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頭でっかちの「概念」と、心身にしっくり来る、生きた「コトバ」では次元が違い、後者のみが人を変化させる……ジェンドリンの体験過程理論の革新 -東畑開人「カウンセリングとは何か」書評 第7回(第一部完結)【第2版】

いよいよ人間性心理学の歴史シリーズ、最終回です!!

ジェンドリンはあくまでも最初は哲学者でした。

ディルタイという、「生の哲学」と呼ばれる、キェルケゴール、ニーチェといった、実存哲学の先駆といわれる人たちの同時代人がいたのですが。

ディルタイ研究がジェンドリンの出発点です。

ドイツ人ですが、ジェンドリン自身、オーストリアのウイーン出身のユダヤ人です。

だから、古い哲学の文献では、Eugene Gendlin=オイゲン・ゲンドリンと表記されたものもあります。

当然、ジェンドリンの初期論文はドイツ語が多く、ディルタイについての考察が博士論文です。

英語で書かれた哲学の集大成が、「体験過程と意味の創造」。邦訳あります。

ユダヤ人迫害を受けて、ジェンドリン一家はアメリカに亡命するわけですが、実はこうした経歴により、ジェンドリンの論文理解のための欠かせない留意点が生じることになります。

つまり、ジェンドリンは、成人しても完全にドイツ語で読み書きし会話する、「ドイツ語脳」だったわけですね。

学者だから当然英語の読み書きできていたとはいえ、頭の中でいちいちドイツ語から英語変換する日常に徐々に適応していった筈。

つまり、ジェンドリンは、論文を「ドイツ語脳」で考えているとみなすのが私から見たら自然、という認識で、最初からいました。

哲学ジャンルはドイツこそ本場中の本場だからなおのこと。

カント「純粋理性批判」をドイツ語で原典購読し、日常会話レヴェルのドイツ語も、大学で良い教師に恵まれていた私には、ジェンドリンの書いた英文の裏側に、ドイツ語の文章が、あたかも「透けて見える」かのような印象が、最初からありました。

ジェンドリンは成人後もドイツ語を第一言語として思考していた哲学者で。したがって、彼の英語論文は、英語として読むだけではなく、「背後にあるドイツ語的発想」を念頭に置いて読む必要があるわけで。

ドイツ語だと格変化のおかげで、主語と目的語を入れ換えても区別できますし、動詞の名詞化容易、「枠構造」を駆使して長大なセンテンス作れるわけですが、ジェンドリン、見事にドイツ語構文のまま英単語化してない?というケースが実はありまして。

だから「この英文はドイツ語でだと、どういう文か?」という想像力要るんですよ。


まず触れておきたいのは、鍵概念である「体験過程」ですが、原文だと”experienncing"と、なんと動名詞なんですね。

これに敢えて「体験過程」と言う定訳を与えた恩師、村瀬孝雄のセンスは非常に卓抜だっと思います。

ただ、おかげで、ジェンドリンが結構、"prosess of experiencing"という表現も使うため「体験過程のプロセス」という訳語を使用せざるを得なくなってます。でも、これはやむを得ないというのが、私の最終判断です。

実は"ing"という接尾辞のみの言い方をジェンドリンは結構好むので。

実はこの"experiencing"に該当するドイツ語が、"erleben”という「動詞」です。これを「名詞の動詞化」原則を適用すれば"Erleben”でいいわけです。

これがデュルタイ哲学鍵概念なんですね。

ヴィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833–1911)の哲学において、Erleben(エアレーベン) は、彼の思想全体を支える最も重要な概念の一つです。

日本語では一般に「体験」と訳されますが、この訳語だけでは本来の意味を十分に伝えられません。

むしろ、

「生きられている経験(lived experience)」
「いままさに生きられている現実」

という意味合いが強い言葉です。

この概念は、その後のフッサールの現象学、ハイデガー、メルロ=ポンティ、ガダマー、そしてロジャーズやジェンドリンの「experience」にまで大きな影響を与えています。


Erlebenという言葉

ドイツ語には

  • erleben(動詞)

  • Erlebnis(名詞)

  • Erleben(名詞)

があります。

erleben

「何かを身をもって経験する」

例えば

Ich habe den Krieg erlebt.

