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見沼の龍と香車伝右衛門

あらすじ

武田家家臣として信玄・勝頼の二代に仕え、1582年の武田家滅亡後は徳川家家臣となり、1624年に81歳の生涯を終えた初鹿野伝右衛門昌久はじかのでんえもんまさひさ
武田家滅亡時の人生選択の葛藤を乗り越えた、伝右衛門の生涯を描きました。
豊臣秀吉による徳川家康の江戸配置換え後、現在の埼玉県さいたま市にあった「土呂陣屋」に居を構えた伝右衛門。
今も伝承として残る「見沼」(徳川吉宗による干拓以前は広大な沼)の龍神伝説と絡めました。
結果が重視されるのは、戦国時代も現代も変わらないかもしれませんが、「結果よりも生きた過程も大事なんじゃないか?」という人生観を、伝右衛門は大坂夏の陣で死を目前にした真田信繫(幸村)に説きます。
私のペンネーム「香車伝」の由来の処女作です。

*この作品のボリュームは、400字詰め原稿用紙換算70枚ほどです。
お時間のある折、ごゆるりと読んでください。

あらすじ

♫さあ 天まで昇ろう
 すべて真夜中のせいにしてしまえ
 月よ お前が悪いから

1.長篠・設楽原からの敗走

天正三年(一五七五年)、旧暦五月二十一日の午後だった。
空は晴れ、地面や草木から湧き上がる湿り気を含んだ熱気の中、武田四郎勝頼と側近の初鹿野伝右衛門昌久はじかのでんえもんまさひさ、土屋惣蔵昌恒そうぞうまさつねの三人は、奥三河の長篠・設楽原を後にして、まずは信濃を目指し、ひたすら馬を走らせていた。

馬上の初鹿野伝右衛門昌久は心の中で毒づいていた。

(まったくよ、負け戦のうえに、こう暑くっちゃたまんねぇや・・・)

伝右衛門は、設楽原での徳川家康と織田信長連合軍への敗北の衝撃よりも、背負っている荷物が重いのと、全身から噴き出る汗が煩わしくて仕方がなかった。

武田信玄の遺言により、風林火山の御旗を使うことを許されなかった武田勝頼は、せめて亡き信玄の諏訪法性の兜ぐらいはといくさのたびに持ち運び本陣に飾っていた。伝衛門はその兜が重くて仕方なかったのだ。

「お屋形様! この法性院様(武田信玄)の兜ね、重くってしょうがねぇですよ。このままじゃとても逃げ切れねぇし、この辺りに置いてっちゃっていいですかね? たぶん、後から来る誰かが拾ってくれますって・・・」

伝衛門は勝頼に嘆願した。

「好きにすればいい・・・」

勝頼はそう答えるのがやっとだった。

信玄の没後、勝頼との関係がうまくいってなかったとはいえ、最強といわれていた武田軍団の譜代家臣の多くを失い、まさかの総崩れに追い込まれ、みじめにも敗走せざるを得ない我が身の運命を受け入れることのできない勝頼にとって、亡父信玄の兜など今更どうでもよかった。

「後から来て拾うのが、敵でなければいいんですけどねぇ・・・」

たしなめるような視線を伝右衛門に送りながら、土屋惣蔵昌恒は言った。
後になってわかったことだが、設楽原に残していかざるを得なかった勝頼の愛馬は、織田信長の手に落ちていた。
このとき勝頼が乗っていたのは、自らの命と引き換えに勝頼を無事に逃がす時間を稼いだ馬場美濃守信春が、自らの軍団から差し出した馬であった。

勝頼は三十二歳の伝右衛門より三歳年少だった。
土屋惣蔵はさらに若く、まだ十九歳ながら、しっかりとした若武者だった。
気の短い伝右衛門も、相性が悪くはなかったのだろう、年少の惣蔵にはどんな皮肉を言われても、不思議と腹は立たなかった。
一人、馬を停め、道端に兜を置いた伝右衛門は、兜に向かい両手を合わせた後、すぐに馬を走らせ勝頼と惣蔵に追いついた。

勝頼一行が当初、足を休めるつもりでいた田峯城では、菅沼定直をはじめとする留守居方が早々に徳川・織田方への寝返りを図り、勝頼一行の入城を拒んだ。
身の危険を感じ、かろうじて難を逃れた三人は、さらに北方、三河の国の最北、緑に覆われた山城の武節城に入り、やっと疲労困憊の体を休めることができた。

それから信濃に入り、伊那の高遠城に入った時には、続々と落ち延びてきた家臣団と合流した。
ここまで来れば、かつての高遠城主の勝頼をはじめとした一行は、ようやく安堵することができた。

伝右衛門が途中で捨ててきた諏訪法性の兜は、小山田弥助という伝右衛門より年少の小山田衆が拾ってきたことを伝右衛門たち三人は知った。

清和源氏の血をひく初鹿野家を継いだ伝右衛門だが、元は都留郡の上野原城主加藤虎景の六男。加藤家中の者は、北条氏との国境に近い郡内(ぐんない)の国人、小山田衆の面々とは懇意の仲であり、伝右衛門と弥助もその例にもれなかった。

高遠城内で小山田弥助を見つけた伝右衛門は早々、弥助に声を掛けた。

「おっ!  弥助! 諏訪法性の兜、お前が拾ってくれたんだってな?」

「伝右衛門様がお持ちのはずなのにおかしい、きっと何かあったに違いないと思い、拾った次第でございます」

寡黙で実直な弥助の答えは、伝右衛門にとって〝模範解答〟だった。

「いやぁ、すまん、すまん!」

ずんぐりむっくりした体型の弥助の肩に腕を回した伝右衛門は、さらに続けた。

「まあ、あれだよ、あんときはあまりに暑くってな、お屋形様(勝頼)の許可をもらってな、仕方なく置いてきちゃったわけよ。でも今、冷静になってみると、お前が拾ってくれて、心底、助かったと思ってるんだ!」

「と申しますと?」

「いや、ついさっきな、上杉への牽制のため今度の戦には参加せず、信濃の深志城に残っておられた高坂弾正様がこの高遠にお着きになったんだよ。もし諏訪法性の兜を俺が放り出してきたと知ったら、あのうるさい弾正からどんな仕打ちを受けるか? と考えたら、弥助には頭が上がらんというわけよ、ウッハッハッハッ!」

高坂弾正昌信こうさかだんじょうまさのぶは、今回、長篠・設楽原で討死した山県昌景、馬場信春、内藤昌豊とともに〝武田四天王〟と呼ばれていた名将だが、三将の討死により、ただ一人の生き残りとなってしまった。
〝武田四天王〟とはいっても法性院(武田信玄)時代のことである。二年前の信玄逝去後、武田家の正式な後継ぎではないものの、実質的な大将の役を担わねばならなかった勝頼と、信玄時代の〝四天王〟をはじめとした武断派譜代家臣との関係は決して良好なものではなかった。

