番外編:誰が代償を払うのか——『エンドゲーム』と『攻殻機動隊』、対価をめぐる態度
はじめに
本編は、「減らしてでも存続する」という前提を真正面から拒否してみせた作品がある、と書いて幕を下ろした。その一本が『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)である。だが調べを進めるうち、この番外編は単なる一作品論では収まらなくなった。本編で私が立てた結論——AIとの共存とは、対価を払う覚悟に他ならない——を裏側から照らすには、複数の作品を「対価への態度」という一本の物差しで並べる必要があると気づいたからだ。
払いきる悪役。払わず繰り延べる者たち。払って跳ぶ者。払って、なお留まる者。そして、払わずに済ませる者。順に見ていきたい。
宇宙の調停者としてのサノス——払いきった悪役
まず、悪役から始めるのが筋がいい。
前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年)のサノスは、単なる暴君ではない。宇宙の資源が有限である以上、生命の半分を無作為に消すことが全体の存続に資する——その論理は感情ではなく計算に基づいている。局地的な生命を切り捨てて大局を保つという振る舞いにおいて、彼は『シン・ウルトラマン』のゾーフィと同じ側に立つ。人類が存続してよいか否かを、人類の外側で決定する管理者である。(なお、この資源論はMCU独自の設定であり、原作コミックのサノスの動機は死の概念への求愛という別物である。)
だが、ゾーフィとサノスには決定的な違いが一つある。ゾーフィは執行するだけで、何も失わない。対してサノスは、指を鳴らす代償として自らの半身とも呼べるガモーラを手放し、目的を果たした後は隠棲し、最後は自ら抵抗を諦めて討たれる。彼は自分の論理が要求する対価を、自分の身で払った。悪役でありながら——いや悪役だからこそ——この物語で最初に「覚悟の作法」を示したのは彼なのだ。
アベンジャーズ——払わず、繰り延べる者たち
では、その精算に否を突きつけたヒーローたちはどうか。
指が鳴らされ、宇宙の生命の半分が塵になった。生き残った側には、この喪失を前提に社会を組み直すという道が残されていた。事実『エンドゲーム』の世界では5年が経過し、喪失を織り込んだ静かな均衡が生まれかけている。本編で論じた「無意識の覚悟」の物語が、ここから始まってもおかしくはなかった。
だが、アベンジャーズはそれを是としなかった。量子世界を経由するタイムトラベルという究極の技術を、彼らは『インターステラー』のように「人類を上位存在へ引き上げるため」には使わない。目的はただ一つ、消された半分を取り戻すことだった。
その過程で、彼らも確かに代償を払ってはいる。ソウル・ストーンはナターシャの命を奪い、六つの石の力はハルクの腕を焼き、最後に石を握ったトニー・スタークは死ぬ。ここだけを見れば、彼らもまた対価を払って「人間のまま勝った」ように見える。
しかし、勘定はそれで終わらない。彼らが取り戻した半分が帰り着くのは、5年後の世界である。消えていた者と生き延びた者のあいだには、埋めようのない断絶が横たわる。過去への干渉は分岐した世界を生み、その先で多元宇宙の封が解ける。戻ってきた者たちの居場所、崩れた社会秩序の再建、開いてしまった多元宇宙の混乱——それらの請求書は、ほとんど描かれないまま次のフェーズへ回された。
ここに、フランチャイズという構造の宿命がある。終わらない物語は、代償を確定できない。死んだ者は別宇宙やドラマで戻り、失われた秩序は次作の冒頭でリセットされる。サノスの帳簿は誰の目にも見え、それゆえ恐ろしかった。アベンジャーズの帳簿は見えない。見えないから、支払いが済んだように錯覚できる。上位のシステムが差し出す精算を拒むことは、正しい。だが拒んだ分の請求は消えず、たいていは自分が見ていない場所に届く。彼らは代償を払ったのではなく、帳簿の外へ押し出したのだ。