なら

「私は戦争を実際に生き抜いた。」

という意味になります。

つまり

単なる experience ではなく、

人生としてくぐり抜けた経験

なのです。


Erlebenとは何か

ディルタイはこう考えます。

私たちはまず

世界を「考える」のではない。

まず

世界を生きる。

これがErlebenです。

例えば

雨を見る。

科学なら

「水滴が落下している。」

しかし

Erlebenでは

「今日は悲しい。」

「なんだか懐かしい。」

「冷たい空気が身体に入ってくる。」

そういう、

世界が私に直接現れている状態

なのです。

つまり

Erlebenは

主体と客体がまだ分離していない。

「私が世界を生きている」

その出来事そのものなのです。

ハイデッカーの超有名鍵概念、人間存在様式の根本、「世界-内-存在」(In-der-Welt-Sein)の由来がこれです。


Erlebnisとの違い

ディルタイでは

Erleben

流れている生そのもの

そこから

切り取られて

記憶になったもの

Erlebnis

になります。

例えば

音楽を聴いている最中

これは

Erleben

です。

あとで

「あの演奏は素晴らしかった。」

と思い返した時

それは

Erlebnis

になります。

つまり

Erlebenは

現在進行形

Erlebnisは

まとまった体験

という違いがあります。

この意味で、恩師、故・村瀬孝雄が"experiencing"という「現在進行形の動名詞化」にこだわったことは、全くもって妥当で厳密な対処ですね。


なぜこれが重要なのか

19世紀の自然科学は

「世界は客観的に説明できる。」

という立場でした。

しかしディルタイは

人間は

石ではない。

人間には

意味がある。

歴史がある。

人生がある。

と言います。

だから

自然科学は

説明(Erklären)

する。

しかし

人間科学は

理解(Verstehen)

する。

という区別を立てました。

そして

理解の出発点になるものが

Erleben

なのです。


理解とは何か

ディルタイは

私たちは他人を

推論で理解しているのではない

と言います。

例えば

友人が泣いている。

私たちは

「涙が流れている」

というデータから

論理計算して

「悲しいのだ。」

とは考えません。

むしろ

自分のErlebenを通して

相手の生を理解する。

つまり

自分も悲しみを生きてきたから

理解できる。

これが

Verstehen(理解)

なのです。


「生」の哲学

ディルタイは

すべては

Leben(生)

から始まると言います。

図式にすると

生(Leben)

 ↓

生きられている経験
(Erleben)

 ↓

表現
(Ausdruck)

 ↓

理解
(Verstehen)

例えば

失恋する。

苦しい。

(Erleben)

詩を書く。

(Ausdruck)

読者が理解する。

(Verstehen)

これが精神科学の基本構造です。


ところが、日本語で「体験」とか「経験」と書くと、「事実」を指すという客観的現象と受けとられかねないわけですね。

「体験」の「体」という言葉に「身体性を媒介とした経験」という含意を生み出す側面があるわけですが、俗語では「性的(初)体験」という意味になってしまうわけで、これまた厄介です。

ほんとうに「体験過程」という訳語に村瀬がすっぽり落とし込む必要性がありました。

じゃあ、体験した事実を指す"Erlebnis"がドイツ語脳に浮かびかかった時、ジェンドリンがどう英語変換したかというと、"fact of experience"とか、"event"、"affair"などと、精妙にニュアンスを使い分けたのだと思います。

ここでいう、個人の経験=心的現象としての「事実」を、あたかも「もの(実体entitiy)」であるかのように扱う傾向が、心理学、特に臨床心理学にないか?というのが、ジェンドリンの根本的批判です。

実際、"entity"という言葉がジェンドリンの論文には頻出、心的現象は「もの」="entity"的存在ではない、ない、ない!の連呼になります。

例えば、「エディプス・コンプレックス」というものが存在するのか?

