ロジャーズの自己理論とジェンドリンの体験過程理論の関係(下の1) -東畑開人「カウンセリングとは何か」書評 第5回-
これから述べることは、むしろ、
の続きにあたります。
さて、ロジャーズの、

この図のことに戻るのですが。
ここで「自己構造」と言われているのは、「意識」の中にあるものと言っていいです。
これに対する「体験(experience)」というのが、「無意識」なのかというと、
ロジャーズの場合、
厳密にはそうではない
のですよ。
ロジャーズは、
「有機体的経験(organsmic experience)」
という言葉を使っています。
また、「旧」全集の訳でいうと、
「感覚的・内臓的経験 (sensory and visceral experience)」
という、耳慣れない、すごい言葉を使っています。
ロジャーズは
有機的生命体
を、
ホメオスタシスによって、
環境と自律的にバランスを取っていけるもの
だという前提に立っています。
動物はこれだけでうまくやれているわけですね。
ところが人間は、下手に知性と言語を発達させてしまった。
ロジャーズは、人間が、「頭で」概念的に考えることができるようになったものだから、むしろそういう有機体の自然なバランス感覚に逆らったことができてしまうようになったことのマイナス面を強調しているんですよ。
ロジャーズの考え方の基本には、
本能と習性のままに生きている動物たちの方が、
環境と調和して生きているのであって、
人間はその楽園から追放されている
という発想があります。
つまり
「頭でっかち」になった弊害
ですね。
では、動物は何によって自分の心身をコントロールしているのか?
ロジャーズは、身体の感覚へのセンサーだと考えました。
ただし、筋肉の感覚だと勘違いされたくないので「内蔵的」という、すごい言葉を持ってきたわけです。
しかし、実はこの着想は、それまでの心理療法理論にないユニークな視点だったと言えます。
ロジャーズが言いたかったのは
呼吸、
胃の締め付け、
胸の開放感、
腹の重さ
のような、
身体全体が環境との関係を感じ取っている感覚だったということです。
フロイトは、「無意識」とは言いましたし「感情」とは言いましたが、実は純粋の身体性というものをあと一歩整理して位置づけられていないとも言えます。
リビドーという生物学的エネルギーを仮定したわけですが、それが身体で感じられる感覚とどういう関係にあるのか、という説明が意外と不器用なところがあります。
なるほど、口唇期性欲といえば唇の快感、肛門期性欲といえば括約筋とその周辺の皮膚が感じている快感でしょう。
しかし、性欲=リビドー=生物学的エネルギーの全てと言ってしまうと、どうしても言葉足らずのように思えます。
更に、フロイトは、リビドーの本能は「快楽原則」に従うと考えました。
つまり、本能の赴くままに生きたら人間は現実と折り合えない
無法地帯
を生きることになる、
だから現実と折り合うために
意識的な「自我」によるコントロール
が必要だ(=「現実原則」に従わせる)
と考えたわけです。
・・・お気づきになりましたか?
ロジャーズとフロイトの人間観はこの点で正反対なんですよ。
ロジャーズは「有機体」の、
環境と調和する
自律的調整能力
を基本的に信頼すべきと考え、
人間は、
下手に「頭で」考えられるようになったから、
「頭でっかち」になった分だけ、
色々な歪みを溜め込み、
「不適応」になった
と考えているんです。
本能に身を任せたら「無政府状態」になる、
「自我」による統御で、
人間はやっと「現実的」になれるんだ
というフロイトの考え方と、まるで人間観が正反対なわけですね。
ロジャーズが、
「身体で体験された」有機体的経験を、
「自己構造」が全部認識できるようになっていけば
(自己と経験の「一致」に近づけば)、
人はバランスを取れた適応状態になるはず
という時、
有機体的経験の方に、
いかに頭の意識的認識が寄り添えるか、
という、
「身体性を持った生物」としての本来的な在り方に回帰
する方が、
人類も、
「頭でっかち」ではない、より高度で繊細な知性
に突き抜けられるはず、という思想があるわけです。
実は、この発想が、
ジェンドリンとむやみと相性が良かった
わけです。
・・・というあたりであえて寸止めにしてupしたくなりました!!

