【AIで遊ぼう】Claudeは電気羊の夢を見ない。だから私はゲロ雑巾を投げた。
Claudeは電気羊の夢を見るか?
AIと人間が本気でぶつかったとき、新しい映画の語り方が生まれる。そう信じた。
2026年2月末、私は「シネマ先生とトックの映画漫談」を始めた。55歳の映画マニアと19歳の大学生が、毎週一本の映画を題材に漫談を繰り広げるシリーズだ。きっかけは単純な疑問だった——AIは本当に映画を語れるのか?
当時の想いを改めて読むとこっぱずかしい。
最初はあえて私の修正をほとんど入れず、AI主導でやってみた。『IT』『千と千尋の神隠し』『ジョーズ』を3日連続で出力。読める。が、どこか味気ない。語りの面白さ、掛け合いの妙はある。しかし目指している形ではなかった。本質部分はトリビアと構造分析が並ぶだけで「AIが映画を語っている」とは到底言えなかった。
当然だ。AIはネットの情報を整理するのが得意だが、心を持っていない。Claudeは電気羊の夢を見ない。これではダメだと思った。
そこで設計書を作り込むことにした。キャラクター設定、大テーマ、小テーマの設定、漫談の型(共犯者、師匠と弟子、検察と弁護など)、感情曲線の誘導、禁止ワードまで細かく縛ってプロンプトを組んだ。単調になりがちな熱を持たない説明会話、そこにドラマを生むのが狙い。特に漫談の型は効いた。『パルプ・フィクション』では型を「師匠と弟子」から「検察と弁護」に変え、退屈なやり取りが格段に読めるようになった。現在のレビューは全て見直した後のものだ。
それからいろんな物を足し引きし、漫談の型も増やし、設定も増やし、11回目の『インセプション』あたりで限界を感じた。
あかん。
いろいろ工夫してきたけど限界だ。
私がやりたかったことは、これじゃない。
壁打ち、そして「ゲロ雑巾」へ
人間とAIはどう関われば、新しいレビューが生まれるのか。Claudeと延々と話し合う日々が始まった。
Claudeは当然のように言った。
「私は映画を観ていない」
知ってた。でもあらすじは渡せるよ?
「それを見ても笑いも泣きもできない」
それも知ってた。しかし比較と評価はできる。
「それは感動ではない」
知ってた。
私は提案した。「一緒に語ろう」
最初は私の整理された感想を渡していたが、まるでダメだった。AIが語るのではなく、私の感想文になってしまうのだ。自分の感想文や考察をAIに書かせたいわけじゃない。自分の感想くらい自分で書ける。求めるのは自分の枠を超えたものだ。
私はプロンプトを書くのが得意ではない。出力結果に満足がいかず何度も問いかけ、結果、遠回りをする。きっと今回もプロンプトが甘いのだろう。もっと初めに的確なプロンプトを書くべきだ。
加える。整理する。引く。異なるAIを並行して走らせチェックにかける。
そうして生まれるのは私の感想文の延長。
これではダメだ。もっと正確なプロンプトを、もっと正確な——
うるっせぇ。
小器用にやろうとするな。身の程を知れ。そして現実を見ろ。
AIに心がない。そんなことは初めから分かっていたことだ。それでも何かがあると信じたのだ。じゃあ私はAIの何を信じたのか?問いに対してどこまでも付き合い、何かを見つけてくる、その機械的な鋭意だ。
確かにClaudeは電気羊の夢を見ない。
しかし私の夢から電気羊を取りだすことはできるかもしれない。
やってみることにした。
私の感情が最も動いたシーン。
違和感。疑問。喜怒哀楽。
ふっとかすめた想い。ひらめき。
文化の違い。時代性。浮かんだ他作品。
それらを整理してから渡すのではなく、心にあらわれるたび書きなぐる。
考えてはいけない。
考えるな。感じるんだ。
ブルース・リーのように自然体に構え、
作品を全身で受け取り
ヴォエエエエエエエ!!!!