確かに、母親への性的な愛情希求→父親的存在からの禁止→抑圧という一連の「段取り」のメカニズムが想定されることになりますし、そういう現象、かなり普遍的にありそう、ということにはなります。

しかし、この一連の流れを、身体性を持った人間の体験世界に対する「現象学的な」記述として表現していくとどうなるかというと、例えば次のようになります。

  1. 母親に対する、何か「異性に対する性的欲求の際に生じることが少なくない」ような、漠然とした曖昧な身体感覚が「もやもやっと」生じてきているという「生理現象」

  2. それに意識主体の注意が向く(体験過程理論用語でいう"refer"

  3. その、注意を向けられた対象としての心像対象化、ただし、この段階では、そこ何か「感じ'feeling"」がある、という認識であり、「どんな」感じか?の命名はまだない。

  4. 「直接のレファランス(direct reference)」=フォーカシング「技法」用語でいう"focus"すること=狭義の「現象としての」"focusing"(池見陽)

  5.  「直接のレファランス(direct reference)」により「対象化」されたのが「直接のレファラント(direct referent)」=フォーカシング「技法」用語でいう"felt sense"(フェルトセンス)

  6. 母親に対して、時々「こ・ん・な」感覚、気分、居心地みたいなものになるパターンがあるよなという再認的認識

でも、これってどんな気持ちよ?

という具体的な言葉自体は容易には浮かばないままでいる。

その体験は独特の印象を持つ「心的風景(atmosphere)」を伴う、身体感覚的体験として認知されているが、
音体験としてあえて比喩的に言えば、こ・ん・な感じって、「一定の音色を持つ複数の楽器の合奏による、ある特定の和音」体験
のようなもの、
あるいは、
素材不明な複雑で曖昧な「味覚」体験・・・こ・ん・な味わい「知ってる」けど、これ何だっけ?
…になる感覚認識体験
なわけですね。

そうこうするうちに、心臓のドキドキとか、顔の紅潮といった身体反応が生起し、情動(emotion)体験となります。

ジェンドリンの体験過程理論においては、かすかで微弱で曖昧な"feeling"(感覚)体験プロセスが生起していく次元を”feeling process"(村瀬訳でいう「感情過程」)と呼び、その所産としての、はっきりとした"emotion"(「情動」)厳密に区別します。

ジェンドリンは、前者を曖昧で漠然としていて、暗々裏(implicit)な無数の細部(detail)を持つ、といいます。

これに対して、"emotion'のこと、"sheer emotion"(単なる情動)と言うことが多く、「のっぺりとしていて、deteailがない」言ってみたりもします。

ちなみに、こうした「情動」体験自体は、フェルトセンス「体験」ではないということにもジェンドリンえらくこだわります。

もちろん、情動を改めて対象化して、直接の注意(direct reference)を向けなおすことで、”direct referent"化し、”felt meaning"=感じられた(何か
意味ありげ
を持つフェルトセンス体験としてとらえなおすことは可能で、そっちが大事と、ジェンドリンは明言しています。

ところが、こうやってジェンドリンが"feeling"(感覚)"emotion"(情動)は関連している相互作用的関係にあるけど、別次元だよ、と口を酸っぱくして述べたのに、村瀬先生は、突如ここで、"feeling process"に「感情過程」という定訳を与えてしまっていたわけです。

これに対して、「これ、やばいっすよ!」とご注進したのが、大学院浪人の私から村瀬先生への文書による連絡の開始でした。

「君なら、どうするかね?」

『感じられつつあるものへ注意を向けて行く過程』でしょうかね?」

クソ長いせいか、今の訳でも「感情過程」のままですが。


いずれにしても、人が体験しているのは、

「母親を前にしていると、いつもこ・ん・な感じになっているな」

という体験なわけです。 

それに対して、フロイト先生が、突如上から目線で、

「それは母親と肉体的な性的交渉を持ちたいという無意識下の抑圧されていた感情です」

という仮説をドカーンと投下したわけです。

それが多くの患者さんの心に響いた、ただそれだけのことですね。

いずれにしても。

「エディプス・コンプレックス」という「もの(entitity)」が、こころという「容れ物」(container)の-中-に-ある「内容(content)」として「存在」する、というのは、ひとつの「比喩」として、結構流通している「社会現象」、という、ただそれだけのことです。

殊に精神分析に関心のある専門家と一般の人の間では認められている、価値ある「コミニュケーション貨幣」みたいなものですね。

この貨幣の価値にまるでピンと来ない人は、精神分析流派の内部にすらゴマンといるわけで。


さて、今、「ピンとこない」という言い方を使ってみましたが、

では、この

「ピンと来ない」って何よ?


