第1章 18歳の娘が告げた言葉
「19歳の誕生日までに私が変われなかったら、死のうと思っていたんだ」
通信制の高校を卒業し、同じく通信制の大学に進学して数か月が経った頃、さくらは突然そう告白した。
何気ない夕方。夕食の支度をしているとき、背後からふっと投げかけられたその一言は、私の時間を一瞬で止めた。包丁を持つ手が空中で止まり、振り返ると、さくらはまるで天気の話でもするかのように穏やかな表情をしていた。でも、その声の奥には、長い間ため込まれた重みが確かにあった。
高校生活の影と、気づいていた“無理”
さくらは高校入学当初、全日制の学校に通っていた。入学式の日、真新しい制服に袖を通し、少し緊張した笑顔を見せてくれたことを私はよく覚えている。慣れない環境に戸惑いながらも、「高校では新しい友達を作る」と前向きな言葉を口にしていた。
しかし、その前向きさは長くは続かなかった。入学から数か月が経つと、朝になると布団から起き上がれない日が増えた。ようやく学校に行けても、教室で一日を過ごすことが難しい日が続いた。それでも「やめたくない」と頑張り続けていたのは、きっと自分なりの“居場所”を失いたくなかったからだと思う。
私はその無理に気づいていた。けれど、その無理がどれほど危ういものなのか、その時はまだわかっていなかった。
あの言葉は突然ではなかった
「19歳までに変われなかったら…」という告白は、突然のようで、実はそうではなかった。
4年前――中学3年の冬から、さくらの登校は不安定になっていた。期末試験の準備期間、何度も「今日は行けない」と布団の中から声が聞こえた。最初は疲れが溜まっているのだと思ったが、休む日が週に2日、3日と増えていった。
さらに遡れば、小学校の高学年くらいからお友達とのトラブルが増えていき、元々気が強くはっきり言う性格が災いして、先生から「あなたはトラブルメーカーだ」と言われたこともあった。そういう日々が続いていくうちに、自分の中の“なぜ?”がどんどん大きくなり、少しずつ心のバランスが崩れ始めていった。
当時の私は、それを「思春期のはじまりの一時的なもの」だと受け止め、専門機関への相談を先延ばしにしてしまった。子どもの成長過程でよくあることだと自分に言い聞かせながら、日常を続けてしまった。
積もり積もったSOS
けれど、小さなSOSは確実に積もっていた。
新しい環境への適応が難しいこと。人混みや雑音に耐えられないこと。
クラスの空気に馴染めず、孤立してしまうこと。
それらが時間と共に薄れていくことはなかった。
むしろ、蓋をした感情は心の奥で静かに膨らみ続け、やがて命を賭けた覚悟の言葉となって私に返ってきたのだ。
「死のうと思っていたんだ」と言った娘の声は、不思議なくらい淡々としていた。涙を流すことも怒りを見せることもなく、ただ事実を述べるように。だからこそ、その言葉の重さが、私の胸の奥深くに沈んでいった。
母としての悔いと決意
その瞬間、私は胸の奥を強く掴まれたような感覚に襲われた。
過去の私が「大丈夫」と思い込んでしまったあの日々を、何度も思い返した。あのときもっと早く動けていたら、この言葉を聞くことはなかったのだろうか――そんな後悔が、胸の中で渦を巻いた。
最愛の娘がずっと心に秘めていた想いが、こんなにも重く、苦しいものだったと知ったとき――。さくらはこの4年間、自分と戦い続けてきたのだと痛感した。
その事実を前に、私は本当に情けない親だと自分を責めることしかできなかった。悔しさと、さくらへの謝罪の念が胸いっぱいに込み上げ、涙が止まらなかった。
けれど、後悔だけでは何も変わらない。今、娘がまだ生きて、目の前にいる。その事実だけを頼りに、私は前に進むしかなかった。
ここから始まる記録
ここから、さくらと私が歩んだ4年間――“生きる選択”を探し続けた日々の記録を、正直に綴っていきたいと思う。
この記録は、ただの思い出ではない。同じように苦しんでいる誰かが、自分や家族のことを責めることなく、少しでも希望を持てるように。そして、私自身がもう一度あの日々と向き合い、娘と共に前へ進むために。
次回は、中学3年の冬。不登校の始まりと、最初の受診までの経緯について書きます。
物語は次の章へ――
中学3年の冬、さくらの日常は静かに、しかし確実に崩れていきました。
その時、母として私が何を感じ、どう動いたのか。
▼第2章はこちらからお読み頂けます。