そんな〝武田四天王〟の中でも高坂弾正は、信玄との人間関係も濃厚だったこと(若衆道)もあり、武田家のためには自らの命も顧みない〝うるさ型〟の姿勢を崩すことなく、勝頼に対しても他のどの家臣に対しても容赦はなかった。

まだ吟味が十分ではないとはいえ、高坂弾正がいち早く分析した武田軍敗戦の最大の要因は穴山玄蕃守信君げんばのかみのぶただと武田信豊のぶとよの敵前逃亡、つまり勝頼の許可を得ず、勝手に撤退したことであると結論づけ、武田家親族衆のこの両名に切腹を申し付けるべし! と息巻いていた。

後年、長篠・設楽原での武田勝頼の敗因は、織田信長が調達した大量の鉄砲と、馬防柵・堀・土塁というのが定説となっていったが、武田方の戦死者の大多数は、鉄砲による被弾よりも、敵に後ろを見せながら敗走する途上で命を落としたとの説が有力となっている。

(ご親族衆の処罰をお屋形様に注進するぐらいだから、もし諏訪法性の兜を捨てたのがバレたら、俺なんざ、その場で一刀両断に首を刎ねられていたかもしれん・・・)

信濃の深志城から伊那の高遠城に出向いてきた高坂弾正は、勝頼をはじめとした武田の軍勢のみじめないでたちをひたすら嘆いた。
武勇にひいで勝気な勝頼も、まさかの敗戦によるダメージが大きく、高坂弾正に反論するだけの気力は湧いてこなかった。

「お屋形様、そんな無様な身なりで府中(甲府)に帰還したら、下々の者までがどう思うか想像できますか!?」

高坂弾正は続けた。

「お屋形様と側近の者どもには、この私が持ってきた武具と旗指物をつけさせなさい。さすれば少なくとも〝敗軍〟には見えません!」

さらに弾正は、勝頼はじめ一同が驚くほどの大声をあげた。

「皆の者! よーく聞けええええぇぇぇぇ! 隊列の先頭には、諏訪法性の兜を高々と掲げ、堂々と躑躅ケ崎に帰っていくのだ! よいなああああぁぁぁぁ!」

心底、(助かった!)と胸をなでおろした伝右衛門は、心の中で弥助に手を合わせた。

2.〝香車伝右衛門〟の誕生

長篠・設楽原の戦からほぼ五十年の歳月が流れていた。
ときは寛永元年(一六二四年)。八十一歳となった伝右衛門は、自らの死期が間近なことを感じていた。

深まりを増す秋の夜、武蔵国足立郡土呂村にある伝右衛門の土呂陣屋(陣屋とは小規模な城のこと)。その東側に見える大和田陣屋の方向、南北に広がり滔々と水を湛えた見沼の黒い水面を眺めていた伝右衛門は、あまりに長く生き過ぎた自らの人生を振り返っていた。

伝右衛門が生まれたのは天文十二年(一五四三年)である。
甲斐国は都留郡の上野原城主、加藤虎景の六男で幼名は弥五郎といった。
永録四年(一五六一年)、第四次川中島合戦で、武田家譜代の家臣、初鹿源五郎が討死すると、武田信玄は十八歳の加藤弥五郎に跡を継ぐことを申し付けた。
初鹿野伝右衛門昌久の誕生である。

伝右衛門は戦場(いくさば)では百足(むかで)を描いた旗指物を背負い、大将の指示を各武将に伝える使番(つかいばん)、つまり伝令の役目を担っていた。
武田家中では百足衆(むかでしゅう)と呼ばれており、将来を嘱望されたエリート集団であった。

そんな伝右衛門であったが、やはり百足衆としての役目を粛々とこなしていく実直な小山田弥助とは違っていた。
出世するには少しでも頭角を現わさなければ! と目立つことに血眼になっていたのが伝右衛門の青春時代であった。

永録十二年(一五六九年)、小田原まで進軍し、北条と戦った三増峠の戦いでのこと。
伝右衛門は、背中に将棋の駒の「香車」と書かれた陣羽織を着ていた。
伝右衛門と歳が同じであるばかりではなく、目立ちたがり屋の性格までよく似た上州出身浪人衆の那波無理之介(なわむりのすけ)が伝右衛門に絡んできた。

「伝右衛門さ、香車ってのはよぉ、真っ直ぐにしか進めねぇんだよな? それなのにお前はさ、なんで敵陣から戻ってきちゃったわけ?」

(待ってましたぁ!)とばかりに伝右衛門は、陣羽織を脱いで裏返しそのまま羽織った。
裏返されて表になった陣羽織の背中には「香車」の文字の代わりに「金」の文字が仰々しく書かれていた。

「俺はな、金に成り代わってだな、戻ってきたわけよ!」

伝右衛門は得意げに「ワーハッハッハァー」と笑った。

(まったく、口先だけは達者な奴!)

無理之介はただ苦虫を嚙み潰すばかりであった。
伝右衛門が〝香車の伝右衛門〟と呼ばれるようになったのはそのときからだと伝えられている。

翌年の永録十三年(一五七〇年)一月。武田の軍勢が、今川方の小原鎮実が守る駿河花澤城を攻めていたときのことだ。
このときも伝右衛門は、浪人衆の那波無理之介と同じく武田勝頼の陣に加わっていた。

〝武田四天王〟のうち最も武勇と戦術に優れ、軍団の鎧と兜を朱塗りで統一(赤備え)、味方には最も畏れられ、敵からは最も怖れられていたのは山県昌景だ。
その山県昌景から、武勇に優れていると高く評価されていたのが那波無理之介だった。
当然、伝右衛門はおもしろいわけがない。それどころか敵愾心の炎をメラメラと燃やしていた。

小原勢は、天然の要害である山城である花澤城に籠り必死に抵抗していた。
堀の上からは、矢だけでなく石や熱湯が攻め手の武田方を襲っていた。
伝右衛門は無理之介にこう叫んで挑発した。

「いいか! 先にこの曲輪を突破したほうが勝ちだからな!」

しばらくして伝右衛門は曲輪を突破した。いくら無理之介でもそんな無謀なことには躊躇するばかりだった。まもなく敵将の小原鎮実が城を脱出し戦は終わった。

武田勢が勝どきをあげた直後、伝右衛門は、やはり武田勝頼の軍に加わっていた小山田弥助たち数人を使嗾し、無理之介の体を抑えつけさせた。

「何すんだよ!」

突然の暴挙に怒りをあらわにした無理之介に、伝右衛門は勝ち誇りつつ言い放った。

「先に曲輪を突破した俺の勝ちだ。お前は無理を通すから無理之介と名乗っているようだが、とんだ臆病者だよなぁ・・・。だからそんな縄で作った陣羽織を着るこたぁ、金輪際、俺が許さん! で、この俺が貰ってやるわ! ワーッハッハッハッハッハ!」

