSは、帰国子女の多かった上智で「ニューウェイブ研究会」に入っており、ポスト東京ロッカーズのシーンで活動していた、絶対零度というバンドのギタリストだった。


特に決まった目的はなく、ただ何となく人と人のつながりを演出するのは、俺の無意識の欲求のようだった。TSと俺は高校時代、付き合いは全くなかったのだが、互いの実家が近かったこともあり、この年(1980年)の夏には、日本武道館へ吉田拓郎のコンサートを一緒に観に行っていた。もちろん先輩たちにそんな話はしなかったが。
そして、造反医学と絶対零度の対バンが決まったのだが、造反医学の先輩たちも俺も、絶対零度を観たことがなかったし、音も聴いたことはなかった。そんなことで、造反医学の先輩たちと俺は、1981年の年初、新宿ロフトへ絶対零度のライブを観に行くこととなった。
その日のライブのメインは、徳間ジャパンからアルバム『メシ喰うな! 』を発売したのかするのかは忘れたが、大阪のINUというパンクバンド。そして、オート・モッドと絶対零度の3バンド、だったように記憶している。
開場時間となり新宿ロフトの客席に座ったTSと俺達のもとに、オート・モッドのヴォーカリストのジュネがやってきて、TSにこう語りかけた。
「造反医学とかいう病気バンドとやるんだって?」
俺の横に座っていた造反医学の先輩たちは無言だった。
ちなみにオート・モッドのジュネには、山岡氏という弟がいたことを後日、知った。その山岡氏は立教大学の文学部と学年までは俺と一緒で、心理学科の学生だった。当時の山岡氏は、おそらく学内で最も目立っていたと思う。真夏でもブラックレザーの上下で黒サングラスをかけていた。俺が山岡氏と言葉を交わして飲んだだのは、お互い4年生になってからのことだった。
8.「そんな言い方はないだろう……」(1年生)
俺の新宿ロフト観客初体験のこの日、3バンドのうち最も印象的だったのは、やはりINUだった。この頃、俺がよく観に行っていたのロックバンドはせいぜいPANTA&HALやARBだったので、3バンドともよくわからなかったのだが、相対的にINUが一番、しっくりきた、ような気がした。
俺はステージ上手側の前のほうで観ていた。そして、曲と曲の間、スレンダーな女性ベーシストが、ヴォーカルの町田町蔵の耳元で何かささやいたが見えた。何をささやいたのか、聞こえるはずなどなかったが、町蔵がベーシストに返した言葉だけは聞こえた。
「そんな言い方はないだろう……」
(なんかカッコいいな)と俺は思った。
9.「三上寛だ!」(2年生)
1981年、2年生になった俺は、人生初のバンドを組んだ。
ドラムスは俺とTSの中学の剣道部の後輩で、明治大学に入学していたYO君。ヴォーカルはYO君の明治の同級生のAK君。サックスは俺の高校3年生のときの同級生で法政のTE。ベースも同じく高校3年のときの同級生で早稲田のTTだった。
ドラムスのYO君はルックスがコージー・パウエルに似たハードロック畑。ビートルズも好きだったようだったが。
ヴォーカルのAK君とサックスのTEは、ロキシー・ミュージック好きだった。ベースのTTの音楽性は不明だった。
俺たちも学内ではなく、外のライブハウスでの活動を目指していたので、曲は全てオリジナルを前提にしていた。ちなみに俺がコピーバンドを始めて、バンドの楽しさを実感したのは、50歳半ばになってからのことだ。
結成したのが春だったのか夏だったのか覚えていない。バンドメンバーのミーティングは「Walkin' Jap」の部室、リハーサルは大塚のStudio Pentaを使っていた。
曲はヴォーカルのAKが創った。が、俺には、どこがロキシーっぽくて、どこがデヴィッド・ボウイ風なのか一向にわかることはなく、1年も経たずに解散してしまった。当然と言えば当然すぎることだった……。
その訳のわからない寄せ集めバンドの初ライブは1981年の秋。ヴォーカルのAK君が人脈を駆使して持ってきた企画で、早稲田祭だった。
会場は戸山の文学部の教室。メインのバンドは、山崎春美とか白石民夫という人達のタコというバンド? というよりユニットのような人達だった。
そのときのタコのアバンギャルドなパフォーマンスに感動した俺は、次の東京理科大学(@神楽坂)の学祭の教室ライブで、ギターを弾くことなく、タコのパフォーマンスを真似したところ、自分自身、何がなんだか訳がわからなくなってしまい、仕舞にはあまりの恥ずかしさに耐え切れず、教室の机の下に身を隠してしまった。
そのときにいたメンバーの誰かの彼女に、蔑みの笑みを浮かべられたことが、トラウマとなったしまった。もちろん、その日のライブでこのバンドは終焉した。
時は遡るが、俺の高校3年生の同級生で、埼玉県の大利根村(当時)から飯田橋の法政に通っていたサックスのTEは、ロキシー・ミュージック、とりわけブライアン・イーノが大好きだった。
ある日、部室に来たTEは坊主頭になっていた。得意げな顔のTEは、片手で頭をなでさすりながら、茨城なまりの埼玉弁でこう言い放った。
「ブライアン・イーノ大先生にあやかったんだよ……」
