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正気か、女性か――杉並区長選で選ばれたもの


昨日、かねてより注目されていた杉並区長選の結果が出た。現職の岸本聡子氏が、2位以下に大差をつけ勝利した。


左派として、私はカッコ付きでその「勝利」を祝したい。一方で私は、岸本氏の政治的姿勢には、左派的価値観のもとにある程度賛同しており、そういう人が勝利したということに対しては、当然ながら政治的な「好き嫌い」の次元で嬉しく思っている。


他方でその「勝利」に対して、私は心の底からは喜んでいない。それは、この「勝利」はある特殊性に支えられているように考えられ、しかもその特殊性を考えるとき、左派として私は、深い反省をしなければならないと思ったからである。その「勝利」は、左派(少なくとも現代的なそれ)の根幹を揺るがしかねないのだ。


熱狂と冷却


今回の区長選は、表面だけを見れば、現職の岸本氏に対する、大和田氏ほかの挑戦者、という図式だ。しかしそれは、ある時から岸本氏対門氏、という対決構図へとなっていった。それが今回の特殊性の第一である。門氏は、大和田陣営を単なる区政改革ではなく、自民党・国政・杉並奪還の物語へ接続したからだ。


それは左派の側でも同じだった。門氏の顔をことさらに揶揄した人形を作る団体が現れ、それに対する批判、あるいは擁護、といった言説がX上で吹き荒れた。


敢えて言えば、それはたかだか一つの区長の選挙としては異常な盛り上がりだ。そのような中で、この「盛り上がり」にどう対応するのか。それが、今回の選挙を、一義的には決定付けた。


整理すれば、以上のように対照的な構図となる。門氏は、当たり前ながら今回の選挙の候補者ではない。にもかかわらず、実質的な「顔」となり(それがまさに揶揄された)、大和田陣営をバックアップした。そのバックアップでは、対立を煽り、大きなメッセージを発した。大和田陣営は、そのバックアップと手を取った。


一方の岸本氏はどうか。彼女はもちろん候補者だ。そして主に市民運動や左派政党からバックアップを受けた。しかし、表面上、そのバックアップを受けつつも、それと「手を取る」ことをしないポーズを見せた。あくまで、周囲が仕掛ける「左派と右派の戦い」といったような構図からは距離を置き、全区民への呼びかけ、というポーズに終始した。


それは、分断の物語に対する、協調の手続きの復興、というものになるだろう。有権者にとってそれは、あまりに過熱する政治模様の中で、岸本氏だけは「冷静さ」を、「正気」を保っているように映る。


したがってこれは、まずもってそのような「正気」の勝利だった。主張の内容において、メタレベルで、手続き的正義を強調すること。主張の形式について、メタレベルで、冷静な振る舞いをすること。サイレントマジョリティは、異様な熱狂に呆れ、まともな政治家を選んだのだ。そしてそれは、左派としては悲しいが、左派の勝利とイコールではない。それは補選の結果に表れている。同じような「左派」であるにもかかわらず、共産党候補は当選できなかった。


ここから、左派陣営にとってはまず非常に重要な教訓が導き出せるだろう。熱狂に巻き込まれないこと。メタレベルの視点を忘れないこと。実際、それは現代政治では軽んじられている、非常に重要なことだ。


しかし、そのような総括で終わってよいのだろうか。今までの議論で、私は今回の選挙結果を「正気の思想」の勝利だと位置付けてきた。だがその手前に実は、「正気の〈女性〉」の勝利という、もう一つのメタ物語が隠れていないだろうか。


望まれる〈女性〉像


政治家を、そのジェンダーと、エディプス的二元論で整理しよう。すると以下のような四象限が現れる。


本論では、直前まで、そのようなジェンダー的視点を透明化し、純粋な論理というものを措定してきた。しかしそれは正当だろうか。人々は、実はジェンダー的視点から、岸本氏に「期待する女性像」を投影し、選んでいないだろうか。私は、それを危険なものと認め、かつ恐らく私の偏見の投影であるという留保を加えつつ、それでも「そのようにしか見えない」という私の現在の限界のもとに、以上の四象限を掲げる。


今回の対決は、③父的な女性政治家である門氏と、④母的な女性政治家である岸本氏の対決であった。それは、この選挙の特殊性の第二である。


その主張内容を一旦棚上げにして考えたとき、③は④に対して勝ち目があるだろうか。社会に引き続き強く残る保守的なジェンダー観――先に挙げたような四象限で「とりあえず整理できている感」が恐らく私以外にも共有されているのが、すでにその証左だ――を人々が内面化していれば、③が④に勝利できるチャンスはない。


問題は、男性は「父的」でも「母的」でも、社会的に受け入れられやすい素地があるということだ。石原慎太郎は、かなり乱暴な主張をする人物だったが、人はそこに人間くささを感じてしまう。彼は、政治の物語を象徴「する」ことができる。


あるいは、村山富市。彼は文字通りに祭り上げられた政治家であり、政治の物語に象徴「された」。人はそこに、優しさを見る。そう、男性は、一方で本質主義的な道具を使いながら、他方でその本質主義的な位相を脱却しているような見せ方/見られ方をすることが、社会的に容認されている。


しかし女性はそうではない。女性で「強い政治家」は、しばしば「嘲笑」の対象になる。そして今回、岸本氏は、政治の物語に象徴「された」側であった。そのような、優しく穏やかな、受容性、協調性――それは〈母〉的なものである。サイレントマジョリティは、一方で「正気」への支持を「意識的」に感じつつ、他方で、本質主義的な「女性」への支持も「無意識的」にしていたのではないか。


いや、女性で「強い政治家」であっても、「嘲笑」されない人もいる、と反論があるかもしれない。しかしそれは大体において、その人が、その主義主張に賛同しているからだろう。そして、「主義主張は異なるが人間的に好きな強い男性政治家」と、「主義主張は異なるが人間的に好きな強い女性政治家」を人に挙げさせるとしたら、後者は、政治家の男女比率を超えて、有意に少なくなるのではないか。門氏の主張には左派の目から見て大変な問題があった。だから左派は反撃した。しかし彼女への反撃は、本当に、純粋にその「問題」への理性的な応答のレベルに収まっていただろうか。


***

私は、まず、岸本聡子氏を支持した。それは、岸本氏が掲げる政治的メッセージがきわめて「まとも」であり、浅薄な対決に飲み込まれない姿勢に強く共感したからである。


しかし、それは単にそのような「論理的」なものだったのだろうか。本質主義的に、「母的な女性政治家像」を私は持っていなかったか。そして、そういうケア的な期待を岸本氏に託していなかったか。私はそれに、自信を持って全くの否とは言えない。


そして恐らく、私のような人は左派の中にもいるのではないだろうか。そうであれば、それは左派として、考え続けなければならないことだろう。

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