伝右衛門は弥助に抑えつけられた無理之介の縄の羽織を奪った。

その日の夜、弥助たちと上機嫌で夕餉の席にいた伝右衛門を、武田勝頼側近の長坂釣閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつかた)が呼び出した。
このときから三年経った武田信玄逝去の後、正式な武田家後継者の信勝(勝頼の息子)が成人するまでの間、武田家を率いることとなった勝頼は、武断派の〝四天王〟をはじめとする譜代の家臣団を遠ざけ、文治派の側近で周りを固めることになる。
長坂釣閑斎と跡部大炊介勝資(あとべおおいのすけかつすけ)の二人が最も重要な側近となった。

武田家が勝頼の代となってからの軍議の席で、〝四天王〟の一人であった内藤昌豊と戦略上のことで口論となり挑発した釣閑斎は、すんでのところで昌豊に斬られそうになった。
昌豊を必死になって止めたのは〝四天王〟のうちの三人、山県昌景、馬場信春、高坂昌信の三人だ。
そんな文治派筆頭格の釣閑斎が、荒武者気取りの伝右衛門のことを快く思っているわけはなかった。

「伝右衛門、お前いくつになった?」

「は? 二十七でございますが、それが何か?」

釣閑斎は続けた。

「あのなぁ、もう二十七なら、いいかげん大人になってもいいんじゃないのか? かりにも甲斐源氏の初鹿野家を継いでから十年近くになるんだろうが。無理之介から奪ったという陣羽織な、誠意を込めて謝ってから返してやりなさい、と勝頼様が仰せだ。お屋形様(武田信玄)のお耳に入らぬうちにな・・・」

(無理之介の野郎! 四郎にチクりやがったな・・・)

やっと事情がのみ込めた伝右衛門であった。

釣閑斎はさらに続けた。

「浪人衆はな、お前や俺のようにお家がある身でない分、命知らずの働きで身を立てるしかないわけで、お屋形様もいたく重用されておる。浪人衆の立場を思い遣るのが大人の武士とは思わんか?」

「ウッハッハッハッ! 無理之介の、ウーッハッハッハッ! どーこが命知らずなんですかぁ? 奴が臆病者だからこういうことになったんですよ、ハハハハハ」

「無理之介が臆病なわけじゃなくてな、お前がな、馬鹿なだけなんだよ・・・」

結局、伝右衛門が無理之介に縄で作った陣羽織を返すことでことは収まった。

それから三年の後に武田信玄が逝去、五年後には長篠・設楽原で武田勝頼は織田信長の助力を得た徳川家康に敗れることになるが、浪人衆を率いた河窪信実かわくぼのぶざね(武田信玄の異母弟)の配下として鳶ヶ巣山砦に布陣していた那波無理之介は、徳川家重臣の酒井忠次率いる別動隊の奇襲を受け奮戦、見事に討死することになる。

無理之介と張り合っていた伝右衛門ではあったが、根っから憎み合っていたわけではなかったどころか、高遠城に着いてから知らされた無理之介討死の報に涙を流した。
香車と金の陣羽織、縄で編んだ陣羽織。
わりと似た者同士だった二人といえよう。

3.武田家滅亡と国玉郷

長篠・設楽原での敗北で、武田家は多くの譜代、しかも武勇に優れた家臣たちを失った。
それでも戦死した譜代の家臣の家は、後継者たちが跡を継ぎ、稀代の戦略家、真田昌幸の活躍もあり、上野で領地を拡げ、信玄も成しえなかった駿河の高天神城を落とすなど、勝頼の代で信玄時代を上回る領地を獲得した武田家であった。

しかし、拡げた領地をきちんと守ることができないと即、家臣と領民の離反を招く。
徳川の猛攻を受けた高天神城に援軍を出すこともできず落城させ、特に信濃の先方衆さきてしゅうを見殺しにしたことは、領主としての武田勝頼の威信を失墜させた。
それ以前にも、謙信亡き後、越後の上杉家の後継者争いに介入、金欲しさのため上杉景勝の側に立ち、同盟者の北条氏を敵に回してしまった勝頼への批判はくすぶり続けていた。

高天神城落城の翌年、天正十年(一五八二年)三月、伝右衛門が三十九歳のとき、武田家はとうとう滅亡のときを迎えた。
織田と徳川の軍勢を甲斐国に先導したのは、七年前の長篠・設楽原の敗戦にもかかわらず、河窪信実を除き一人として命を落とすことのなかった武田家の親族衆であった。

木曽義昌率いる木曽氏は、親族衆とはいっても、よくある縁組によって親族となっただけであり、元々武田家との結びつきが強いというわけではなかった。
そして勝頼による新府城築城において、大量の材木の供出と運搬という無理難題を押してけられ、その財政と労力の負担は限界を超えていた。

親族衆筆頭の穴山玄蕃守げんばのかみ信君は、母親も正妻も信玄の血縁で、武田家との結びつきは家中で最も強かった。
長篠・設楽原での敵前逃亡でも、高坂弾正が勝頼に進言した処罰を受けるどころか、逆に、討死した山県昌景が城代を務めていた駿河の江尻城の城代という重要な役割を与えられたほどだ。
信君は嫡男と武田勝頼息女との結婚を反故にされ、正妻とともに激怒したこともあった。

もっとも穴山氏は武田姓を名乗ることもできる家柄(穴山武田氏)で、信君は元が諏訪氏の勝頼よりも、武田家を正当に継承できることを主張していた。
その二年前の天正八年(一五八〇年)に出家、穴山梅雪斎不白ばいせつさいふはくと称していた。

信玄の時代から徳川との交渉では江尻城代の山県昌景だけではなく、身延山の北部、下山郷を治める穴山信君も有力な窓口となっていた。
駿河に最も近いという地理的な背景もあり、今川義元存命時には、今川との交渉は信君がほぼ一人で担当していた。

伝右衛門も信君とともに徳川家康や家康重臣の酒井忠次との交渉の席に列したことも少なくなかった。
信君は山に囲まれた甲斐国の一領主を越えた才覚を持っていたことを伝右衛門は熟知していた。
まず領地で金山を経営していた経済力の強さ。農業にとどまらず物産による交易で富を蓄積してきた才覚。
軍事面では火力を重視、富士川沿いに巨大な火薬庫まで構築していた先進性。
何よりも駿河江尻城代となってからは、武田家臣初の天守閣を構築しており、信君は武田家臣とはいえ、まるで織田信長子飼いの家臣のような才覚を感じさせた。

そんな合理主義の権化のような信君。
長篠・設楽原の戦場では、伝右衛門が何度も信君の陣に馬を走らせ、勝頼からの出撃命令を伝えたのにもかかわらず、恰幅のいい体躯の信君は、ギョロっとしたまなこで伝右衛門の顔を凝視するだけで、決して重い腰を上げることはなかった。
そんな信君の心持ちを伝右衛門は理解できないことはなかった。

