風まかせ文芸部 『初夏』
夏が来る。
思い出すのは、あいつの自転車。
オンボロで、ペタルを回すとギコギコ鳴って。
いつもそれを聞いて笑ってた。
皆で、あいつを囲んで。
バカにしてるつもりなんてなかった。
なんか、その自転車そのものが、笑いを取る道具になってるような気がして。
笑ってもらえて嬉しいよ。
あいつと自転車が、まるで漫才コンビでも組んでいるような、それで俺達を楽しませてくれているような、そんな気がしていた。
勘違いだった。
初夏が訪れる頃、あいつは俺達の目の前で、橋の欄干から川めがけて自分の自転車を放り投げた。
泣きながら。
俺達は何も言えずに、泣きじゃくるあいつを見ていた。
どうしたらいいのかも分からずに。
無邪気に何かを笑うことが、こんなにも人を傷付けるなんて、思いもしなかったあの頃。
初夏を過ぎ、本格的な夏がやって来る。
厳しい暑さの中、あいつは一人、学校までの長い距離を毎日歩き続けた。
俺達の自転車に遠く遅れて。
どこまでも広がる田園風景の中、振り返れば遥か後方に、トボトボと歩くあいつの姿が見えた。
「あいつを待ってやろうか?」なんて誰かがつぶやいても、それが俺達の総意とはならず、ペダルを漕ぐ足が止まることはなかった。
ある日、学校帰り、橋の欄干から川を見下ろしているあいつに会った。
あいつはじっと、半分川に沈んだ自分の自転車を見つめていた。
あの日のあいつの泣き顔を思い出す。
「あれ、助け出そうか?」
……なんでそんなことを言ったのかは分からない。
だけど、あいつが俺を見て、黙って頷いたから、救出作戦が始まった。
水と泥に埋まった自転車を二人がかりで持ち上げて、土手の上に救い上げた。
数日間、川の水に洗われていたからか、思いのほか自転車は綺麗で、もともと錆の浮いていた部分を除けば、どこか輝きを増しているかのような錯覚に囚われた。
……まだこれ、乗れるじゃん。
「これ、どーすんだ?」
そう聞く俺に、あいつは自転車を見つめながら、言った。
「母ちゃんがさ、新しい自転車買ってくれるって。だから、もう乗らないんだけど、こんなとこに捨てといちゃダメだろ。持って帰って、ちゃんと処分するよ」
顔に付いた泥を腕で拭いながら、事も無げに言う。
「処分……するんだ」
「こんなギコギコうるさい自転車、誰も乗らないよ。笑われちゃうし」
最後の台詞は、当てつけにも聞こえなくはなかったが、きっとあいつにそんなつもりは無かったと思う。
それだけの、夏の思い出。
久し振りに会ったあいつは、結婚して二人の子供がいた。
約束して待ち合わせた居酒屋で、少し面影の残る笑顔を見せる。
「もうすぐ、上の子の誕生日なんだよ。そろそろさ、自転車買ってやろうかと思ってんだ。まだ、乗れるかどうかも分かんないんだけど」
あの初夏の朝、泣きながら自転車を川に放り投げたお前が言う。
「……自転車か。最近の子はどーなんだろうな。喜んでくれるのかな?」
「そりゃ喜ぶだろ。俺は嬉しかったぜ。親に自転車買ってもらった時」
お前の泣き顔を思い出す。……いや、覚えてはいない。
あれは本当に、お前だったのか?
「自転車って……どっちの?」
「……えっ?」
きっと、夏の暑さに溶けかけているのだろう。
俺の記憶。
今年の夏も暑い。
俺も早く、自転車を買ってあげたくなるような子供を作るべく、そんな子供を作りたくなるような人生の伴侶に出会うべく、この夏を走り抜けていこう。
あいつの自転車みたいに、ギコギコ鳴って笑われたっていい。
それが俺の個性なら、胸を張ってどんな嘲笑にだって負けやしない。
きっといつか、素敵な誰かが救い上げてくれるから。
こちらの企画に参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。