という問題設定ができるわけですね。

「心に響かない」という言い方もできるかもしれない。

これって、「論理的に」出した帰結ですかね?

「フィーリング(feeling)にあわない」

ってことなじゃないっすか?

あるいは

「漠然とした違和感が、何かある」

「身体がモヤモヤする」


・・・そういうこと、っしょ?

つまり
人間って、物事全般、まずは、

体感で

判断しているんですね。

理屈は「後で」考えている。


あるいは、

「頭では」わからなくはないけど、

「実感」的に「何か」しっくり来ない。

とかいうこともある。

では、自分がものの見方を変える時、

しかも、

それが自分の在り方を、
実際に変えてくれる時とは、
どんな時か?

・・・

「腑に落ちた」

時ですね。

「腑」=「五臓六腑」の「臓」。

つまり「内蔵感覚」。

そういえば、ロジャーズは「経験(experience)」のことを、「感管的・内臓的(sensory and visceral)」体験、と言っていたけどな。

自分の「身体の」中に、

何かが解(ほど)ける感覚が生じて、

ちょっと楽になる


それまでの気分とは異次元に、

何か変わってしまう。

「身体も」楽になってる。


これが、フォーカシングでいう、

フェルトシフト(felt shift)、


あるいは、体験過程理論的に言えば

「ひらけ(unfolding)」

という、

身体的なリリースを伴う気づき(awakening)の瞬間

です。

実は、

それについての言葉での理解や説明は
この後で、徐々に浮かんで来る

わけですね。

これを体験過程理論では

「全面的な適用(grand application)」

といいます。

こうして、

ものごとへのいろいろな認識が変わって

しまい、大げさにいえば、

世界についての認識が


少しだけど、変わってしまった

というところで、1サイクルですね。

以前と、ちょっとだけ違うステージに出てますから。

これを体験過程のステップが進む、と言います。

この後は、らせん状のスパイラル運動が続いていくことになります。

これが、

「体験過程の位相(phase)の変化」

1ラウンド、

前に進んだ(carry foward)

ということになります。


こうして、
私たちは、結局、

言葉以前の「こ・ん・な」感じになっている、

ということに気づき、
その感じ自体を「対象化」して、
その感じの傍らで、
その感じを大事にして、眺めたり味わったりしているだけで、

何かのはずみで、変わっちゃえる、

わけです。

頭の理屈の整理と再統合は、
あとから徐々に自然と生じる

「副産物」


程度。


まだ学部哲学科から心理系大学院浪人を始めたばかりの5月のゴールデン・ウイークが終わったばかりのある日。

大学生協で、たまたま手に取った、ジェンドリンの「フォーカシング」という本をめくり出した数分後に、すでに勝負がついていました。

この数分で、私の未来の運命が決まった。

このジェンドリンという人、
異次元。
すごく当たり前のことなのに、誰も言ってなかったことを言ってる。

心理学

超革命。

心はコンテンツではない、
「もの」ではない、
「概念」ではない。


身体の中に生じてきている「感じ」それ自体をじっくりと尊重しての、
身体的な対話

である。

アインシュタイン並みの飛躍だ。


ジェンドリンが革命的だったのは、新しい「心の中身」を発見したことではない。

むしろ、「心とは何か」という問いそのものを変えてしまったことだった。

心とは、容器の中に収められた内容(content)ではない。

身体環境との相互作用のなかで、今、この瞬間にも生成し続けている「体験過程(experiencing)」なのである。

心理療法とは、その過程を分析することではなく、

その過程に寄り添い、身体が自ら次の一歩(carry forward)を見出していくのを助ける

営みである。

私がジェンドリンの本を開いて数分で衝撃を受けたのは、この発想の転換だった。

これは心理学の「一理論」ではない。

心理学という学問の「土台」そのものを書き換える「革命」だった。


   

第一部 了



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