織田信忠の先鋒と化した木曽氏に敗れ、まだ、未完成のままの新府城になんとか辿り着いた勝頼であったが、身延方面からは穴山信君が家康を案内しながら攻めてくることもあり、新府城に火をかけて、小山田信茂の岩殿城に向け敗走することとなった。

勝頼とともに郡内の岩殿城へ向かう前、妻子と領民たちに別れを告げるため、伝右衛門は甲府中心部の東側にある本領の国玉郷に寄った。
岩殿城に籠ったとしても、織田・徳川のみならず、すぐ隣の北条も攻め寄せ寄せてこよう。
いくら堅固な岩殿城でも入ったら最後、生きて城を出ることなど無理であろうことは承知していた。

新府城を出た伝右衛門は、甲斐善光寺に近い国玉郷まで馬を走らせた。
国玉郷に着いた伝右衛門は、早々に国玉郷の長老、長兵衛はじめ五人の有力者との話し合いの席を開いた。
伝右衛門は、自らが武田家の家臣であるとともに、規模は小さいながらも領主という自覚を常に忘れない男であった。
たとえわずかな領民でも、皆が飢えることなく生きていける環境を保障することは、主君への忠義に劣ることのない重要な仕事という信念を伝右衛門は持っていた。

長兵衛は、勝頼一行の逃避行に加わること当然と考えていた伝右衛門の心中を十分察したうえで、あえてこう切り出した。

「伝右衛門様、お屋形様に同行することだけは、どうかお止めいただきたい」

伝右衛門は、「この場に及んで何ということを・・・」と一度は気色ばんだものの、一呼吸おいてからこう言った。

「長兵衛、そして皆の者、言いたいことはまず聞いておこう。遠慮なく言ってくれ」

喜助というまだ二十歳になったばかりの若者が口を開いた。

「伝右衛門様、木曽様も穴山様もお屋形様を見切って、織田と徳川の軍勢の先鋒となってこの甲斐国を蹂躙するのは眼に見えてますよね」

「だから最後までお屋形様をお守りするのが、俺の使命じゃねぇのか?」

伝右衛門が、(何を今さら当たり前のことを・・・)という顔でそう答えると、喜助は続けた。

「伝右衛門様はお屋形様に殉じて忠義を果たされれば、武士の本分をまっとうされ、それでいいのでしょうが、領主の伝右衛門様が最後までお屋形様に付き従ったならば、織田と徳川の連中がこの国玉郷にどんな仕置きをするのかわかったもんじゃありません!」

長兵衛は喜助をたしなめた。

「喜助! ことばを慎め!」

喜助も負けてはいなかった。

「いや、長兵衛様だって、ここにいる皆だって同じ気持ちじゃないですか!」

長老格の長兵衛は落ち着き払って、伝右衛門にこう諭した。

「伝右衛門様、我々はたとえ領主様が変わっても生きていければそれでいいんですよ。でもね、私も皆も伝右衛門様を心底、慕ってるんです。武田の家中ではしょうもないことばかりされてきたとは聞き及んでますが、この国玉郷でのご治世には何の不平不満はありません。どうか、そのことをよく理解してほしいんです!」

「そこまで言われるとなぁ、照れるじゃねぇか・・・」

実際に照れた伝右衛門はいつものように笑おうとしたが、このような雰囲気の中、笑うことはできなかった。

「だから伝右衛門様には命を落としてもらいたくはないし、たとえ織田か徳川の支配に代わっても、ほとぼりが冷めればこの国玉郷の領主として今までのように・・・」

伝右衛門は、そこまで言った長兵衛の言葉を遮った。

「いや、長兵衛よ、織田でも徳川でもな、四郎、いやお屋形様の治世より良くなるという保証はないぜ」

長兵衛は負けてはいなかった。

「伝右衛門様、もうこんな状況だからいわせてもらいます。お屋形様はご自身の〝分際〟を越えて戦を続け、領地を拡げ過ぎたんですよ。裏切った木曽様の懲罰に失敗し、伊那、諏訪から新府城まで帰る途中、いったい何千人のご家臣が逃げ出しましたか? 岩殿城に着く頃にはいったい何人のご家臣が残るんでしょうかね?」

日頃から勝頼の傍らに仕えている自分たち家臣より、甲府で生活しながら諸国からの商人・僧・旅人からの情報に触れている長兵衛たち領民のほうが、客観的に武田家のことを観ているな、と伝右衛門は感心さえした。

長兵衛はトドメを刺すような言葉を伝右衛門にぶつけた。つい先程、喜助をたしなめた長兵衛の言動は、喜助よりはるかに手厳しかった。

「今川に攻め込まれて撃退した武田信虎公の時代と違って、いくさの規模と質は進化してるんですよ。だから、今さら韮崎の釜無川の崖の上に新府城なんか作ったところで、甲府の盆地に敵がなだれこまれた時点でもう〝はい、おしまい〟なんですよ」

伝右衛門はこんな論議を重ねても、決して生産的な結論はでないだろうことはわかっていた。

「皆のいうことはわかったよ。だけど俺がお屋形様に殉じなかったとしても、徳川はともかく、あの織田信長が俺の命を保証するとは考えられんのよ。秋山伯耆守虎繁ほうきのかみとらしげ様が美濃の岩村城を織田信忠に明け渡したとき、信長に騙されて信長の叔母にあたる奥方とともに長良川で処刑された記憶がな、この頭から離れねぇんだよ・・・」

伝右衛門は続けた。

「とにかく時間がないとはいえ、一晩だけ考えさせてくれないか? 明日の朝一番には結論を出す。あ! 俺が闇夜に紛れてここから抜け出すような男じゃないってことは皆もわかってるよな? もし心配なら一晩、俺を見張ってもらってもいいし、万が一、俺が抜け出してお屋形様のもとに走ったならば、残った妻と子供たちを殺(あや)めてもらったっていいんだぜ!」

「そんな・・・」と、あっけにとられたものの、長兵衛はじめ国玉郷の有力者たちは伝右衛門の提案を受け入れるしかなかった。

4.香車伝右衛門の決断

春の朧月の夜。鞘から抜いた銀色の刀身に映る月を眺め、伝右衛門は考え込んでいた。
大切な決断をするには一人に限る。夜に限る、月があればもっと良い。
そして、朝になっても気が変わらなければ最良の結論ということになる。
妻子のことも考えた。伝右衛門の妻は、〝武田四天王〟の一人、馬場美濃守信春の娘である。長篠・設楽原で勝頼が撤退する際、今までの戦で一度も傷を負ったことのなかった美濃守が、自らの首を敵に与えることと引き換えに勝頼一行(勝頼、伝右衛門、土屋惣蔵の三人)の退路を確保する直前のことだ。

最後に勝頼の本陣でいとまごいを済ませた美濃守は、伝右衛門の首に腕を回し、勝頼には聞かれないよう耳打ちした。

「伝右衛門、これが最後だ。よく聞いてくれ。馬場の家のことはもちろんだが、嫁にやった娘のことも頼んだからな・・・」

 伝右衛門は、美濃守から耳打ちされた言葉を思い出していた。

(もし俺がこのままお屋形様に殉じたとしたら、美濃守様から託された妻、そして子供はいったいどうなっちまうんだろう・・・)

ああでもないこうでもないと結論の出ないことにいら立っていた伝右衛門は、刀身に映る月を見て、突然〝降ってきた〟思いにハッとした。

(香車伝右衛門、まだ、金には成ってねぇんじゃねぇか?)