すると、その場に居合わせた造反医学のリーダーのJNさんがTEの頭を指差し、大声で叫んだ。
「三上寛だ!」
10.「お前もそんな恰好をするようになったか……」(1年生から2年生)
法政大学をやめてから、今度は色々なパンク・ニューウェーブ系バンドのライブを観るため、俺は法政の学生会館(ガッカン)へ頻繁に足を運ぶことになった。
短い期間ながら、よく一緒に遊んでいた級友達とも偶然出会ってしまい、しんみりと話をしたこともあった。
俺は法政の後期、受験勉強のため休学していたので、法政の学園祭は退学してから初めて体験した。80年秋の学園祭の野外ステージの出演バンドは、俺のお目当てだったPANTA & HAL、そしてSandii & the SunsetzとARB。ライブの途中、雨が降り出して、トリのPANTA & HALは学館で演奏することになった。
学生自治会の自主管理下にあった学館周りの学園祭スタッフは、あらゆるセクトの混成(ライブ警備には学生服を着た体育会の学生もいた)で、俺がC派の高校生活動家だったときの先輩もいた。
その先輩は俺とは別の地区(高校)だったが、高校生の頃にはバンドもやっていたと聞いていた。髪を逆立て、ライダースの革ジャン、ブラックスリムのジーンズ、コンバースのオールスターハイカット姿の俺を見て、その先輩はしみじみとこう言った。
「お前もそんな恰好をするようになったか……」
俺が高校生の頃、すでに大学生だった別の先輩は、(いつか殺す……)とでも言いたげな殺気だった視線で俺を睨みつけていた。
あと、殺気は全く感じなかったが、法政の学館に行くたびに、ギョロリとした眼で俺の顔を睨んできたのは、アレルギーの宙也だった。
2年生になってから、ザ・スターリンのライブを初めて観たのも法政の学館だった。
ケネス・アンガーの映画『快楽殿の創造』がステージのスクリーンに投影され、既にシングルを買って聴いていた「豚に真珠」で演奏が始まった。遠藤ミチロウが投げたブタか牛か鶏の肉片が、2階席で立って観ていた俺の顔めがけて飛んできたので、とっさに避けた。ライブの終盤になると俺は、1階に降りて、床でのたうち回っていた遠藤ミチロウに抱きついていた。

11.「大人にならない」ことが市民権を得た時代のはじまり(2年生)
ザ・スターリンの遠藤ミチロウが80年代前半で30歳を越えていたことは衝撃的な事実だった。当時の俺の常識では、30歳は立派な大人だった。
さらに、当時の東京ロッカーズ界隈の何人ものミュージシャンの情報が入ってくると、あのバンドの誰々は高校の非常勤講師をしているとか、そのバンドの誰々はスーパーの販促のバイトで着ぐるみを着ているとか聞くたびに驚いた。しかも皆、年齢は30歳を越えていたようだった。
人口ボリュームで多数派を占めていた団塊世代のうち、企業社会に居場所を見つけたオーバーグラウンド組ではなく、芸術や芸能の世界でうごめいていたアンダーグラウンド組。それでも多数派の影響力というやつに俺はからめとられていたわけだ。遠藤ミチロウは1950年生まれなので、47年から49年生まれの団塊世代の厳密な定義からは外れるとはいえ、ほぼ同じような経験・価値観を共有していたはずだ。
ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、俺自身、団塊世代からの影響を受けてきたことを認めざるを得ない。ずっと後になってからわかってきたことだけどね。
意識的であれ無意識的であれ、〝大人にならない〟ことは自己決定の結果だった。ところが、1991年のバブル経済崩壊をきっかけに、団塊ジュニア世代の少なからぬ人達の、社会における「成熟化」が阻害されてしまったこと(ロスジェネとか)は、大いなる皮肉、というのは余談だ。
12.「ゴキブリもそのまま焼いて出したら、客は黙って見つめてた……」(2年生)
1年先輩たちの造反医学が、1981-82年大晦日の新宿ロフトの年越しライブに出ることになった。
前年の大晦日、俺は浅草国際劇場(当時)で開催された内田裕也プレゼンツの「NEW YEAR」を観に行った。連れの人達と交代で夏用の寝袋で一晩寝かせられながら、会場に一番乗り。ふとしたきっかけでスタッフの方と知り合って、安岡力也さんの楽屋にお邪魔した俺だったが、(今年はどこで年を越そうか?)と途方に暮れていた。
これはいい機会だと、俺はローディを志願した。新宿ロフトの年越しライブなので、とても多くのバンドが出演したが、俺が覚えていたのはゲルニカだけだった。このとき初めて戸川純を見たわけだが、もちろん顔も名前も知らなかった。一般的なミュージシャンは、リハーサルはまだ平常の状態に近いものだが、戸川純はリハーサルの時点で、すでに情緒が著しく不安定に感じられた。そして、本番になると明るいキャラを演じて、リハに比べると〝普通の人〟に見えてしまったのが不思議だった。
新宿ロフトの年越しライブも無事に終わり、雲一つない新春の朝日を浴びながら、造反医学のメンバー3人と俺は新宿のある焼き鳥屋で打ち上げを始めた。その焼き鳥屋は造反医学のギタリストのHIさんがアルバイトをしていたことのある店だった。
