『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』を観て ――大人になったピーターと、返済し続けるスパイダーマン
※本稿はネタバレなしの感想です。
『ノー・ウェイ・ホーム』が示した"代価を払う"という生き方
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、ピーター・パーカーという一人の青年にとって、大きな転機となる作品だった。あの映画で彼は、ただ危機を退けただけではない。失ったものを取り戻すのではなく、自分の存在そのものを差し出すことで事態を収束させた。世界に忘れられることを受け入れ、恋人にも親友にも、自分の人生の中心にいた人々にも届かない場所へ退いたうえで、それでもスパイダーマンであり続ける道を選んだのである。Sony Pictures
私は以前、別の文章で「代価を払わないアベンジャーズ」と「代価を払っていくスパイダーマン」という対比を書いた。『アベンジャーズ/エンドゲーム』のヒーローたちは確かに犠牲を払ってはいるが、その精算の多くを次の世界、次のフェーズ、次の作品へと押し出してきたように見える。それに対してピーター・パーカーだけは、自分の起こしたことの請求書を、きちんと自分の人生で引き受けた。そう読むと、『ノー・ウェイ・ホーム』は単なる感動的なリセットではなく、フランチャイズの中心が避け続けてきた「払いきる」という行為を、ただ一人実行した物語だったのだと思う。note
『ブランド・ニュー・デイ』、返済を続ける男の物語
その先にある『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、単なる新章ではない。Sony Picturesの紹介文によれば、この作品のピーターは「世界に忘れられたまま」、旧友たちが自分抜きで前へ進んでいく現実を見つめつつ、スパイダーマンとして街に立ち続けることになる。つまり今作は、ゼロからの再出発というより、いったん払い終えたはずの代価を、それでもなお返済し続ける男の物語として始まっている。Sony Pictures
キャストの変化 ― 大人になった二人と、変わらない一人
まず目を引いたのは、ピーター・パーカーとMJの「大人になった」佇まいだった。見た目の変化もある。だがそれ以上に、二人がまとっている空気が違う。以前までの若さや危うさ、勢いのよさとは別の、少し重みを帯びた落ち着きがある。一方で、ネッドは相変わらずのネッドだ。この「相変わらず」でいてくれる感じは、シリーズを追ってきた側からするとかなり大きい。周囲の空気が変わるほど、彼の変わらなさが救いになる。
トム・ホランドの変化 ― フィジカルと芝居の質感
トム・ホランドの変化も印象的だった。今作ではかなり体が厚くなっていて、スーツを着ると、もはや細身の青年というより完成されたアクションスターに見える瞬間がある。その肉体的な変化に伴ってか、芝居の手触りまで少し変わったように感じた。どこかトム・クルーズ的、と言ったら大げさかもしれないが、身体を張ることそのものが演技の説得力になっている感じがあるのだ。もちろん、ピーター・パーカーとしての人懐っこさや脆さは残っている。だがそのうえで、画面に立ったときの引力が以前より強くなっている。この感覚については、後半にも記述しておくつもりだ。
ソニー・ピクチャーズは、時々本当にやってくれる
そして今作を観て改めて思ったのは、ソニー・ピクチャーズは時々、本当にやってくれるということだ。実のところ、スパイダーマン以外のヒーロー物は、うまくいかなかった作品も少なくない。それでもなお、スパイダーマンの映画化権が、少なくとも「良作を作ろうとする努力」を続ける企業の手元に残っていたことには意味があったのではないかと、今作を観て強く感じた。
『ノー・ウェイ・ホーム』という誠実な精算
そのことを考えるとき、前作の『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』はやはり外せない。あれはSony Picturesとマーベル・スタジオの協働による作品であり、単純に「ソニー単独の功績」とは言えないが、あれほど大規模な仕掛けを用いながら、最後にはピーター・パーカーという一人の青年の喪失と責任に着地させたことは見事だった。過去の資産を消費するだけの映画ではなく、それらを主人公の成長と精算の物語へ接続した点で、かなり誠実な作品だったと思う。Sony Pictures
『スパイダーバース』という挑戦