客観的に考えてもまず、自分が勝頼に殉じて死ぬのが、立場上〝当たり前〟のこと。
しかし、そんな〝当たり前〟の生き方と死に方を全うしたとしても、香車のままこの世を去るのはいかがなものだろうか?

(あえて〝当たり前〟の人生からヒョイと身をかわす、という生き方のほうが、へそ曲がりの俺らしい生き方なんじゃないか?)
翌朝、伝右衛門は国玉郷の有力者たちを長兵衛の屋敷に集めた。

「一晩考えたんだけどね、まず、俺はお屋形様に合流しないことに決めた」

皆、そう希望していたとはいえ、あっさりと伝右衛門がそう決めたことに驚き、どよめきが起きた。

「でもな、織田・徳川の水先案内人となった穴山梅雪が文書で触れ回っているように、連中の呼び出しに応じて出頭したところで、とてもじゃないが命が助かるとは思えん・・・」

その後、実際に呼び出しに応じて出頭した武田旧臣たちは、信玄の弟、逍遥軒信廉しょうようけんのぶかどを含め、ことごとく殺害されることとなった。伝右衛門の読みは当たっていたわけである。

「そこで、俺の家族はお前たちに任せるとして、俺は雁坂峠を越えて秩父にでも隠れることにする。梅雪の使いの者にはうまくごまかしておいてくれ。それじゃよ、くれぐれも妻子のこと頼んだぞ!」

皆があっけにとられる中、側近の薄田ら数名を引き連れ、早々に馬にまたがり北へ走り去った伝右衛門であった。

岩殿城へ向かった退路で、小山田信茂の裏切りにあった勝頼一行は、最後の地と定めた天目山の栖雲寺を目指したものの行きつくことは到底できず、途中の田野の地では、土屋惣蔵、小山田弥助を含め一行は数十人にまで減ってしまった。
織田家重臣の滝川一益らの軍勢に追いつかれ、勝頼、北条夫人、信勝の親子三人の命は尽きた。裸足になっても付き従ってきた待女たちは日川に身を投げたという。

おぼろなる 月のほのかに 雲かすみ 晴れて行衛ゆくえの 西の山の
おもかげの みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも おなじ山の端(は)」
武田勝頼辞世の句と、土屋惣蔵昌恒の返歌である。

織田の領地となった甲斐国を治めることになったのは織田家家臣の河尻秀隆であった。
秀隆の武田旧臣への探索と処罰は容赦なかった。
秩父へ逃れた伝右衛門の選択は間違っていなかったわけだ。
幸い伝右衛門の妻子に害が及ぶことがなかったのは、長兵衛はじめ国玉郷の者たちの機転によるものだった。
しかし、河尻秀隆による甲斐国の支配が続いたのは、僅か三か月の間だった。

天正十年(一五八二年)六月、京都の本能寺で、織田信長が重臣の明智光秀の謀反によって命を落とした。
信長の後継者で甲州攻めを先導した信忠も二条城で落命。
甲斐国では、それまでじっと潜んでいた山野から一斉に人里に出てきて蜂起した武田旧臣たちと領民たちの手によって、河尻秀隆は血祭りにあげられ殺害された。

一時的に無政府状態になった甲斐国であったが、滞在先の大坂から命からがら伊賀の国を越えて三河に生還した徳川家康が甲斐国に支配の手を伸ばし始めた。
伊賀越えの前に、同行していた家康一行とは別の帰路を選んだ穴山梅雪は、宇治田原で落ち武者狩りの手にかかりあっけなく落命した。

その知らせを受けた伝右衛門は、すぐに国玉郷に戻った。頼れるのは徳川家康のみ。
家康および重臣達と伝右衛門は、長年にわたり顔を合わせており、伝右衛門は家康に好かれていた。
幸いなことに、甲斐の領内ではいち早く依田信蕃よだのぶしげ曽根昌世そねまさただ駒井政直こまいまさなおら武田家の有力旧臣たちが、多くの旧臣たちを徳川家に仕えさせる工作を精力的に展開していた。

伝右衛門は早々に妻子を家康のもとに人質として送った。
そして八月、家康により国玉郷をはじめとする旧領を安堵された。
これ以降、伝右衛門は死ぬまで徳川家家臣として生きていくこととなった。
甲斐国を巡って家康は北条氏と争うこととなり(天正壬午の乱)、早々、伝右衛門も参戦した。
羽柴秀吉と、織田信雄のぶかつと組んだ家康の間で争われた小牧・長久手の戦いでは、信雄と家康は有利になるも信雄の不甲斐なさから、結局、羽柴秀吉が天下人としての道を歩むこととなった。

5.土呂陣屋と片柳村の萬年寺

天正十八年(一五九〇年)、ほぼ天下人の地位を確立した関白太政大臣の豊臣秀吉が、小田原の北条氏を攻めた。
伝右衛門は徳川家康の使番として参戦した。
信玄と勝頼の二代に仕えた武田家臣時代と変わることのない役職であった。それでも、ただの伝令役ではなかった。
甲州流軍学、武田信玄の戦略・戦術をわがものとしたい家康にとって、戦場で信玄や勝頼の傍にいた百足衆の伝右衛門の存在価値は決して小さくはなかった。

約半年間をかけ小田原城の北条氏を滅亡させた豊臣秀吉によって、徳川家康は関東に封じられることとなった。
家康の関東移封に伴い伝右衛門は、武蔵国足立郡、下総国葛飾郡・相馬郡・香取郡にて七〇〇石を下賜、武蔵国足立郡土呂村に陣屋を築き住むこととなった。このとき伝右衛門は四十七歳。

土呂陣屋はその東側に豊富な水をたたえた見沼が南北に広がり、南側には、豊臣秀吉による小田原征伐で落城した寿能城跡が、まだ痛々しい姿をさらしていた。

土呂陣屋から見沼を隔てた対岸には、北条方であった岩槻城主太田氏の家老、伊達房実が徳川に仕え、大和田陣屋を築いた。
家康としても旧北条家臣を再雇用し活用しなければならず、見沼の対岸の伝右衛門の土呂陣屋にけん制させる狙いがあったのかもしれない。

また、土呂より北方の小室こむろには、家康の近習であった伊奈忠次が一万石を賜って陣屋を築いていた。
この広大な見沼を囲む一帯が家康の関東支配において、それなりに重要であったことがうかがえる。