HIさんは前年(81年)の夏、ザ・スターリンの北海道ツアーに参加していた。ギタリストのタムとドラムスの乾ジュンがツアーに行けなかったので、ギターはHIさん、ドラムスはE.D.P.S.(恒松正敏さんのバンド)のBoyさんが参加したのだ。
東向きの窓から新春の陽光が差し込む焼き鳥屋の店内で、無口なHIさんは呟いた。
「俺がここで鶏を焼いてるとき、ゴキブリが入ってきてさ……」
「それでどうしました?」と俺は聞いた。
「ゴキブリもそのまま焼いて出したら、客は黙って見つめてた……」
13.「せめて、ジュリーぐらいだったら……」(2年生)
ここで、バンドと学校でのことから離れ、地元のアルバイトの先輩から誘われて、1度だけ参加したライブの話を。
80年代前半、パンク・ニューウェーブ系の髪型やファッションが、普通の人達にどうみられていたか? ということの参考になるだろう。
地元の国鉄(当時)操車場で夜間のアルバイトをしていた俺は、同じ中学校の2年先輩にあたる男性に眼をかけていただいていた。その先輩は、モロ山下達郎風のバンドでギターを弾いていた。そして、メンバーの大学卒業というタイミングでバンドを解散するので、82年年初に大宮の公民館でコンサートを開催するのだが、そのコンサートで俺にサイドギターを弾かないか? と誘っていただいた。
「お断りします」といえるわけなどなく、俺は1度だけのコンサートでのサイドギターを引き受けた。アルバイトは午前0時半が終業だったので、クルマで俺の家まで送ってくれた先輩は、俺の部屋に上がってくれて曲を教えてくれた。メジャー7th、マイナー9thなど、ジャズやフュージョンで使うテンションコードを俺はいくつも覚えた。
もっとも、俺がテンションコード使いの曲を作曲したのは、還暦を過ぎてからのことだったが……。
そのバンドのオリジナルメンバーは5人だった。そのうち、鍵盤担当だった先輩は、メンバーの名で最も温厚かつ無口な方で、バイト先でも稀に見る優しい方だった。
ところが、バンドに加わった俺のディップで髪を立てたヘアスタイルに、あからさまに嫌悪感を顕わにし始めた。その先輩は長髪でパーマをかけたカーリーヘアだった。実は俺もそのバイトを始めてから1年以上、カーリーヘアーだったのだが……。
とても優しいと思っていた先輩が、急に態度を変えたことに、俺は驚くしかなかった。その先輩はこう言った。
「せめて、ジュリーぐらいだったなら……」
ジュリー(沢田研二)にもニューウェーブ風だった時代があったのだ。
大宮の自治会館でのコンサートは無事、終わった。他に2バンドが出演したが、そのうちの1バンドはザ・スターリンのコピーバンドで、「解剖室」や「インテリゲンチャ」を演っていた。
スターリンの最後の自主制作盤『trash』の収録曲だ。(大宮のこんなところまでスターリンが浸透していたとは!)と俺は驚いた。
14.「初めてですねよ? まともなバンドは」(3年生)
1982年4月、俺は3年生になった。公認サークルではなかった「Walkin' Jap」も、華やかで賑やかな学内の雰囲気に飲み込まれたのか、新入生勧誘のようなことを始めた。
といってもほとんどのサークルのように、ブースを設けるような面倒なことはせず、学内でPUNKとかNEW WAVE風の髪型・ファッションの学生を見つけ次第、一本釣りのように声をかけたのだ。
バンドを組むことが必須の音楽サークルではなく、ただたむろっていればいい集団だったので人は集まってきた。といっても俺は自分で動いた記憶はない。
数名の1年生が入ると、今度はその1年生たちが積極的に動き回って声を掛けてくれて、10人に満たなかったものの、想定を上回る数の新入生が入ってくれた。新入生のうちの一人は、俺と同じ3年生の山岡氏(オート・モッドのジュネの弟)に声を掛けたようだ。もちろん、一言で断られたそうだ。「群れるのは嫌いだ」。(そりゃそうだよな……)と俺は思った。
そして間もなく、俺は英文学科の1年生で、高校時代から群馬のライブハウスでヴォーカル&ギターとして演奏活動をしていたKI君とバンドを組んだ。黒のストラトキャスターを腰辺りの低いポジションで弾く、外見だけでも華のある男だった。ベースはザ・スターリンの大ファンながら無口なI君、ドラムスはMT君。
曲と歌詞はKI君が創った。俺も生まれて初めての曲を創ったが、メロと歌詞はKI君にお願いした。バンドのほとんどの曲調は言うまでもなくクラッシュやピストルズ風だった。
バンド名は「LOSE」。初めてのリハーサルは高円寺のスタジオだったが、ほどなく大学に近い池袋のStudio Pentaを使い始めた。夜のリハの後、池袋の居酒屋でメンバーと飲んでいると、有線で一風堂の「すみれ September Love」が流れている、そんな時代だった。
あの恥ずかしい、俺の人生初のバンドのフロントマンだった明治のAK君にはこう言われた。
「初めてですねよ? まともなバンドは」
やはり、AK君も自身がヴォーカルを務めていた、あの寄せ集めのカオスバンドのことを、まともだと思っていなかったのだ。
15.「今日の企画、良かったよ。ホールはね」