同じことは、『スパイダーマン:スパイダーバース』にも言える。あの作品は、スパイダーマンという人気キャラクターを安全に再生産するのではなく、映像表現そのものを更新するための題材として扱った。ソニー・ピクチャーズ・アニメーションが、あの時点であれだけ大胆な挑戦をやってのけたことは、やはり特筆すべきだと思う。スパイダーマンというキャラクターを「売れるから使う」のではなく、「まだ新しい映画が作れるはずだ」と信じて扱っている気配が、少なくともそこにはあった。Sony Pictures
脚本と人物で魅せるソニーの流儀
ヒーロー映画以外に目を向けても、ソニーの強みは、巨大なスケールに頼らず脚本と人物で勝負する作品を作れるところにある。『マネーボール』のように、限られた条件の中で人物の葛藤と物語の構成だけで観客を引っ張る映画を送り出してきた会社であることは、軽く見ないほうがいい。昔ライバル会社であるワーナーブラザーズ映画である『ソードフィッシュ』の中で「ソニー映画は脚本がいい」と言わせていたのは、単なるジョークではなかったのかもしれない。少なくとも、そう言いたくなる瞬間が今作にはあった。Sony Pictures
スケールのインフレを起こさない強さ
今作の良さは、スケールのインフレを起こしていないところにもある。アベンジャーズ級の巨大危機を毎回更新していく方向ではなく、あくまで街と人間関係のなかでヒーローを描いている。私は以前から「MCUで唯一、借りを返す男」としてスパイダーマンを見てきたのだが、その感覚は今作でも変わらなかった。前作から続く、敵を殺さないという姿勢も健在である。捕らえた相手を完全な悪として処理しないし、相手によっては救おうとすらする。その優しさはしばしば損を呼ぶし、利用もされる。それでもなお、その優しさを捨てないところにスパイダーマンの根っこがある。
今のところ報道ベースの数字ではあるが、今作は『アベンジャーズ/エンドゲーム』のような超巨大作品に比べて6割ほどの予算で作られたそうだ。にもかかわらず、興行の面では最終的には「アベンジャーズ/エンドゲーム」レベルの成績が予想されている。この「小さく作って大きく当てる」感じは、単なるコストパフォーマンスの話ではなく、スパイダーマンという題材に何を求めるかの違いを示しているように思える。何でもかんでも多元宇宙規模にすればいいわけではない。むしろ、街で困っている人間を助けること、人間関係のなかで責任を負うこと、その積み重ねこそがこのキャラクターの本領なのだ。
『アベンジャーズ:ドゥームズデイ』への不安
私はここで、どうしても現在のアベンジャーズ路線との対比を考えてしまう。現時点で公開されている『アベンジャーズ:ドゥームズデイ』の公式情報では、「三つの異なるユニバースから愛されるヒーローたち」が集結し、巨大な脅威に立ち向かう構図が強調されている。もちろん本編を観る前に断定する気はない。だが、予告編や公式ページの見え方から受ける印象としては、また別の場所からヒーローを借り、さらに仕掛けを積み増し、これまでの借金を別の借金で覆い隠して走り続ける映画になるのではないか、という不安がどうしても拭えない。Marvel
もしそうだとしたら、それは『エンドゲーム』以降の問題をさらに大規模に繰り延べることになる。アベンジャーズは、取り返しのつかない喪失を真正面から引き受ける代わりに、取り戻し、ずらし、拡張し、次の作品へ進んできた。その構造自体がフランチャイズとしての強さであり、同時に弱さでもあるのだろう。物語を終わらせないために、代価を確定させないまま走り続ける。その意味でアベンジャーズは、強いけれど信用しにくい。
払い続けるヒーロー、人間の側に留まる男
それに対してスパイダーマンは、払っている。しかも、払ったうえで宇宙の彼方へ跳ぶのでも、神話的な存在になるのでもなく、人間の側に留まり続ける。ここが本当に重要だと思う。彼は特別な存在でありながら、最終的には街の中で生きる一人の青年に戻ってくる。恋人や親友との関係をやり直さなければならず、世間との距離も測り直さなければならず、それでも毎日スーツを着て外へ出る。その姿は、派手な勝利よりずっと誠実だ。
スパイダーマン単独路線という提案
そう考えると、今後のスパイダーマン映画は無理にアベンジャーズ的な集団劇を目指さなくてもいいのではないか、という気持ちが強くなる。トム・ホランドがどこかトム・クルーズ的に見えてきた、という話ともつながるのだが、いっそヒーローはスパイダーマンだけにして、周囲を生身の人間たちで固める方向へ行ってもいいのではないか。『ミッション:インポッシブル』や『オーシャンズ』のように、超人的な一人を中心に置きつつ、物語そのものは人間同士の連携、判断、機転、信頼で動かしていく。スパイダーマンはそういう構成とも相性がいいはずだ。何でもかんでもヒーローを増やす必要はない。むしろ普通の人間たちと一緒にいるときの彼こそが、一番スパイダーマンらしい。