ちなみに三河の国出身の伊奈忠次は一時、三河一向一揆に加担し徳川家康に背いたものの、長篠・設楽原の戦で陣借りして家康に帰参していた。
もう一度、家康から離れたが、本能寺の変の際に家康の「伊賀越え」で尽力、再び家康に帰参していた。
利根川の東遷という大事業でその名を残すことになった伊奈忠次。
その次男の忠治は後に玉川上水開削の水道奉行となり、開削中に命を落としている。

土呂陣屋を気に入った伝右衛門は、暇さえあれば小舟に乗って見沼周辺を訪ね廻っていた。土呂陣屋から一里ほど南東、見沼に浮いた島の一つに片柳村があった。

片柳村にある萬年寺ばんねんじの和尚と懇意になった伝右衛門は、あたりを周り歩いた末、不思議なことに決まって夕刻になってから萬年寺に立ち寄り、夜にもかかわらず薄明かりの下で将棋を指して遊び、寺に泊まることを繰り返していた。
伝右衛門は、自分より一回り以上は年長に見える和尚とは相性が良かった。
新緑に包まれた季節のある夜のことだった。

「和尚、俺さ、一体、いつになったら、香車から金になれるんかのぉ?」

和尚はいつものように、にこやかに答えた。

「伝右衛門様、香車が裏返って金に変わるなんてことはね、ありませんよ」

「え!」と伝右衛門は一言だけ言葉を発しながらこう答えた。

「俺はね、本来なら四十歳になる直前、勝頼公に殉じて田野という所で死んでいたはずなんだよ。普通だったらね。でも、香車のままで死ぬのはいかがなもんかな? と思い直してね、主君を徳川に替えてこうして生きてるわけさ。だから、金にはなれん、といわれちゃうとね、自分の存在そのものが否定された気持ちになっちゃうんだよね・・・」

伝右衛門の愚痴を聞いても、和尚は表情を変えることはなかた。

「香車としてこの世に生を受けたからには、この世を去るまで香車のままなんですよ。人は出世すると自分という駒が反転して金になったり、桂馬、挙句の果てには飛車や角になったと勘違いするんです・・・」

「それじゃ、あのハゲネズミの藤吉郎はどうなるんかい?」

伝右衛門は素朴な疑問を和尚に投げ返した。

「太閤殿下はもともと王将として生まれてきたんですよ。わかりやすいたとえ話にするとですね、日吉丸という木片を削って磨いたら、最後に豊臣秀吉という金の駒が現われてきたとでもいいましょうか」

「そんなもんかね・・・」

「たとえ手柄をたてて出世をしたとしてもですね、変わるのは環境だけなんです。本人の本質は何も変わっちゃいない。そこを勘違いすると、あとでやっかいなことになったりするのですよね・・・」

普段はそれほど饒舌ではなく、伝右衛門の愚痴をただニコニコしながら聴いているだけの和尚は、珍しく続けた。

「人はですね、生まれる前は皆、金のような状態なんですよ。ところが金ではない生き方を体験してみたくって、伝右衛門様のように香車として生まれてきたりするんです。ま、ほとんどの人は歩なんですけどね・・・」

「とすると、俺が金になれるは死ぬとき、ということかいな? だったら田野で勝頼公に殉じて普通に死んでたほうが良かったのかな?」

和尚は、ただニコニコと笑みを浮かべるだけだった。

「和尚さ、人は死ぬとどうなるんだろうかね。人を殺すのが生業の俺は、今まで数限りなく人の死と接してきたけど、さっぱりわからん・・・。土呂陣屋を築く前のこと、潮田氏の寿能城が落城したとき、多くの女子供が見沼に身を投げたと聞いた。その後、見沼では蛍の数が驚くほど増えたとか・・・」

「ハハハハハ、そんな話もありましたよね。伝右衛門様も見沼のほとりにお住まいなんですから、月のきれいな晩にでも、龍に聞いてみたらいかがですか?」

「和尚、俺さ、真面目に聞いてんだけどね・・・」

その見沼の龍が眼の前にいることなど、そのときの伝右衛門は知る由がなかった。

それから間もなく、伝右衛門はなぜか昼前の明るいうちに小舟に乗って萬年寺を訪れた。
いつものように和尚を呼び出してもらったところ、不思議なことに伝右衛門と親しい和尚よりもずっと年かさで、それまで見たことのなかった和尚が現われた。

「俺、和尚に会いにきたんですけどね・・・」

年かさの和尚は伝右衛門の問いに答えた。

「拙僧がここ萬年寺の住職です。伝右衛門様、あなた様がこの寺にいらっしゃったのは決まって夕刻から夜、そして必ず宿泊されてましたね。実を申しますと、本堂の中、お一人で将棋をさしていらっしゃる伝右衛門様の影が障子に映っているのを、この寺の少なからぬ者どもが見ているのですよ」

「ど、ど、どういうことですか・・・」と伝右衛門は驚いて聞いた。

「お一人と言ったのは人が一人、という意味です。人以外のもの、大きな蛇の影を見たという者もおります」

伝右衛門の口からは言葉が出てこない。

「伝右衛門様、はっきり申しましょう。あなた様はこの寺で見沼の龍と将棋をさしていたということです。判で押したように夕刻から夜においでいただいたのも、龍に呼ばれていたとしか考えられません」

「龍ぅぅぅ!?」

「太閤殿下の小田原攻めが終わってからですよね。伝右衛門が甲州から土呂陣屋にいらしたのは。小田原攻めのときは、北条方の岩槻城落城の前に、支城だった潮田氏の寿能城も落城しました。その落城のとき寿能城にいた多くの子女が見沼に身を投げました。豊臣勢の乱暴・狼藉から身の清さを守るために。土呂陣屋に入られた伝右衛門様は、見沼で犠牲者の供養をしてくださいましたよね。おそらく、見沼の龍はそんな伝右衛門様をたいそう気に入ったのだと思います。それにわりと男前の伝右衛門様に好意を持ったのかもしれませんし」

「いや、待ってください! だいたい龍が人に化身するときって、女人にょにんの人の姿になるんじゃないですか? ましてや、俺に気があるんだったらなおさら女人の姿になってもらわないと・・・」

「いや、必ずしもそうとは限りませんよ、なにしろ龍なんですから何でもアリなんです・・・」

伝右衛門は言葉が出なかった。

「とにかく伝右衛門様は長生きすること間違いなし、ということです。龍のお気に入りなんですから」と和尚は面白そうに言った。

「あっ、あと伝右衛門様は富士のお山にゆかりのある甲斐の国からおいででしたね。この関東の平地からは富士のお山は遠い。富士のお山の神様でもこの地に勧請でもなされば、見沼の龍も喜ぶと思いますよ」と和尚は付け加えた。