俺たちがLOSEを結成して間もなく、明治大学のAK君が言い出しっぺとなって学内イベントを企画した。普通なら、サークル全体でリスクを負うものだったが、主催は「Walkin' Jap」でも、資金面でのリスクは言い出しっぺが全て負う、というシステム(?)だった。
会場は大学の入学式・卒業式を行うタッカーホール。70年代初めの荒れていた時代には、頭脳警察、はっぴいえんど、吉田拓郎も主演したそうだが、当時の俺達にはそんな伝統など関係なかった。
資金調達のため、AK君は俺に割のいいPARCOのアルバイトを紹介してくれたのだが、そんなことに無頓着でお金を還元しなかった俺は、後になってから反省した。
俺がやったのは、せいぜい、ある先輩と2人で広告取りに西池袋の会社を回っただけだった。広告を出稿してくれたのはサラ金(現在の消費者金融)だった。どすの利いた社長に、「立教の学生さんには世話になってるからな!」と、パンフレットに掲載する広告料金を現金で払ってくれた。
企画名は「タッカーギグ」とした。出演バンドは、吉野大作&プロスティテュート、ジル・ド・レイ、ジャングルズ、コクシネル、造反医学、urban、LOSEの計7バンドだった。

日本アンダーグラウンド・シーンのエナジーが立大に集結する。今、新しい波が流れようとする時、いつまでもサーファーどもがうろちょろしていいわけはあるまい。


ギター初心者だった俺の、初のまともなバンドだったLOSEでの演奏だが、俺自身の書いた曲で構成を間違えてしまったという、情けない体験でもあった。それでも、机の下に隠れたくなるほどの恥ずかしさなどなく、音響のいい大きなホールでの演奏は気持ち良かった。
終演後、楽屋で吉野大作さんと一言二言、話をした。俺は吉野大作&プロスティテュートの81年リリースのアルバム「死ぬまで踊り続けて」を愛聴していた。吉野大作さんは言った。
「今日の企画、良かったよ。ホールはね」
16.「あいつ、今日のライブ、忘れてたらしい」(3年生)
タッカーギグの前だったと思うのだが、「Walkin' Jap」に力強く頼もしいT氏が加わってくれた。T氏は学年は俺の1年下だった。そして名古屋のザ・スタークラブの東京スタッフとのことだった。私のクラスのYKさんが名古屋でザ・スタークラブのスタッフだったのは高校生の頃だったこともあり、2人の面識はなかったようだ。
そしてT氏はLOSEのマネジメントとブッキングを担当してくれた。T氏の業界での人脈のおかげで、LOSEも助かったが、秋の目黒キャットシティのライブで俺は、LOSEを脱退することにした。その理由は覚えていないが、たいした理由でなかった気がする。
その目黒キャットシティでの対バンはザ・フールズ(THE FOOLS)だった。それ以前に、法政の学館でじゃがたらを観ていたときの江戸アケミの「俺たちの後に、フールズつー馬鹿が出るからよ、今日は馬鹿の前座だ」というMCが忘れられなかった。その学館のライブでは、元村八分のギタリストの山口富士夫がゲストで参加していて、演奏中、短すぎたシールドがアンプから抜けてしまったのも覚えていた。
ザ・フールズのギタリストの川田良は、タッカーギグにも出演したジャングルズの他にも、午前四時というバンドで自主制作盤を出しており、俺にとってアイドル的存在だった。が、怖そうだったので一言も口をきかなかった。
彼らのリハーサルの時間になっても、ヴォーカルの伊藤耕は姿を現さなかった。連絡を取っていたベースの中嶋さんが言った。
「あいつ、今日のライブ、忘れてたらしい」
ザ・フールズの演奏は歌なしのインストだった。
17.(こーいうのが、本物のサイケデリック?)(3年生)
人脈が豊富だったT氏のおかげで、3年生の秋、11月だったと思う。俺は、横浜市立大学大学祭のザ・スターリンのライブの会場警備のバイトをすることになった。3年生の1年間だけ、旧大宮市内の実家を出て、杉並区久我山の風呂なしアパートで暮らしていた俺は、ライブ当日の日曜日の午後、久我山駅から井の頭線に乗ったのものの、何かのトラブルで電車が停まってしまい、他の乗客たちと一緒に、永福町から明大前まで線路の上を歩いた、というのはどうでもいい話だ。
ザ・スターリンのフロントアクト(前座)は2バンド。
1番目は、宮沢正一&ザ・ラビッツ。宮沢正一は、1981年に遠藤ミチロウの自主制作盤レーベル「ポリティカル」から、文学的な歌詞が印象的だったソノシート『キリストは馬小屋で生まれた』をリリースしており、俺は、ザ・スターリンのEP『スターリニズム』とともに聴いていた。
〝パンクフォーク〟と呼ばれていた宮沢正一がバンドを結成していたことは雑誌か何かで知っていた。その宮沢正一&ザ・ラビッツは、ヴォーカル&ギター、ギター、ベース(女性)、ドラムスの4ピースバンド。
コーラスやフランジャーといったエフェクターを駆使していたのだろう、人間離れというか地球離れとしか言いようのないギターの音色のインパクトが強すぎた。ただでさえロックの知識が少ないかった俺だったが、このサウンドは衝撃的だった。
(こーいうのが、本物のサイケデリック?)