そして興味深いのは、その押し出された請求書が、どこへ届いたかである。過去改変で無数に枝分かれした時間軸を「危険」とみなし、刈り取ってまわる組織が、後続の物語に登場する。時間変異取締局(TVA)だ。彼らは正史たる「神聖時間軸」だけを是とし、そこから分岐した世界を——当の分岐した者たちの意志とは無関係に——「剪定」し、虚無へ捨てる。単一の秩序を守るために、規格外の存在を外側から淡々と処分する。これはゾーフィの論理そのものであり、TVAはいわばMCU版の宇宙の調停者である。
つまり、こういうことだ。アベンジャーズが「払わずに繰り延べた」借金は、消えたわけではなかった。それは新たな物語の起点となり、その借金を取り立てる管理者を——自分たちを剪定しかねない上位の監視者を——招き寄せた。本編で私は、人類が足掻けば足掻くほど上位存在に危険視されるパラドックスを論じた。エンドゲームからロキへの流れは、その縮図を意図せず演じている。精算を拒んだ者は、より大きな精算者を呼ぶ。無責任のツケは、消えるのではなく、上位から回収されにくる。
ただし、同じMCUの版図の中に、ただ一人だけ例外がいる。ソニー・ピクチャーズと共同で製作された『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021年)のピーター・パーカーだ。自らの願いがドクター・ストレンジの術と噛み合って暴走し、多元宇宙からヴィランを呼び寄せてしまった彼は、その事態を収束させるために、たった一つの方法を選ぶ——世界中の人々から、自分の存在そのものを消すことだ。恋人も、親友も、恩師さえも、ピーターを知っていた記憶を失う。最後にもう一度だけ、恋人に正体を明かして繋がり直すことはできた。だが彼は、それをしなかった。誰にも覚えられず、誰にも感謝されず、スターク社の支援も失い、自宅のミシンでスーツを縫い直してゼロからやり直す。取り戻せる余地を差し出して、彼は払いきったのだ。
エンドゲームが失った半分を「取り戻す」物語なら、こちらは自分の存在を「差し出す」物語である。フランチャイズの中心にありながら、中心が避け続けた「払いきる」を、彼だけが選んだ。製作の血筋が半分だけ外にあること(マーベル・スタジオとソニーが共同で製作)と無関係ではない、と読むこともできる。いずれにせよ、この一人の例外がいることで、無責任とも思えるアベンジャーズの繰り延べがかえって際立つ。そして彼の選択は、草薙素子とは別の答えを指し示してもいる。草薙素子が払って跳んだのに対し、ピーターは払って、なお人間の側に留まった。跳ぶことだけが、対価の払い方ではないのだ。
草薙素子——払って、跳んだ者
対価を正面から払い、しかも前へ跳んでみせた物語が、日本にある。押井守監督『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年)である。
全身を義体化し、脳を直接ネットへ繋いだ公安9課の草薙素子は、電脳世界で自然発生した生命体「人形使い」と対峙する。人形使いが持ちかけたのは、融合だった。二つの存在が溶け合い、個としての境界を捨てて、新たな一個の存在へ生まれ変わる。草薙素子はそれを受け入れる。少女の義体を借りた新しい存在は、街を見下ろしてこう呟く。「ネットは広大だわ」。そして広大な情報の海へと旅立っていく。
これは、本編で論じた「ノア化」——人間が自らの意志で個の枠を超え、より上位の存在へ移行する営み——の、最も静かで最も明確な映像化である。草薙素子が差し出した対価は、他ならぬ「人間としての自分」だった。身体も、性別も、単一の個であることも手放して、彼女は跳んだ。エンドゲームが「人間に留まるために」払ったのとは逆に、草薙素子は「人間をやめるために」払ったのだ。
面白いのは、押井が1995年という年にこれを撮ったことだ。Windows95が発売され、「インターネット」がその年の流行語に選ばれた、まさにネットが社会へ張り巡らされはじめた瞬間。本編で私は、通信インフラを社会に張り巡らされた神経系に喩えた。押井は、その神経系が生まれ落ちる産声の年に、神経系と融合して跳ぶ人間を描いていたことになる。
そして、ハリウッドは跳ばなかった
この物語には、二十年余りを経た後日談がある。2017年、ハリウッドがスカーレット・ヨハンソン主演で実写版を制作した。押井版の象徴的な場面——義体制作、光学迷彩での落下、川井憲次の音楽——を丁寧になぞり、主題を継ごうとした意欲は本物だった。