萬年寺は武蔵の国の越生の曹洞宗長昌山龍穏寺の末寺として永正六年(一五〇九年)に再興された名刹で、本物で人間の和尚は龍穏寺から派遣されていた。
そして伝右衛門に見沼の龍の話をしてから間もなく、この世を去った。
さらに伝右衛門が五十三歳の慶長元年(一五九六年)、萬年寺は火災で全焼した。
床下に住み込んだ無宿人による火の不始末で寺が焼けるのは珍しいことではなかった。
伝右衛門は早々、片柳村の名刹である萬年寺を再興させた。
伝右衛門は萬年寺中興開基となったわけである。
徳川家康からは朱印地二十石を安堵された。
日頃から、自分がこの世を去ったら、この萬年寺に葬ってほしいと周囲に言っていた伝右衛門は、後年、家族とともに萬年寺に葬られることになった。

慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原の合戦でも、伝右衛門は家康の使番として活躍した。
関ケ原での決戦の前、会津の上杉討伐の途上、小山評定の結果、西に引き返し石田三成との決戦に臨むこととなった。
しかし、家康はたとえ同盟者とはいえ、福島正則や黒田長政など豊臣家恩顧の武将たちの忠誠心を試すため、江戸に留まってなかなか西には進まなかった。
その慎重すぎるほど慎重な行動も、伝右衛門はじめ武田旧臣から得た信玄流の人心操作術であった。
逆に、関ケ原で西軍を裏切る確約を得た小早川秀秋の陣に対し、(松尾山に陣取って動かないことだけで、石田三成を裏切ったと思うなよ。急ぎ山を降り大谷吉継の横腹を討て!)というメッセージを、小早川本陣への鉄砲射撃という形で具体化したことも、伝右衛門からの入れ知恵だった。戦場での決断は熟考させず、とにかく驚かせ、瞬時に行動を促せという武田信玄の思想だ。

関ヶ原合戦の年、伝右衛門は、旧領の甲斐国から御嶽社を勧請、初鹿野氏の氏神・土呂の鎮守として祀った。
萬年寺の本物で人間の和尚の助言に素直に従ったわけである。
慶長八年(一六〇三年)、徳川家康は征夷大将軍に就任。それでも大坂城には豊臣秀頼と淀殿が居座っており、徳川の政権は盤石とはいえなかった。

関ケ原以降、いくさらしい戦がなくなったが、慶長十年(一六〇五年)、伝右衛門は僅か一年とはいえ、京都の伏見城の留守居役を務めたり、何かと忙しかった。

(俺も六十歳を過ぎたか・・・。もう隠居したっちゅーに、大御所様も人使いが荒いもんよ。そして、とうとう金には・・・、和尚、いや、龍の言うとおりだったわい。今となってはそれはそれでかまわんけどね・・・)

いつもそう愚痴っていた伝右衛門の心の中には、早くのんびりしたい気持ちと、こんな自分でも重用してくれる家康への感謝の気持ちが入り混じっていた。

6.大坂夏の陣、真田信繁との邂逅

慶長十九年(一六一四年)、大坂冬の陣の火ぶたが切られた。
七十一歳となった伝右衛門は、やはり家康のそばに仕え、陣中目付として徳川の諸将に軍令を伝える役目をこなした。

(この歳になってもよ、軍令伝達役とはね。やっぱり俺は、香車のままなんだよな・・・)

伝右衛門はため息をついた。

翌年の慶長二〇年(一六一五年)、大坂夏の陣は、いよいよ豊臣家にトドメを刺す戦となった。
だが軍勢の数では遥かに大坂城の豊臣勢を上回るものの、関ケ原の合戦から十五年も経てば、各大名の世代交代により、実戦経験のある武将は少なくなっており、戦の経験が豊富な牢人衆を主力とし、戦のモチベーションにまさる豊臣方の反撃に、徳川勢が苦戦を強いられる局面も少なくはなかった。
徳川方の諸将にとっては、たとえこの戦に勝ったとしても所領増が期待できなかったことへの失望もモチベーション低下の大きな要因だった。

天王寺に構えていた家康の本陣もまさかの豊臣方の奇襲を受けた。
豊臣勢の武将は真田左衛門佐信繁さえもんのすけのぶしげ、幼名は源二郎だ(後年、真田幸村とも呼ばれるようになる)。

大坂城から出て野戦を展開していた真田信繁の奇襲を受けた家康本陣では、「厭離穢土欣求浄土」の旗印が地面に倒された。
陣を固めていた家康の側近たちは蜘蛛の子を散らすかのように姿を消し、家康と伝右衛門の二人だけが残された。

赤地に白く六文銭を描いた旗を背負い、馬上で連発銃を構え撃ちながら家康本陣に辿り着いた真田信繁は、家康の姿を血眼で探していた。伝右衛門は、深い草むらの中にかろうじて家康を隠れさせた。

白髪の髷の家康は自ら腹を斬る覚悟を決めていた。

「伝右衛門、お主には長いこと世話になった。大名にはしてやれなんだったし、役職は使い番のままだったが、戦のときはわしのそばにいて信玄流の戦略・戦術を沢山教えてもらった。思えば数多くの武田家旧臣たちのおかげで徳川は戦に強くなった。伝右衛門もその功労者の一人じゃ。礼を申す。儂も長生きしたがお主も負けず劣らず長生きだったな・・・」

伝右衛門は叱り付けるような口調で家康に言った。

「大御所様、何を申します! 俺とは敵同士だった三方ヶ原でも、本能寺の後の伊賀越えのときも、天下のため神のご加護で生かされてきた大御所様じゃいですか! こんなところで豊臣残党に命をとられるなんざ、この伝右衛門が許しません! 間もなく援軍が到着するはずです。俺が時間を稼ぎますんで、しばしここにお隠れになって我慢を!」

赤備えの鎧兜姿の真田信繁を仰ぎ見た伝右衛門は、いよいよここが自分の死に場所になるかもしれないと覚悟を決めた。それでも家康を守らねばならぬとの決意は固かった。

「真田左衛門佐信繁殿か?」

伝右衛門は大声で問いかけた。

「そうですけど、ご老体は?」

「ま、老体には違いねぇわな・・・、俺はな・・・」と、伝右衛門は一呼吸置いて名乗りを上げた。

初鹿野伝右衛門昌久はじかのでんえもんまさひさ

真田信繁は必死に何かを思い出す顔つきになっていた。

「香車・・・伝右衛門・・・殿?」

「なんだ、知ってたんか? 源二郎!」

「香車殿のことは、亡き父昌幸がよく誉めておりました。武田家臣の中で比類なきへそ曲がりで大ぼら吹き。那波無理之介殿とその座を争っておられたとか」

「無理之介なんぞと一緒にすんなぁぁぁ! ウワーハッハッハッハッ!」

久々に無理之介の名を聞き、伝右衛門は嬉しくて仕方なかった。
そして、まだ少年だった源二郎がすでに五十歳目前の老齢に達していることに時の流れを感じた。

「源二郎、俺が最後にお前を見たのは、勝頼公が火をかける前の新府城だった。まだ十五か十六だったかね? 兄さんとは違って手の付けられない悪ガキだったよな」
信繁は焦っていた。