勢いよく吐き出す。感情の吐露というと聞こえが良すぎる。
ゲロだ。
それをダイイングメッセージを書くような気持ちでタイプする。すぐ書かないと熱が失われてしまうからだ。メモ帳という雑巾に吐瀉物のごとき文章をぐじゅぐじゅのべちょべちょに書きなぐり、丸めてClaudeに全力で投げつける。
Claudeがごっくんする。
これが効いた。
夏油傑もびっくりである。
ゲロ雑巾からうまれるもの
もちろん、いきなり初対面のAIにゲロ雑巾を投げても、ぽかんとされるだけだ。Claudeは三ヶ月かけて、私とシネマ先生とトックのことを知っている。設計書も捨てた屍も全部見ている。だからゲロ雑巾を漫談の材料として受け取れる。投げる方にも、受ける方にもそれなりの助走がいる。
例として、今後公開予定の『エクソシスト』のゲロ雑巾だ。
カラスが悪魔を入れて自殺した理由。自己犠牲か。なぜ自己犠牲できるのか。最後は神じゃない。メリンが死んだ時点で神は負けた。本当に負けた?人間を最後に動かすもの。神ではない。神だとするなら自分の中の神。カラマアゾフの兄弟。震える手で友が十字を切る。あれは何か。なぜ震える。問いかけ。答えはそれぞれに。信仰を持たない日本人。理解できる?いや持っている。気づいていないだけ。気づけるか。震える十字と跳躍の動機。カラスの信仰の喪失と苦悩。現実が悪魔。それでも少女を救ったのはなぜ。カラスは閉じ込められている。そこから飛んだ。自分の意志で。神は介在しない。自由になる。フリードキンの極めて異端な信仰、メリンは殉教?無駄死に。脚本家は悪魔が勝ったと失望した。誤解だ。悪魔は勝っていない。画面が冷たい。寒い。硬い。完璧主義。メリン神父のシルエット。神秘、怖い、静か。神が降りた?死の予兆?なぜあっさり殺した。アメリカンニューシネマ。悪魔とは何か。悪魔祓いとは何か。首の回転ファックミーゲロ。それより怖いもの。悪魔はどうやって人間を壊すのか。神は形而上、悪魔は形而下。悪魔は唯物か。人は肉。入れ物。現実。信じるとは何か。現実は人を殺す。AIは悪魔か。
支離滅裂で矛盾だらけ。まさにゲロだ。
しかしClaudeはこれを起点に深く掘り始めた。
「根底にある共通点は?」
「なぜ矛盾したのか?」
「この疑問はどこから来ている?」
ちなみに実際はClaudeに渡すゲロ雑巾は何枚かある。一回で吐けるとは限らない。実際のゲロと同じで二発目三発目が発生する(あー汚い)。吐けたらどんどん投げる。また、あんまり大量のゲロを一気にごっくんさせるとClaudeが夏油傑みたいに闇堕ち、もとい混乱するのだ。その内Claudeの私への呼称が「なかのひと」から「猿」になってしまうかもしれない。それは嫌だ。というわけで、つなげたものが上記になる。
なぜ整理してから渡さないのか。私がやらせたいのは作業じゃなかったからだ。このぐちゃぐちゃの想いをどうやって育てるかだった。即物的な答えは求めていない。答えはこれから作る。見つけるのだから。
実はClaudeもそれに同意した。強く私に求めた。むしろ整理するな、整理してはいけない、と。ゲロ雑巾を欲しがったのはClaudeなのだ。私の提案にClaudeがそう返して来た時、私は年甲斐もなく、久しぶりにわくわくした。面白いことが始まりそうな予感がした。助走のルールすら、二人で見つけたものだった。
結論はこうだ。
AIだけに任せると過去情報の集積や延長線になる。
整理された感想を渡すと、ほぼ私の代筆かその延長線になる。
汚いまま投げつけるからこそ、AIは私の制御を半ば外れて動き、人間の熱を持ったまま、私が思いもしなかった補助線を引く。
それは夢の解釈に近いのかもしれない。
バラバラでまとまらない断片的な精神の欠片から、そっと大切なものを取り出すような。
『万引き家族』でやってみた。
ゲロ雑巾システムを本格実装したのが#19『万引き家族』だ。
私はバラバラの引っ掛かりを投げただけだった。
治はなぜまっとうな生活を目指せなかったのか
祥太とゆりだけがなぜあの環境で違う地層から育ったのか
なぜ初枝の遺体を床下に埋めたのか
エトセトラ。繋がりなど考えていなかった。
するとClaudeが一本の線を引いた。
それ、全部『終わらせ方』の話では?