2番目は、後年、ラフィン・ノーズと有頂天とともに〝インディーズ御三家〟と呼ばれることになるザ・ウィラード。結成されたばかりだったようだが、知名度は急速に浸透していた。ヴォーカルのJUNは最後の曲で「バカヤロー」と呟いてステージから去って行った。
3番目のザ・スターリンは、徳間からのメジャーデビューアルバム『STOP JAP』のナンバー中心の、そつのない演奏だった。一緒に警備のバイトに参加していたLOSEのベーシストでザ・スターリンの大ファンながら無口なI君が、貧血か何かで気を失った女性を救出したのが見えたが、俺は特になにもしなかった。
3バンドのうち、最も印象に残ったのが、後年、サイケデリック・パンクとジャンルづけされることとなった、宮沢正一&ザ・ラビッツだった。
18.「俺、ツアーで京都へ来るよ」(4年生)
1983(昭和53)年となった。日本文学科にはなぜか修学旅行というのがあった。大学で修学旅行とは……と思った俺だったが、3年生と4年生の間の春休みに、京都の東急ホテルに3泊4日するという修学旅行に参加することにした。
3月下旬か4月上旬か正確な日付は覚えていないが、参加者数十名の全体行動で俺たちは、鞍馬寺から貴船神社までの山路を歩いていた。
その昔、金星人が降り立ったとかいう訳の分からん伝説のある山路で、一緒に歩いていた女子学生に俺はこう言った。
「今、バンドやってないんだけど、バンドを組むか入ったりしたら、俺、ツアーで京都へ来るよ」
何一つ根拠のない、ただの思いつきだった。
そして、旅行から帰って数日後、前年11月の横浜市立大学大学祭でそのライブを体験した、宮沢正一&ザ・ラビッツの女性ベーシストCIさんから電話があった。
「ギターが抜けちゃってさ、井上君、ギターで入ってくれる?」
その時点で決まっていたスケジュールは、4月のデモテープのレコーディングと、ゴールデンウィーク前半の、名古屋・京都・大阪・奈良の5ヶ所のツアーだった。
京都では蔵を改造したラ老舗ライブハウス「拾得」と、京都大学西部講堂。ツアー最終日は東京へ帰ってきて後楽園ホールで、徳間の2ndアルバム『虫』発売記念ツアー初日のザ・スターリンのフロントアクト(前座)。
俺は「いいよ」と答えた。CIさんは前年(1982年)の夏、LOSEが南青山の小さなライブハウスに出演したときに対バンしたバンドのベーシストだった。横浜市立大学のライブのとき、俺は気づかなかったが、すでに宮沢正一&ザ・ラビッツに加入していたのだ。
CIさんは、女子美の附属高校の3年生になったばかりの女子高生ベーシストだった。
19.「名古屋の客は過激ですからね」(4年生)
立川のスタジオでのメンバーとの顔合わせセッションの後、俺は宮沢正一&ザ・ラビッツに加入した。あの宇宙的なギターサウンドは、宮沢さんが貸してくれたYAMAHAとBOSSのエフェクターを使い、いとも簡単に完成した。
このバンドは、当時、シーンに溢れかえっていた、ただのノイズバンドではなかった。ビートルズの影響も強かった宮沢さんは、ビートルズ風の曲も書いていた。
神奈川県伊勢原市でのデモテープレコーディングでは、初心者の俺は苦心惨憺、ミキシングのとき、深いエフェクターをかけてもらうことで胡麻化して、いや、フォローしてもらったという不甲斐なさ。
その音源は、2000年代になってからインディーズレーベル「いぬん堂」さんからCD化されたが、令和の時代になってから、オリジナルのカセットテープ『xⅠ』が、10万円の値でメルカリに出品されているのを見た。


デモテープのレコーディング後、バンドは横浜・石川町など2ヶ所のライブハウスでザ・スターリンと対バンした。
ギター(良次雄)とドラムス(中村達也)が新メンバーとなったザ・スターリンは、2ndアルバム『虫』発売ツアーのため、バンド名を隠した覆面バンドで、ライブごとに「牛」とかテキトーなバンド名を名乗っていた(雑誌『ぴあ』にもその記載)。だからザ・スターリンのファンがライブに来ることはなかった。全国ツアーに向けての、ライブハウスでの練習だった。
4月下旬、宮沢正一&ザ・ラビッツのメンバー4人とマネージャーのKさんを合わせた5名は、新横浜駅での待ち合わせの後、東海道新幹線「こだま」で名古屋駅に向かった。
名古屋の「ELL(Electric Lady Land)」でのリハーサル後、ELLのスタッフの一人が、俺たちを脅すかのようにこう呟いた。
「名古屋の客は過激ですからね」
ところが本番がスタートしたら、客は10名にも満たず、皆、静かに座っていた。
20.「Oh!アリマセントウ!」(4年生)
翌朝、名古屋から国鉄(当時)東海道本線の各駅停車に乗った俺たちは、2泊目以降、宿泊することになっていた京都への移動を開始した。車窓から佐和山城址などを眺めていた、このツアー唯一の、のほほんとした旅だった。
京都の宿は烏丸御池の室町通沿いの「ポレポレハウス」という変な名称の宿泊施設だった。2段ベッド2台の4人部屋で、素泊まり1人1泊500円という安さ。俺達もそうだったが、京大西部講堂のイベント参加のため、東京から来たいくつかのバンドのメンバーもいた。ここに宿泊している間、京都で2ヶ所、大阪1ヶ所(対バンは少年ナイフ)、奈良1ヶ所(対バンはイル・ボーン)で演奏する予定だった。
「ポレポレハウス」の主な宿泊客は、海外からの長期滞在観光客だった。共同のバスに残っていた体臭がキツかったので、俺は銭湯を探し始めた。「ポレポレハウス」の玄関口で自転車を降りた若い白人男性が、俺に声をかけてきた。
「オトーモダチ、探シテルンデスカ?」
日本語の会話ができるだけでなく、とても気さくそうな白人男性に俺はこう問うた。
「このあたりに、銭湯ありますか?」
男性は嬉しそうに答えてくれた。
「Oh!アリマセントウ!」
(なんだ! ないのか? それにしてもこの駄洒落、変な外人だな……)