ヒーロー映画黎明期へのリスペクト
また、今作にはヒーロー映画黎明期へのリスペクトも感じられた。サム・ライミ版を思わせる能力表現や、ブライアン・シンガー時代の『X-MEN』を思わせる設定の手触りがある。近年のヒーロー映画が、世界観の拡張と連結のほうへ意識を向けがちなのに対して、今作はもう少し素朴なところへ戻っている。つまり、一人のヒーローが何を守り、何を失い、どう責任を引き受けるのか、という原点である。その原点に立ち返ることが、かえって今の時代には新鮮に見える。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」の回収
だからこそ、シリーズで繰り返し語られてきた「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉が、今作でああいう響きを持ってくるのは感慨深い。詳しくは書かない。ネタバレなしで通したいからだ。ただ、シリーズを追ってきた人ほど、この言葉が単なる標語ではなく、ピーター・パーカーという人間の生き方そのものとして回収されていることに気づくはずである。また、それが彼一人の生き方にとどまらず、他人にも共有されるべき価値観であることも伝わってくる。
そしてこの言葉を、一人の青年の人生訓としてだけでなく、映画産業そのものに向けられたメッセージとして読んでみると、また違う顔が見えてくる。
これは、ディズニー&MCUへのメッセージではないか
先ほどの言葉を、今のハリウッドの構図に重ねてみるとどうだろう。
ディズニーは、マーベル、スター・ウォーズ、ピクサー、20世紀スタジオと、次々にフランチャイズを傘下に収め、映像産業において誰も並び立たないほどの「大いなる力」を手にした企業だ。マーベル・スタジオが展開するMCUは、その力を背景に、複数のユニバースをまたぎ、次々とヒーローを動員し、スケールを更新し続けることでフランチャイズを維持してきた。それ自体を否定するつもりはない。だが、力の大きさに見合うだけの「責任」――一本一本の作品で、キャラクターの人生に落とし前をつけること――が、常に果たされてきたとは言い切れない。むしろ『アベンジャーズ:ドゥームズデイ』に感じる不安は、まさにその責任の所在が曖昧なまま、力だけが膨張していくことへの不安だ。
一方のソニー・ピクチャーズは、スパイダーマンという一人のキャラクターの映画化権しか持たない、相対的には小さなプレイヤーにすぎない。多元宇宙も、アベンジャーズ級の危機も、本来なら単独では抱えきれない規模の物語装置だ。それでもソニーは、その限られた力の中で、スケールを膨らませすぎず、代価を払うこと、人間の側に留まり続けることを選び続けてきた。
つまり『ブランド・ニュー・デイ』という映画そのものが、ソニーからディズニー&MCUへの、ささやかだが芯のある返答になっているのではないか。あの言葉は、劇中のピーター・パーカーにだけ向けられているのではなく、スケールを競い合う業界全体、とりわけそのスケールを最も体現している存在に向けられているのではないか――そんな深読みをしたくなる映画だった。
まとめ ― 返済を始めたヒーローを、信用したい
結局のところ、『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』が良かったのは、単に面白かったからではない。いまのヒーロー映画が失いがちなもの――借りたものをきちんと返し、そのあともなお人間の側に留まり続けること――を、ピーター・パーカーというキャラクターを通してきちんと描いていたからだと思う。Sony Pictures note
だから私は、今後のスパイダーマンに期待してしまう。その一方で、アベンジャーズの新作には不安がある。もしまた別宇宙のヒーローや新たな仕掛けを借りて延命するのだとしたら、それは物語を広げることではなく、精算を避け続けることにしかならないからだ。Marvel
その意味で、『ブランド・ニュー・デイ』は「新しい一日」の物語であると同時に、ようやく返済を始めたヒーローの物語でもある。そして私は、そういうヒーローを、いまのアベンジャーズよりずっと信用したい。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という、シリーズ最古のあの言葉は、いまや業界最大の力を持つディズニーとMCUにこそ、静かに問いかけられているのかもしれない。