「香車殿。今、私が欲しいのは家康の首ただ一つです。おとなしくそこをどいていただければ、香車殿のお命は頂戴いたしません」

「まあ、待てや」

焦る信繁に伝右衛門は続けて言った。

「もしもお前が大御所様の首を獲ったところでな、それは影武者じゃねぇの? とか難癖をつけられてうやむやにされるだけだぞ。大坂の城内には秀頼公側近を含め、どんだけ徳川の息のかかった者たちがいると思っているんだよ。それにな、たとえ大御所様の首が獲られたとしても、この十余年の間に徳川の幕藩体制は盤石となっているんだ。太閤殿下が辞世の句で詠まれていたよな、浪速のことは夢のまた夢って・・・」

伝右衛門はさらに続けた。

「それよりも、源二郎、真田は武田家中では赤備えじゃなかったよな。赤備えは飯富、それから山県、小幡、浅利だ。この戦、豊臣の財力で真田の軍勢を赤備えで固めているのは、武田への愛着ゆえなのか?」

「いかにも。勝頼様も奸臣小山田信茂の讒言に惑わされることなく、わが父昌幸がお迎えの準備を整えていた上野国の岩櫃城までおいでになられたらなら、武田家は滅びずに済んだはずだ!」

伝右衛門は諭すように言い返した。

「今、そんなこと言ってもな、意味ねぇさ。みんな一人一人生き残るのに必死だったんだ。善悪の話じゃねえよ。生きるも死ぬも、忠臣と呼ばれるのも奸臣と呼ばれるのも、全ては結果でしかないんだ。勝頼公を裏切ったのに、一族もろとも織田に処刑された小山田信茂もな、ただひたすら郡内ぐんないを守りたい一心だったのかもしれない。同じ小山田衆でも田野の地で勝頼公をお守りし、最後の最後まで鉄砲を撃ちまくって討死した小山田弥助、片手で蔓を掴みながら、崖道で千人の敵を切りまくって討死したという〝伝説〟の土屋惣蔵、みんな懸命にこの世の生ききったわけさ。織田の罠にあっさりはめられ、のこのこと姿を現し処刑された逍遥軒様はじめ武田旧臣たち、本能寺で信長が殺された後、生き残った武田旧臣たちになぶり殺しにされた河尻秀隆殿、宇治田原であっけなく命を落とされた穴山梅雪。後世の人間はああだこうだと言うだろうけど、皆一人一人、その時々で行く末を選択し、懸命に生ききったことに変わりはないんだ。」

無言の信繁に、伝右衛門はたたみかけるように続けた。

「人は誰もが結果こそ大切だという。でもな、結果だけにこだわってたら、世の中に価値のある人間なんて数えるほどしかいないことになるんじゃねぇか? 心に汗をかいて、一生懸命、考えて行動する。どんな人間の生だってかけがえのないもんだって思えてくるんだよ。ぶざまだろうがみじめだろうが、人の道から外れた人生だってそうだ。歩も香車も桂馬も銀、金、飛車、角、王将だって、それぞれの決まりごとの中でただ生きた、という事実こそ大切なんじゃないのか? 豊臣の栄華よ、もう一度、というお前の夢は結果としては成就しまい。でも、お前や亡き昌幸殿の信念と生き方は、必ず後世に語り継がれると思うんだ」

伝右衛門がそう言い終わった刹那、徳川方の援軍の喚声が響き渡った。

「それが、金に成り上がれなかった香車殿が、長年かけて辿り着いた境地ですね。私は一足先に三途の川を渡ることにします。それが私の結果ということになるのでしょう・・・」

こう言い残した信繁は、踵を返し大坂城の方向に馬を走らせた。

「死に急ぐんじゃねぇぞ! 源二郎!」

伝右衛門は、たとえ虚しい言葉でも、そう叫ばずにはいられないときもあるんだ、ということをかみしめていた。それから間もなく、真田信繁は三途の川を渡った。

7.月夜の晩に見沼の龍と

豊臣家を滅ぼした翌年、伝右衛門より二歳年長の徳川家康が逝去した。
さらに、家康の死から六年後の元和八年(一六二二年)、武田信玄正室の次女で穴山梅雪の正室であった見性院殿(けんしょういんでん)が逝去した。
勝頼亡き後、穴山武田家による武田家再興の夢は破れたものの、見性院殿は江戸城内で、二代将軍徳川秀忠が側室に生ませた幸松丸(後に会津藩主となった保科正之)の養育という重責を担った。嫉妬深いといわれていた秀忠正室のお江の方から守ることは相当な負担だったはずだ。
保科正光の養子となった正之の手によって、見性院殿は、見沼を片柳よりさらに南に下った大牧村の清泰寺に葬られた(その後、霊廟も作られることになった)。
見性院殿とは直接、顔を合わせたことのない伝右衛門であったが、歳が近かったこともあり、徳川家と幕府に深く関わってきた者同士として、何かと気になっていた存在だった。

寛永元年(一六二四年)、八十一歳になった伝右衛門にも、とうとうこの世を去るときがやってきた。
土屋惣蔵も小山田弥助も、勝頼に殉じて田野の地でこの世の生を終えていた。
普通だったらそのとき一緒に死んでいたはずの自分は、それから四十二年もの間、それまでの人生の倍以上の年月を徳川に仕え生きてきた。
〝山の端〟など近くに見ることのできない土呂陣屋だが、見沼の龍は伝右衛門を見守り続けてきた。

(弥助や惣蔵、そして無理之介に話してやることが多すぎて面倒臭えなぁ。もっとも奴らが俺を許してくれていたら? の話なんだけど・・・)

勝頼に殉じることなく生きていこうと決めた国玉郷の夜は春だった。
そして今宵は深まった秋。季節と国は異なっていても、月の光は変わることなく妖艶で美しかった。
伝右衛門は、美しい月の姿を映して、波のない静かな見沼の水面(みなも)を眺めていた。

(さあ! もういいよな! 和尚、いや、見沼の龍よ。やっと俺も金に成れ、いや金に戻るんだ。頼んだよ・・・)

月を映した見沼の水面が突然、大きな渦でかき乱された。
渦からは金色(こんじき)に輝く龍が轟音とともに頭を出し、月に向かうように大きな姿を現した。
伝右衛門は、振り落とされることのないよう金色の龍の体にしがみつき、高々と天に昇っていった。
              (了)                   

【歌詞引用】
「月よ、おまえは悪いから」(作詞:仲野茂、作曲:野島健太郎)
日本音楽著作権協作品コード 026-4367-7
*1993年リリースのアルバム『遠くで火事をみていた』では、曲名、歌詞とも「月よおまえが悪いから」でしたので、本文中はその表記としました。

【参考資料】
『武田氏家臣団人名辞典』(柴辻俊六他、東京堂出版)
『関八州古戦録 巻八』
『新編武蔵風土記稿』(内務省地理院)
『万年寺 大宮 さきたま文庫49』(田口勝一、さきたま出版会)
『大宮市史 第3巻上 近世編』(大宮市役所)

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