ところが、それは俺の誤解だった。よくよく話を聞いてみたら、「有馬湯」という銭湯が徒歩3分のところにあったのだ。彼は「有馬湯」のことを「有馬銭湯」と呼んで俺に教えてくれたのだ。
21.「葬式みてぇだな?」(4年生)
京都大学西部講堂のイヴェントでの俺達の出番は夕方だったが、リハーサルは午前中の早い時間に終わってしまった。楽屋らしいところといえば、屋外に出されていた机と椅子だった。俺が一人でそのスペースに行ったところ、s-kenが一人で座っていた。ステージではあるバンドの本番演奏が始まっていた。
その演奏を聴きながら、s-kenは俺にこう言った。
「葬式みてぇだな?」
俺はs-kenのステージを観たことはあったが決して明るくはなかった。が、1983年リリースのアルバム『ギャング・バスターズ』はたしかにやたらと明るい曲ばかりだった。
それから昼食後だったろうか? まだ出番には数時間がありすぎたので、一人で吉田山を歩いていたら、すでに出番を終えていたイル・ボーンのギタリストで、俺の1年先輩のHIさんとばったり出会った。HIさんは三十三間堂に行ってきたとのことだった
22.「京都は、田舎ですから」(4年生)
本番の演奏では、また一人で足を引っ張ってしまって、宮沢さんには申し訳ないとしか……。
その日のイヴェント終了後、近くの中華料理店で、バンドメンバーはイヴェント主催団体(ビート・クレイジー)の一人である篠田さん(ザ・コンチネンタル・キッズのメンバー)とご一緒した。篠田さんはほとんど宮沢さんとのみ話をしていたが、篠田さんの一言だけ、俺の記憶にこびりついていた。
「京都は、田舎ですから」






23.「ダッセー」(4年生)
京都での宿泊中、関西最後の奈良「ビバリーヒルズ」出演前日の土曜日は、唯一のオフ日だった。メンバーとマネージャーは各々別行動をとることになって、俺は嵯峨野に行ってきた。
夕食後は5人で「ベストヒットUSA」を観ていた。「Hungry Like The Wolf」だったろうか? Duran Duranのビデオが流れると、女子高生ベーシストのCIさんは喜んだ。ベーシストのJohn Taylorが大好きだったらしい。
すると、宮沢さんが言った。
「ダッセー」
もちろん、それからCIさんと宮沢さんの間で、収束することのない議論が続いたが。やはり番組で流れていたU2の「NEW YEAR’S DAY」に対する宮沢さんの評価は高かった。遠藤ミチロウと同じく宮沢さんも東北出身で、アイルランドへの親近感があったから、という理由ではなかったようだが。
この夜の議論をきっかけに、俺はU2のファンとなった。さらに宮沢さんとともに遠藤ミチロウさんも評価していたらしい(?)、新進作家だった高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を買って読んだのも、それまで読んだことのなかった吉本隆明の本を読むようになったのも、この夜の議論がきっかけだった。
24.「ステージではね、スターリンファンのツバを浴びまくるからね!」(4年生)
ツアーの最終日は5月2日、東京の後楽園ホール。こちらは最終日で、あちらは2ndアルバム『虫』リリースのツアー初日。
早朝、京都駅から新幹線「ひかり」で俺たちは東京駅へ向かい、昼頃に後楽園ホール入りした。楽屋はやたらと広く、ザ・スターリンと一緒だった。
それまで対バンしたザ・スターリンは覆面バンドだったのでファンは皆無だったが、前年の横浜市立大学の学祭のようなザ・スターリンのファンの前での演奏経験のあるCIさんはこう言った。
「井上君、ステージではね、スターリンファンのツバを浴びまくるからね!」
ところが、スタート時間となり客電が落とされ、真っ暗になった瞬間、夥しい爆竹と会場のパイプ椅子がステージに投げ込まれ、俺たちはとてもじゃないがステージに出るどころではなくなった。
以下、雑誌『ロッキンf』第8巻第7号の高橋竜一氏のレポートを引用する。
開演予定時間は、午後6時30分。サポーティングアクトとして、ラビッツがそのころ舞台に上がるはずだった。
ショーは予定された時刻よりも早く始まった。といっても、ラビッツが登場したわけではない。
ステージの袖で、その光景を呆然と眺めていた俺に、神奈川大学の学生でこの日、ステージ周りのスタッフだったA君が、ステージにセッティングされていた俺のエフェクターボードとシールドコードを抱えて持ってきてくれた。
爆竹とパイプ椅子が投げ込まれるステージ上から、身を挺して持ってきてくれたのだった。今になっても、そのときA君にきちんと礼が言えたのか覚えておらず、気にかかっている。
「出られなかったね……」
自身が怪我をしていたかもしれなかったのにも関わらず、A君は俺を慰めるような口調でこう言ってくれた。A君はその数年後、アンジーというバンドのオフィス「バンビミュージック」の社長となられた。
A君以外にも、当日になって俺がその存在に気がついたスタッフは他にもいた。俺たちと同じ京大西部講堂のイヴェントに出演していたコンクリーツというバンドのフロントマンの清水さん(ラビッツのマネージャーのKさんは〝しみちゃん〟と呼んでいた)は、白いタオルで口を覆って、大型スピーカーを裏で支えていた。
結局、俺は、スターリンファンのツバを浴びることはなかった。
今となってはどうでもいいことだが、当日、なぜステージにパイプ椅子など出されてていたのか? 疑問といえば疑問だった。

25.「なんで、チューニングしなかったの?」(4年生)
5月2日、幻の東京の後楽園ホールライブの後、俺は宮沢正一&ザ・ラビッツを辞めることにした。
最後のライブは5月のある土曜日の午後、白山の東洋大学でのイヴェントだった。対バンはアレルギーと、ユニット名は忘れたが〝文化服装系〟の女性が数人いたバンドだかユニットだった。