だが、肝心の結末が違う。ハリウッド版のミラ(草薙素子)が最後に手にするのは、ネットの海への融合ではない。奪われた過去の記憶と、自分は何者かというアイデンティティの回復である。超越して跳ぶ物語が、人間性を取り戻す物語へと、静かに書き換えられていた。
これは示唆的だ。押井版が「個を手放して跳ぶ」ことを肯定したのに対し、ハリウッド版は跳躍を回避し、人間の殻へ着地させた。エンドゲームが減数を拒んで人間に留まったのと、同じ反射である。最大多数の観客に届けようとするとき、超越は避けられ、物語は「人間のまま」へと引き戻される。押井守版という一つの原点の中に、跳ぶ日本版と、跳ばないアメリカ版が、くっきりと分かれて残った。(なお攻殻機動隊には、跳ばずネットワークの中に留まり続ける『S.A.C.』系列など別ルートも存在するが、ここで論じるのはあくまで押井守の劇場版に限る。)
跳んで終わる物語は、続かない
ここで、もう一つの事実に突き当たる。
本編とは別に、私は閑話休題で「実はバッドエンドだった特撮怪獣映画」を論じた。ガメラ3、シン・ゴジラ、シン・ウルトラマン——いずれも人類を過酷な次の局面へ突き落として幕を閉じる、自立エンドの系譜である。そして、そのどれもが直接の続編を持たない。ガメラ3は「完璧な完結」として凍結され、ゴジラは-1.0で世界観ごと作り直し、シン・ウルトラマンの続編は企画止まりのままだ。
なぜか。跳んで終わった物語、あるいは高い代償を確定させて終わった物語は、続編に「その代償を回収する責任」を負わせるからだ。空を覆うギャオスの群れとの戦争を、凍結の下で分裂しかけたゴジラの脅威を、庇護なきサバイバルを——続きを作るなら、本当に描かねばならない。そしてそれは前作より確実に渋く、観客を絞る。映画は次作に今作以上の興行を期待する以上、渋さを約束する続編は生まれにくい。強く煽って閉じた物語ほど、その続きを持てないという逆説がここにある。
アベンジャーズが続けられるのは、その正反対だからだ。代償を確定させず、世界を開いたまま繰り延べる。だからこそ何作でも続く。払って閉じる物語は一度きりで終わり、払わず繰り延べる物語は永遠に続く。皮肉なことに、誠実に代償と向き合った物語ほど、忘却の側へ近づいていく。
もう一つの補助線——庵野秀明という結び目
ここまで作品ごとの態度を並べてきたが、最後に一つ、別の切り口を書き留めておきたい。跳躍を手放したのは、作り手が入れ替わった攻殻(押井版からハリウッド版へ)だけではない。同じ作り手が、時を経て跳躍を手放していった例もある。
そして気づくのは、本編で扱った『シン・ウルトラマン』、閑話休題で論じた『シン・ゴジラ』、さらには自作『エヴァンゲリオン』の新旧——これらに深く関わってきた一人の作家の名が、繰り返し浮かんでくることだ。庵野秀明である。彼が旧劇のエヴァで描いた「個を融かす誘惑」と、新劇でたどり着いた「日常への帰還」のあいだにある変化は、攻殻の日米改変と不思議なほど響き合っている。跳ぶことをめぐる価値観が、作り手の内側で二十数年かけてどう動いたのか——これはこの番外編の器には収まらない。別稿で改めて探りたい。
結び——本編への環
こうして「対価への態度」で並べてみると、いくつもの立ち位置が見えてくる。自らの論理の代償を身で払ったサノス。代償を帳簿の外へ繰り延べたアベンジャーズ。その版図でただ一人、存在を差し出して払いきったスパイダーマン。人間であることそのものを差し出して跳んだ草薙素子。そして、跳躍を回避して人間へ着地したハリウッド版。
本編で私は、AIとの歪な共進化を生き抜く覚悟とは、対価を払う覚悟に他ならないと結論づけた。この番外編は、その裏返しの図録である。払うのか、繰り延べるのか、跳ぶために払うのか、跳ばずに済ませるのか。フィクションが描いてきたこれらの態度は、そのまま、AIというシステムを前にした我々自身の身構えの見本帳でもある。
そして最後に残るのは、あの静かな問いだ。誠実に代償を払って跳んだ物語は、忘れられていくのか。それとも——押井の草薙素子がネットの海へ消えて三十年、いまや我々自身がその海の中で暮らしているように——ただ早すぎただけで、いつか我々がその物語に追いつくのか。
(番外編・了)