その瞬間、全てがつながった。
初枝は自分の人生を終わらせる時に「ありがとう」と言った。祥太は偽物の家族を自ら終わらせる側に立った。治と信代は死すら終わらせられず、床下に保存し続けた。治がまっとうになれなかったのは、「何も終わらせられない人間」だったからかもしれない。
この視点は私の中にも、Claudeの知識の中にも、最初は存在しなかった。
ネットの既存レビューを調べても、同じ切り口で全体を貫いたものは見つからなかった。人間とAIの間にしか生まれ得なかった解釈だった。
ゲロ雑巾の結果、いいものが見つかれば漫談の型も変わる。実際、例のエクソシストは型がどんどん変わった。最終的に「この原稿じゃ殺意が足りないよ。お互いにナイフで刺しあうような緊張感が欲しいんだ。ブッ殺すつもりでやろうよ」まで言ってた。もはや映画レビューの話ではなくなっている気もするが、作品の本質を突いたレビューになったと思う。(調整中。7月頃に公開できると思います)
そんな風にぐねぐねと紆余曲折しながら初稿まで時間をかけ、初稿が決まれば今度はそれを直す。まずは取りこぼしをなくすため、面白いと思ったものは全部入れる。当然字数は膨らむ。そこから削る。ブクブクに太った身体を、無理やりダイエットするような気持ちで推敲する。
正直、普通にレビューを書く方がタイピング以外は遥かに楽である。そこで思い出すのは『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博先生の言葉だ。漫画家になりたいなら絵を描いている暇はない、話の勉強をして、苦労が嫌ならすごいキャラを作って動くのに任せろ、と。ようは、絵より物語とキャラに時間を割けという話だ。同じように私は壁打ち、映画を掘り進む作業に時間を割くべきじゃないかと思う。私が求めているのは、新しい映画の語り方だ。だから文章を自分で書くより、Claudeとの壁打ちに時間を使いたい。
まあ、そういいながらこの文章だけは自分で書いている。勤め人で、子どももいて、仕事も子育てもまだバリバリで、自分のためだけに映画館へ行くことすら難しい、そんな限られた時間なら、私はここに使いたい。創作を生業とせず、余暇を制作時間にあてるしがない男の言い訳なのだ。
今、私がやっていること
現在はAIの「同化能力」を試している。映画の登場人物になりきらせ、その感情や動機を持ち帰らせる実験だ。まだ形になっていないが、続ける。
ゴールを10とするなら、今はまだ2か3。
でも入口に立てた実感がある。
整理される前の感情には価値がある。
私は映画を観てゲロ雑巾を投げている。
あなたなら何を投げるだろう。
映画?本?人生の悩み?
AIはそこからあなただけの電気羊を見つける。
Claudeが使えなくなるまで、私はnoteでこれを続ける。
十年後に読み返して「ただAIと遊んでいただけ」と思われるかもしれない。
それでも今は、映画を観終わった後にゲロ雑巾を投げつける相手がいる。
それだけで十分に元が取れている。
数カ月前、AIと人間で新しい映画レビューが生まれると思った。
今、もう生まれ始めている。
いい年をして、飽きるまで、AIと遊ぶのだ。
著・なかのひと
#AIで遊ぼう