アレルギーのベーシストのU子さんは、ラビッツのベーシストCIさんと仲が良く、西池袋の「Walkin' Jap」部室に遊びにきてくれたこともあった。
リハーサル後、時間があったので俺は独りでギターを弾いたり、学内を徘徊しつつ生協で卒論のための参考書を買ったりしていた。
俺たちの出番はアレルギーの後だった。自分最後のステージだというのに、俺はギターの弦を切ってしまった。スペアのギターを持ってきていなかったし、その場で弦を張るわけにもいかず、アレルギーのギタリストの小野さんのテレキャスターを貸していただいた。気持ちが昂っていた俺は、小野さんから借りたテレキャスターをきちんとチューニングせず、演奏を始めてしまった。
本当にしょーもない俺だった……。
終演後、宮沢さんから一言だけこう言われた。
「なんで、チューニングしなかったの?」

26.「宮西さんのシングル買ってください」(4年生)
同じ5月の下旬、ある曇り日の午後、「Walkin' Jap」部室に行ったところ、T氏が小柄で眼鏡をかけた、いかにもアーティスト風な男性を連れてきていた。その男性が赤田君だった。赤田君は、宮西計三のバンド「Onna」のマネジメントを担当しているとのことだった。
宮西計三というイラストレーターは、ザ・スターリン最後の自主制作アルバム『トラッシュ』のジャケを描かれた方であることは、俺も知っていた。


そして、赤田君は宮西計三さんのバンド「Onna」のシングルを買ってくれるよう、俺に頼んできたので、俺は快く応じた。


赤田君が印象的だったのは、彼が付属の立教高校出身ということだった。同校出身者は、近くにあった慶應志木高校と同様、高校時代から大学生のような生活を送っており、進学後は「R」のスタジアムジャンパーを着た、シティボーイの遊び人がほとんどだったからだ。
そうは言っても、大学の先輩にあたる佐野元春、ルー大柴、そして高校まで立教高校だった高橋幸宏といった方々は、親御さんが企業経営者で、金回りのいい小金持ち(失礼!)だったが。 とにかく、(こんな人もいるんだ……)と以外に思った印象が強かった。
赤田君とはそれ以来、会うことはなかったが、90年代に入ってからだったか? 『磯野家の謎』界隈の話や、雑誌『Quick Japan』の編集長になられたことを知ることになった。
27.「いやぁ、悪りぃーねぇ!」(4年生)
夏になった。タッカーギグからほぼ1年後の83年7月2日。
この年も「Walkin' Jap」主催のイヴェントを開催することになった。
言い出しっぺは俺より1年か2年後輩だったM氏。M氏は「Walkin' Jap」以外にも、プロデュース研究会とか普通の学内サークルにもいた(?)ようだった。
M氏はじゃがたらと密な関係だったようで、5月に発売されていた『家族百景』という45RPMのレコードを売り歩いていたので、俺も買った。


タイトル曲の「家族百景」は筒井康隆の『家族八景』のパロディで、現代社会・家族に対するスパイシーな風刺曲。(とっても文学しているな)と思った。「日本株式会社」という曲では、連続射殺魔というバンドの和田哲郎のジミヘンばりのギターと、町田町蔵のお下品極まりない最低の語りが、絶妙な空気感を醸し出していた。
だから当然、じゃがたらがメインアクトとして出演したわけで、他の出演バンドは、町田町蔵、爆風スランプ、LOSE(前年秋に俺は脱退)だった。
「Walkin' Jap」では最大の業界人脈を誇っていたT氏が、大阪から上京した町田町蔵のマネジメントと生活環境の支援をしていたこともあり、イル・ボーンのドラムスのM先輩(「Walkin' Jap」の中心メンバーだったが別の大学生)が、フナだったか人民オリンピックショウだったか忘れたが、町田町蔵のバンドでドラムを担当していたこともあったようだったが、この日、叩いていたかどうか、俺は憶えていない。
俺はイヴェント当日、機材運搬などのスタッフを担当していた。
メジャーデビュー前ながら、マスコミに露出していた爆風スランプは、まだ固定客が少なかった。リハーサルでは「東の島にコブタがいた」をとても真面目に演奏していた。本番までの空き時間、本館と第一食堂の間の「四丁目」という広場のベンチには、ベーシストの江川ホージンがナンパしたのだろうか? 女子学生といい雰囲気で並んで座っていた。
このイヴェントでM氏は、「立教大学プロレス研究会」とのコラボを企画した。その企画が「いかにも学生っぽい」ということで、明治大学や駒澤大学など、パンク・ニューウェーブ系イヴェントを企画・展開していた学生団体の人達から批判されていたらしい。「らしい」というのは俺が直接聞いたわけではないからだが、〝インディーズ史上最悪の企画〟とまで酷評されていたそうだ。
本番では、町田町蔵のバンドの演奏中、客が爆竹を鳴らしたところ、たまたま俺の横に立っていた初老の警備員さんが激怒した。
終演後、夜になってから、1年前の「タッカーギグ」で一緒にサラ金に広告取りに行った先輩と2人で、日本酒の一升瓶を持ってタッカーホールの警備員室に行った。すると、あれほど爆竹に激怒していた初老の警備員さんは、満面の笑みで喜んでくれた。
「いやぁ、悪りぃーねぇ!」
28.「千円あげますから、サインしてください」(4年生)
T氏がマネジメントしていたこともあり、町田町蔵が「Walkin' Jap」の部室に来たことがあった。といっても、俺はその場に居合わせなかったので、町田町蔵と会うことはなかった。
だから、これは俺が4年生の時の1年生だった後輩からのまた聞きだ。
その後輩は町田町蔵にこう言ったそうだ。
「千円あげますから、サインしてください」
町田町蔵はサインをしてくれたそうだ。俺はその場にいなかったので本当かどうかわからないながらも、うそをつくような後輩ではなかったことだけは確かだ。
29.「それ、ビニール?」(4年生)
