風まかせ文芸部 『新生活』
君との新しい生活が始まった。
思い描いていたバラ色の生活とは少し違ったが、概ね幸せと呼べるような暮らしが続いている。
今日の朝食は塩フランスパンがふたつ。
少し物足りないが、目の前に君の笑顔があるだけで、なんだか満足した気分だ。
音のない食卓。動かない笑顔。
昼過ぎ、君が床に倒れていた。
声をかけて体を揺さぶるが、まるで反応がない。
死んでしまったのかな?そう不安に思ったところで、背後から君の声。
「そっちは使い終わったの。また新しく作り直したから」
振り返ると、君が立っている。
黒髪ロングが金髪ショートになっていた。
二人でコンビニに行った。
ドリンクコーナーの前で、君が歌を歌い出した。
どこか、懐かしい歌。
僕と君の思い出が……でも、そのイメージは黒く塗りつぶされて、その断片すらも見えやしない。
ビールを買いに来た客のおっさんが、彼女を怪訝な顔で見ている。
殴ってやろうかと思った。
家への帰り道、昔、君と住んでいたアパートの前を通る。
「ここ、覚えてる?今の家に引っ越す前に……」
僕の問いに、
「覚えてるよ。私があなたに壊された場所だよね」
まっすぐ前を見つめたままで答える。
「その記憶は消した方がいいね」
僕達は新しい生活を始めたんだ。
悲しい思い出などいらない。
夕飯は、君が作ったカレーライス。
昔と違って、僕が苦手な辛口じゃない。
食卓に並んだカレー皿はふたつ。
君と向かい合って座り、
「いただきます」
とお互いに言い合って、僕はスプーンを使う。
君は、動かない。夜は更けてゆく。
なあ。
あの頃の君は、まだどこかにいるのかい?
激しく言い争って、傷つけ合って、真っ向からぶつかり合った君は。
この新しい暮らしの中で、時折まだどこかを漂っているような気がしてならない。
別に会いたいわけじゃないんだ。
もう、あんな日々は懲り懲りだから。
深夜、照明を消して、君の電源をオフにする。
君は静かな眠りに落ちる。
夜の闇の中、君の寝息が聞こえる気がするが、きっとこれも、あの頃の記憶の断片なんだろう。
二人、ひとつのベッドで眠った夜。
今僕は、一人きりのベッドの上で、傍らに立ち尽くす君の静止した姿を見上げている。
……うん。きっと僕は、概ね幸せだ。
だって、思い描いていたままの君がいるから。
こちらの企画に参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。