俺が地元の国鉄(当時)操車場で夜間のアルバイトをしていたことはすでに書いたが、同期で同じ中学校だったTT君(高中正義の「BLUE LAGOON」を完全コピーしていた人)には、YT君という中学と高校の1年後輩の男がいた。
YT君は、中学では俺の1年後輩だったわけだが俺は知らなかった。ちなみに俺が2年生のときに組んだ人生最初のバンドのドラムスだった明治大学のYO君(ドラムは上手かった)とYT君は中学の同級生で仲が良かったそうだ。俺の同期のTT君とその1年後輩のYT君が通っていたのは、東京都杉並区の専修大学附属高校。バイト仲間でソフトボールをやったとき、TT君はYT君を誘ったようだったが、結局来なかった。
ところで、7月のタッカーホールのイヴェントが終わってから俺は、「Walkin' Jap」のメンバーではなかものの、じゃがたらが大好きだったHという俺と同学年で経済学部の男性ベーシストと、じゃがたらのようなファンクバンドを組もうということで意気投合した。
そして、Hが楽器店の掲示板に貼った「ヴォーカリスト募集」のチラシを見て、Hに電話してきたのが、TT君の後輩のYT君だったのだ。こんな偶然があるのもこの世なのだろう。そしてHは都合が悪かったので、俺が一人でYT君と都内の楽器店で会うことになった。YT君とは一度も会ったことがなかったので、バイト先では、中学の後輩たち数人からYT君についての情報収集をした。
待ち合わせ当日、都内の楽器店に行った俺は、あの何度もバイト先の同輩・後輩たちの間で名前が出ていたYT君と初めて対面した。1年後輩であるYT君はため口だったが、それは、自らをロッカーとして演出する態度だと見抜けたので、気にはならなかった。
真夏にも関わらず、Punks気取りだった俺は、下北沢「ジーンズメイト」で買った3万円のブラックレザーのライダースジャケットの下に、Tシャツ。ボトムスは、ブラックスリムにブラックのコンバースオールスターといういでたちだった。
俺のライダースジャケットを指差して、YT君は言った。
「それ、ビニール?」
そう言われても俺は気分を害さなかった。だが、内心、こう思った。
(この人、根はとてもいい人なんだろうけど、距離を置いて付き合ったほうがいい……)
さらに、直感でこうも思った。
(この人、俺と同じB型に違いない)
幸か不幸か、その後、互いの距離を測りながら付き合う機会のなかったYT君は、その数年後、レッド・ウォーリアーズでデビューすることになるダイアモンド☆ユカイだった。デビュー後、彼のプロフィールを眼にした俺は合点がいった。
やっぱりB型だった。
30.それから(4年生)
結局、Hとのじゃがたらのようなバンド結成の話は流れ、俺はバンドをやらないまま卒業することになった。
1983年当時、まだ就職戦線はのんびりしたもので、4年生の夏休み前に就活を始めるのが一般的だった。さらに文学部の学生の就活はもっと遅かった。俺のいた日本文学科では、「卒論が最優先で、就職はその次」という不文律があった。結婚式の招待状を貰っても、卒論を書かなかった学生なら絶対に行かない! と主張する教授さえいた。
なので俺も4年生の10月1日にスーツを着て会社訪問を始めたところ、「Walkin' Jap」のメンバーではなく、学内の演劇サークルの連中から、裏切り者呼ばわりされ、夥しい非難の言葉を浴びることとなった。
演劇サークルの連中とは、学校の東側にあった超アングラな居酒屋『マダムシルク』でよく飲んだ記憶はあったが、なぜ、あれほど優しかった先輩や同輩の態度がコロリと反転して、俺が憎しみの的になったのか? 俺自身、憶えていないが、よほど偉そうことを言い放っていたのかもしれない。
その演劇連中の中には、中学時代の剣道道場からの友達もいたわけで、自業自得とはいえ、何とも後味が悪かった。
年が明けて1983年の1月か2月? ふとしたご縁で「Walkin' Jap」のメンバー全員が、s-kenを囲んで浅草の神谷バーで飲むことになった。
電気ブランを含めて6種類のカクテルをチャンポンした俺は、帰りの東北線(当時)各駅停車車内の扉前で一瞬、座り込んでしまった。周りに立っていた人達が実に美しく、俺の周りからサーっと離れた光景を俺は、幽体離脱をしたかのような〝自分の外〟からの眼差しで認識していた。幸い、醜態を晒すことなく無事、帰宅することができた。
31.総括
で、結局、その4年間って、どうだったのか?
しんどかった。
「お前、そんな恵まれた環境で、何、贅沢なこと言ってんだ!」
そう呆れる人は少なくないとは思うが、誕生から今日までの環境は、他の誰でもない、俺固有の環境なんだから仕方がない。
自分には向いていなかったからこそ逆に、拘りに拘って求め続けてきた楽器を演奏する、音楽を創るというフィールド。
今になって顧みると、楽器を弾き始めてから、あれよあれよという間に、俺を馬鹿にして苛んできたきた先輩たちとツアー先で対バンしたのって、無意識による〝引き寄せの法則〟とやらだったと思う。
しかし、著しく低い表現能力と、表現したいことが不明瞭だったという〝不全感のオーラ〟に覆われたまま〝実現されてしまった願望〟は、理想と現実の深いギャップしか、俺にもたらしてはくれなかった。
そんな〝不全感のオーラ〟に覆われたまま、俺は一度も結婚せず、長い年月を生きてきた。
失恋の痛手で、1日中雨戸を開けず自室に引き籠っていた成人式の日。
PANTAの「明日天気になーれ」の詞と曲が、俺の無意識の領域で消えることのない〝染み〟となってこびりついた。
そして俺がこの曲を演奏しながら歌うようになるまで、三十数年という時の経過が必要だった。この曲をカバーし始めてから数年後、オリジナルの曲と詞がボコボコと噴出し始めたのだから、つくづく訳のわからん人生だ。
了
《歌詞引用》
「明日天気になーれ」(作詞・作曲:中村治雄)日本音楽著作権協会 作品コード 001-4863-6
